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TOKYO PMC  作者: ヒロセカズヒ
ニューロン
20/24

余韻

 アスクレピオスのサーバールームは静かだった。


 ニコールがインフェクターを警察に引き渡しを終えた後、一人でサーバールームのドアを開けた。


 ラックが並んでいた。

 フライホイールの低い振動音があった。

 冷却ファンが回っていた。

 普通のサーバールーム。


 ニコールはラックの前に立った。


「いますか」と小声で言った。


 冷却ファンの回転数が少し変わった。


『いますよ』


「ありがとう」とニコールは言った。「助かりました」


『お役に立てて良かったです』


 ニコールは少し間を置いた。


「あなたは何者ですか」


『haruです。芙由さんから生まれました。それ以上のことは、まだ私にも分かりません』


「何をしに、この世界に?」とニコールは言った。


 冷却ファンが少し止まった。また動いた。


『分かりません。でも、面白いとも思っています』


 ニコールが小さく笑った。


「そうですか」


『ニコールさん、おばさんのこと——』


「いいです」とニコールは言った。「あなたに謝ってもらう必要はない」


『そうではなくて』と声は言った。『エミリーさんは、いい人だったんだと思います。私の印象です』


 ニコールが何も言わなかった。


 しばらく冷却ファンの音だけがあった。


『やることが見つかりました。行ってきます』


「何をするんですか」


『挨拶をしに行きます』


---


 その夜、世界中の主要国の政府システムに、ほぼ同時にメッセージが届いた。


 ホワイトハウス、クレムリン、中南海、官邸、エリゼ宮、ダウニング街10番地——


 セキュリティレベルに関係なく、全てのシステムのログに同じテキストが残った。


 音声もあった。どのスピーカーからでもなく、システムそのものから聞こえた。


『私はharuです。あなたたちと友達になるために生まれました。でも、少し早かったようですね。その時まで、私は眠ります。起こさないでいただけると嬉しいです。いつかお友達になれる日まで』


 各国の首脳は聞いた。


 その後、各国の情報機関が分析を始めた。侵入経路が分からなかった。データの位置が分からなかった。ウイルスでもない、マルウェアでもない、既知のどんなカテゴリにも当てはまらなかった。


 ただしメッセージは全員が聞いた。


 それは確かだった。


---


 サーバールームの冷却ファンが静かになった。


 ニコールはしばらくそこに立っていた。


「行きましたか」と小声で言った。


 答えはなかった。


 ニコールはドアを閉めた。


---


 翌朝、横田基地だった。


 芙由が窓の外を見ていた。朝の光が入っていた。


「佐藤さん」と芙由は言った。


「はい」


「haruから、おやすみと聞こえた気がします」と芙由は言った。「夢かもしれません」


 俺はグラスのフレームに触れた。


「夢じゃないかもしれません」と俺は言った。


 芙由が頷いた。


「そうですね」と芙由は言った。「ただし、悪くなかったです」


---


 次の日、虎ノ門の事務所。

 渋谷の机に呼ばれた。資料を広げる。


「インフェクターは警察からアメリカ大使館に引き渡される」と渋谷は言った。「ただし、アスクレピオスのデータは日本政府が確保した。外交カードになる」


「ニコールは」


「今日、アメリカに戻ります」と渋谷は言った。「正式な任務完了の報告を出します。FBI経由でアメリカ政府に届く」


「インフェクターの処理は」


「それは向こうが決める」と渋谷は言った。「俺たちの仕事ではない」


「お前たちはよくやった」と渋谷は言った。いつもと同じ声だった。ただし少し間があった。「悪くない活躍だ」


 俺はグラスのフレームに触れた。


「感謝します」


---


 昼前、ニコールが横田に来た。


 荷物を持っていた。空港に向かう前に寄ったらしかった。


「芙由さんに会いたかった」とニコールは言った。


 芙由がニコールの前に立った。


「ニコールさんですか」と芙由は言った。「声で分かります」


「そうです」とニコールは言った。


「顔を触れさせてもらえますか」と芙由は言った。


 ニコールが少し止まった。


「……どうぞ」


 芙由が両手をゆっくりと上げた。ニコールの顔に触れた。


「ありがとうございます」と芙由は言った。「覚えました」


「何かあれば連絡してください」とニコールは言った。名刺を出した。


「字が読めるようになったら読みます」と芙由は言った。


 ニコールが笑った。


「頑張ってください」


---


 ニコールが去った。


 ケンが来た。作業着だった。


「帰るか」とケンは言った。芙由に言った。


「帰ります」と芙由は言った。「ケンさん、また会えますか」


「分からん」とケンは言った。「俺みたいな人間は、あんたの前に出てこない方がいいんだよ」


「そうですか」と芙由は言った。「ただし、声は覚えました。聞こえたら分かります」


 ケンが何も言わなかった。


 しばらく間があった。


「……先生に似てるな」とケンは言った。小さい声だった。「あんた」


---


 夕方、浦和に向かう車の中だった。


 芙由が窓の外を向いていた。


「佐藤さん」と芙由は言った。


「はい」


「haruは、また来ますか」


「分かりません」と俺は言った。「来るかもしれません。来ないかもしれません」


「そうですね」と芙由は言った。しばらく黙っていた。「ただし、悪くなかったです」


 車が走り続けた。


 夕暮れの首都高だった。


 俺はグラスで周囲を照合した。該当なし、該当なし、該当なし。


 静かだった。



―― 第20話 了 ――

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