顔
浦和の家に着いたのは夕方だった。
ケイが先に中を確認した。問題なし、と手で示した。
芙由が両親と居間にいた。母親が荷物をまとめていた。父親は静かに座っていた。
ケンが玄関から入った。
芙由が顔を上げた。
視線の向きが、ケンのいる方を向いた。
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「あなたがケンさんですか」と芙由は言った。
ケンが止まった。
「……なんで知ってる」
「わかります」と芙由は言った。「なんとなく」
ケンが俺を見た。俺は何も言わなかった。
「そうか」とケンは言った。「俺はケンだ」
芙由が立ち上がった。
「私、まだ人の顔がよく分かりません」と芙由は言った。「あなたとは、この事が終わったら会えないだろうと思うんです」
「……そうだな」
「だから」と芙由は言った。少し間があった。「私に顔を触らせてください」
ケンが黙った。
母親が荷物をまとめる手を止めた。
「触ったら、私は顔が分かるんです」と芙由は言った。
ケンがまた黙った。
少し間があった。
「……こんなおっさんの顔でいいなら」とケンは言った。「好きなだけ触りな」
「ありがとうございます」
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芙由が近づいた。
両手をゆっくりと上げた。ケンの顔に触れた。
額から始めた。眉、目の周り、鼻筋、頬。ゆっくりと丁寧に動いた。指が記憶しているような動きだった。
ケンは動かなかった。
目を閉じていた。
俺は壁際に立っていた。何も言わなかった。言う必要がなかった。
芙由の指が止まった。
「分かりました」と芙由は言った。「ありがとうございます、ケンさん」
ケンが目を開けた。
「俺の方こそ」とケンは言った。声が少し低かった。「先生に、ちゃんと伝えられる気がした」
芙由が頷いた。
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出発の準備が整った。
父親が玄関でケンに頭を下げた。
「娘をよろしくお願いします」
「任せてください」とケンは言った。「先生に誓います」
母親が芙由を抱きしめた。何も言わなかった。
芙由が「行ってきます」と言った。
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車に乗った。
前後にケンの部下の車が付いた。ケイが助手席にいた。俺は芙由の隣だった。
芙由が窓の外を向いた。見えているのか見えていないのか、俺には分からなかった。
「佐藤さん」と芙由は言った。
「はい」
「ケンさんの顔、怖くなかったです」と芙由は言った。「でも、優しい顔でした」
俺はグラスのフレームに触れた。
「そうですか」
「佐藤さんの顔も、いつか触らせてもらえますか」
「……構いません」と俺は言った。
「ただし悪くなさそうですね」と芙由は言った。
車が走り始めた。
ケンの車が後ろについた。
横田まで、一時間だった。
―― 第16話 了 ――




