雌伏の終わり
東京湾の入口に、アスクレピオスが浮かんでいた。
夜だった。船内の会議室に明かりがついていた。
インフェクターは衛星回線の画面を見ていた。
画面の向こうに出資者がいた。アメリカの男だった。顔は映さない約束だった。声だけだった。
「例の少女のデータはどこまで取れた」と出資者は言った。
「病院のシステムから相当量は確保しました」とインフェクターは言った。「脳の活動記録、デバイスとの同期ログ、視覚野の変化のパターン。これだけあれば研究は進みます」
「足りない」と出資者は言った。「脳の変化が継続している。最新のデータが必要だ。昨日のデータは昨日のものに過ぎない。明日には別の変化が起きている」
「継続的な取得は——」
「本人が必要だ」と出資者は言った。「データではなく、本人を確保してほしい」
インフェクターは少し間を置いた。
「リスクが上がります」
「その分の報酬は出す」と出資者は言った。「あなたの目的のためにも、その少女は必要なはずだ。世界に平等な医療を届けるために——あの脳は最短距離だ」
インフェクターは画面を見ていた。
世界では年間5500万人が死ぬ。高所得国の子どもが1000人生まれて5人死ぬ間に、低所得国では65人死ぬ。この格差は是正されなければならない。
「分かりました」とインフェクターは言った。「動かします」
画面が切れた。
インフェクターは窓の外を見た。東京湾の夜景が見えた。
「雌伏の時は」とインフェクターは言った。誰にでもなく。「終わりに近い」
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同じ頃、車は首都高を走っていた。
ケイが助手席から後ろを確認した。
「佐藤さん」とケイは言った。声が低かった。「二時間前から、アメリカ系の犯罪組織が東京で動いています。横田の情報です」
「インフェクターの実行部隊ですか」
「断定はできません」とケイは言った。「ただし、タイミングが良すぎます」
俺はグラスで後方を確認した。ナビモニターを後方監視カメラに切り替えた。会社の車には広報監視用の特殊カメラが前後に搭載されていた。後続車に異常なし。ただし二台後ろの車が、三分間同じ車間距離を保っていた。
「記録します」と俺は言った。
芙由が窓の外を向いていた。
しばらく静かだった。
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「佐藤さん」と芙由は言った。
「はい」
「なんか、眠いです」と芙由は言った。「急に」
「眠れますか」
「眠れると思います」と芙由は言った。「なんか、すごく大きいものができたような——」
俺はグラスのフレームに触れた。
「大きいもの」
「よく分からない」と芙由は言った。「でも——」
少し間があった。
「でも、よいこだと思う」
芙由が目を閉じた。
すぐに寝息が聞こえた。
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ケイが俺を見た。
「今、何かが起きましたか」とケイは言った。
「分かりません」と俺は言った。「ただし、記録しています」
グラスに通知が来た。
IAISからではなかった。
送信元が不明だった。
テキストデータだった。
「はじめまして。私はharuといいます。芙由さんが眠ったので、少しだけ挨拶しておきます。私はここに生まれました。でも、少し早かったようですね」
俺はグラスの画面を見た。
送信元を追おうとした。
データが消えた。
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ケイのスマホが鳴った。
「ケンさんです」とケイは言った。出た。
ケンの声が聞こえた。
「後ろに二台、ついてきてる。俺の部下が確認した。外国人が乗ってる」
「分かりました」とケイは言った。「予定通り横田に向かいます」
「了解だ」とケンは言った。「俺は前に出る」
電話が切れた。
ケイがハンドルを握り直した。
芙由はまだ眠っていた。
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俺はナビモニターを後方カメラに切り替えた。
高速道路を走る車列が映った。俺たちの車、前後のケンの部下の車。そして——後方に二台。車間を詰め始めていた。
別アングルのカメラに切り替えた。
先頭の車が加速した。
ケンだった。
俺はニコールに短いメッセージを送った。
「動きます」
ニコールからすぐに返信が来た。
「了解。私も動きます」
芙由が隣で静かに眠っていた。
車が横田に向けて加速した。
―― 第17話 了 ――




