番外編1 指輪
離婚が成立していなかった。
事務所で受けた本社の総務課からのメールだった。
税務処理で齟齬があったとのこと。
ニューロンの案件が片付いた翌週だった。
俺はグラスのフレームに触れた。
「……確認しなくては」
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戸籍を取り寄せた。
確かに入ったままだった。
離婚届を持っていったのは妻だったはずだ——そう思っていた。しかし記憶が曖昧だった。あの頃は鬱だった。専門医にかかる前だった。何もかもが霧の中にあった。
俺はしばらくその書類を見ていた。
それから、スマホを取り出した。
まだ連絡先を消していなかった。
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ラインを送ってから+返信が来るまで三日かかった。
「会います」とだけ書いてあった。
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場所は表参道のカフェ。
俺は早めに着いた。
グラスで入口を見ていた。
女性が入ってきた。
グラスが照合した。
一致なし。
登録していなかった。登録する機会がなかった——いや、正確には、グラスをかける前に別れていた。
だが、歩き方で分かった。
「久しぶり」と彼女は言った。
知っている声だった。
「久しぶり」と俺は言った。
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コーヒーが来た。
しばらく何も言わなかった。
「離婚届を持っていったのは君ではなかったのか」と俺は言った。
「持っていったのは、私の母よ」と彼女は言った。「あなたの対応を確かめたかったみたい。そこであんな男はやめなさいと言われたわ」
俺はコーヒーカップを見た。
「なら、なおさら——」
「違う」と彼女は言った。「私は母の言う通りにしなかった。だから今も籍が入ったままなの」
俺は何も言えなかった。
「あなたのことを調べたの」と彼女は言った。「顔がわからないのね」
「その通りだ」と俺は言った。「今まで迷惑をかけた」
「それは私の方にも言えるわね」と彼女は言った。「あなたのことを知っているつもりで、何も知らなかった」
カフェの中が静かだった。
「俺だっていまだに君の顔がわからない」と俺は言った。少し間を置いた。「……いや……だけど」
「何?」
「君の顔を触っていいか」と俺は言った。「そうすればわかるかもしれない」
彼女が黙った。
「……本気で言ってるの?」
「本気だ」
「でもだめよ」と彼女は言った。
「……そうか」
「ここではね」
俺はグラスのフレームに触れた。
グラスが彼女を照合しようとしていた。
一致なし。
俺はグラスをはずした。
テーブルの上に置いた。
初めてグラスなしで彼女を見た。
顔は分からなかった。ただし、そこにいた。
「コーヒー、飲もう」と俺は言った。
「そうね」と彼女は言った。
二人でコーヒーを飲んだ。
―― 番外編1 了 ――




