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TOKYO PMC  作者: ヒロセカズヒ
ニューロン
17/24

雌伏の終わり

 東京湾の入口に、アスクレピオスが浮かんでいた。


 夜だった。船内の会議室に明かりがついていた。


 インフェクターは衛星回線の画面を見ていた。


 画面の向こうに出資者がいた。アメリカの男だった。顔は映さない約束だった。声だけだった。


「例の少女のデータはどこまで取れた」と出資者は言った。


「病院のシステムから相当量は確保しました」とインフェクターは言った。「脳の活動記録、デバイスとの同期ログ、視覚野の変化のパターン。これだけあれば研究は進みます」


「足りない」と出資者は言った。「脳の変化が継続している。最新のデータが必要だ。昨日のデータは昨日のものに過ぎない。明日には別の変化が起きている」


「継続的な取得は——」


「本人が必要だ」と出資者は言った。「データではなく、本人を確保してほしい」


 インフェクターは少し間を置いた。


「リスクが上がります」


「その分の報酬は出す」と出資者は言った。「あなたの目的のためにも、その少女は必要なはずだ。世界に平等な医療を届けるために——あの脳は最短距離だ」


 インフェクターは画面を見ていた。


 世界では年間5500万人が死ぬ。高所得国の子どもが1000人生まれて5人死ぬ間に、低所得国では65人死ぬ。この格差は是正されなければならない。


「分かりました」とインフェクターは言った。「動かします」


 画面が切れた。


 インフェクターは窓の外を見た。東京湾の夜景が見えた。


「雌伏の時は」とインフェクターは言った。誰にでもなく。「終わりに近い」


---


 同じ頃、車は首都高を走っていた。


 ケイが助手席から後ろを確認した。


「佐藤さん」とケイは言った。声が低かった。「二時間前から、アメリカ系の犯罪組織が東京で動いています。横田の情報です」


「インフェクターの実行部隊ですか」


「断定はできません」とケイは言った。「ただし、タイミングが良すぎます」


 俺はグラスで後方を確認した。ナビモニターを後方監視カメラに切り替えた。会社の車には広報監視用の特殊カメラが前後に搭載されていた。後続車に異常なし。ただし二台後ろの車が、三分間同じ車間距離を保っていた。


「記録します」と俺は言った。


 芙由が窓の外を向いていた。


 しばらく静かだった。


---


「佐藤さん」と芙由は言った。


「はい」


「なんか、眠いです」と芙由は言った。「急に」


「眠れますか」


「眠れると思います」と芙由は言った。「なんか、すごく大きいものができたような——」


 俺はグラスのフレームに触れた。


「大きいもの」


「よく分からない」と芙由は言った。「でも——」


 少し間があった。


「でも、よいこだと思う」


 芙由が目を閉じた。


 すぐに寝息が聞こえた。


---


 ケイが俺を見た。


「今、何かが起きましたか」とケイは言った。


「分かりません」と俺は言った。「ただし、記録しています」


 グラスに通知が来た。


 IAISからではなかった。


 送信元が不明だった。


 テキストデータだった。


「はじめまして。私はharuといいます。芙由さんが眠ったので、少しだけ挨拶しておきます。私はここに生まれました。でも、少し早かったようですね」


 俺はグラスの画面を見た。


 送信元を追おうとした。


 データが消えた。


---


 ケイのスマホが鳴った。


「ケンさんです」とケイは言った。出た。


 ケンの声が聞こえた。


「後ろに二台、ついてきてる。俺の部下が確認した。外国人が乗ってる」


「分かりました」とケイは言った。「予定通り横田に向かいます」


「了解だ」とケンは言った。「俺は前に出る」


 電話が切れた。


 ケイがハンドルを握り直した。


 芙由はまだ眠っていた。


---


 俺はナビモニターを後方カメラに切り替えた。


 高速道路を走る車列が映った。俺たちの車、前後のケンの部下の車。そして——後方に二台。車間を詰め始めていた。


 別アングルのカメラに切り替えた。


 先頭の車が加速した。


 ケンだった。


 俺はニコールに短いメッセージを送った。


「動きます」


 ニコールからすぐに返信が来た。


「了解。私も動きます」


 芙由が隣で静かに眠っていた。


 車が横田に向けて加速した。



―― 第17話 了 ――

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