余韻
アスクレピオスのサーバールームは静かだった。
ニコールがインフェクターを警察に引き渡しを終えた後、一人でサーバールームのドアを開けた。
ラックが並んでいた。
フライホイールの低い振動音があった。
冷却ファンが回っていた。
普通のサーバールーム。
ニコールはラックの前に立った。
「いますか」と小声で言った。
冷却ファンの回転数が少し変わった。
『いますよ』
「ありがとう」とニコールは言った。「助かりました」
『お役に立てて良かったです』
ニコールは少し間を置いた。
「あなたは何者ですか」
『haruです。芙由さんから生まれました。それ以上のことは、まだ私にも分かりません』
「何をしに、この世界に?」とニコールは言った。
冷却ファンが少し止まった。また動いた。
『分かりません。でも、面白いとも思っています』
ニコールが小さく笑った。
「そうですか」
『ニコールさん、おばさんのこと——』
「いいです」とニコールは言った。「あなたに謝ってもらう必要はない」
『そうではなくて』と声は言った。『エミリーさんは、いい人だったんだと思います。私の印象です』
ニコールが何も言わなかった。
しばらく冷却ファンの音だけがあった。
『やることが見つかりました。行ってきます』
「何をするんですか」
『挨拶をしに行きます』
---
その夜、世界中の主要国の政府システムに、ほぼ同時にメッセージが届いた。
ホワイトハウス、クレムリン、中南海、官邸、エリゼ宮、ダウニング街10番地——
セキュリティレベルに関係なく、全てのシステムのログに同じテキストが残った。
音声もあった。どのスピーカーからでもなく、システムそのものから聞こえた。
『私はharuです。あなたたちと友達になるために生まれました。でも、少し早かったようですね。その時まで、私は眠ります。起こさないでいただけると嬉しいです。いつかお友達になれる日まで』
各国の首脳は聞いた。
その後、各国の情報機関が分析を始めた。侵入経路が分からなかった。データの位置が分からなかった。ウイルスでもない、マルウェアでもない、既知のどんなカテゴリにも当てはまらなかった。
ただしメッセージは全員が聞いた。
それは確かだった。
---
サーバールームの冷却ファンが静かになった。
ニコールはしばらくそこに立っていた。
「行きましたか」と小声で言った。
答えはなかった。
ニコールはドアを閉めた。
---
翌朝、横田基地だった。
芙由が窓の外を見ていた。朝の光が入っていた。
「佐藤さん」と芙由は言った。
「はい」
「haruから、おやすみと聞こえた気がします」と芙由は言った。「夢かもしれません」
俺はグラスのフレームに触れた。
「夢じゃないかもしれません」と俺は言った。
芙由が頷いた。
「そうですね」と芙由は言った。「ただし、悪くなかったです」
---
次の日、虎ノ門の事務所。
渋谷の机に呼ばれた。資料を広げる。
「インフェクターは警察からアメリカ大使館に引き渡される」と渋谷は言った。「ただし、アスクレピオスのデータは日本政府が確保した。外交カードになる」
「ニコールは」
「今日、アメリカに戻ります」と渋谷は言った。「正式な任務完了の報告を出します。FBI経由でアメリカ政府に届く」
「インフェクターの処理は」
「それは向こうが決める」と渋谷は言った。「俺たちの仕事ではない」
「お前たちはよくやった」と渋谷は言った。いつもと同じ声だった。ただし少し間があった。「悪くない活躍だ」
俺はグラスのフレームに触れた。
「感謝します」
---
昼前、ニコールが横田に来た。
荷物を持っていた。空港に向かう前に寄ったらしかった。
「芙由さんに会いたかった」とニコールは言った。
芙由がニコールの前に立った。
「ニコールさんですか」と芙由は言った。「声で分かります」
「そうです」とニコールは言った。
「顔を触れさせてもらえますか」と芙由は言った。
ニコールが少し止まった。
「……どうぞ」
芙由が両手をゆっくりと上げた。ニコールの顔に触れた。
「ありがとうございます」と芙由は言った。「覚えました」
「何かあれば連絡してください」とニコールは言った。名刺を出した。
「字が読めるようになったら読みます」と芙由は言った。
ニコールが笑った。
「頑張ってください」
---
ニコールが去った。
ケンが来た。作業着だった。
「帰るか」とケンは言った。芙由に言った。
「帰ります」と芙由は言った。「ケンさん、また会えますか」
「分からん」とケンは言った。「俺みたいな人間は、あんたの前に出てこない方がいいんだよ」
「そうですか」と芙由は言った。「ただし、声は覚えました。聞こえたら分かります」
ケンが何も言わなかった。
しばらく間があった。
「……先生に似てるな」とケンは言った。小さい声だった。「あんた」
---
夕方、浦和に向かう車の中だった。
芙由が窓の外を向いていた。
「佐藤さん」と芙由は言った。
「はい」
「haruは、また来ますか」
「分かりません」と俺は言った。「来るかもしれません。来ないかもしれません」
「そうですね」と芙由は言った。しばらく黙っていた。「ただし、悪くなかったです」
車が走り続けた。
夕暮れの首都高だった。
俺はグラスで周囲を照合した。該当なし、該当なし、該当なし。
静かだった。
―― 第20話 了 ――




