第十五話「感情は空へ昇っていく」-1-
六月最初の水曜日。昨日まで数日空を雨雲が覆っていたが、今日は雨雲が消え去り、強い日差しと強烈な湿気でじめじめした日本らしい夏日を迎えていた。
「うーん……困ったなあ」
月音優菜は下校後、いったん自宅に帰ったのだが、気分転換のために散歩がてら出かけていた。
頭を悩ませながら駅前の本屋に入る。優菜行きつけのお店だ。大型書店と比べるとひと回りも二回りも小さく、新しい本との出会いに心が躍る感覚は少ないが、そのぶん心が落ち着く店舗だった。
書店内は冷房が効いていて涼しい。首や額に張り付いた汗が冷やされ、体温が奪われていく心地よさがあった。
涼みながら、気ままに平積みされた本を眺めていく。しかし、頭の中の悩みに脳のリソースを割かれ、本のタイトルをひとつひとつ確認することもできなかった。
「うーん……あれ?」
顔を上げると、奥の棚の前に見知った横顔があった。白いブラウスと黒いスカート、ゆるく上品なパーマのかかった金髪の少女、アスラだ。手にはA4サイズの本が一冊あった。
優菜は心を躍らせながら、そろりそろりと彼女に近寄っていく。手が届く距離まで近づいても彼女が優菜に気づいた様子はなかった。集中して棚を見つめているらしい。
このまま気づいていないふりをして去ったほうがいいかな、と思うが、いたずら心が勝った。優菜は彼女の耳元で囁く。
「アスラちゃん」
「わっ」
アスラは猫のようにビクッと跳ねる。額には汗が滲んでいた。彼女は寒い国の出身らしいので、日本のじめじめした夏は大変に違いない。
「こんにちは。奇遇だね」
「優菜さん……こんにちは」
「今日暑いね」
「はい。日本の夏に耐えられるか、本格的に不安になってきました」
「まだまだ暑くなるからね〜。……あ、それって」
優菜はアスラが手にしていた本に目を向ける。
小学校低学年向けの日本語の本だった。それを見られたことが恥ずかしかったのか、彼女は本を両手で胸に抱えて表紙を隠した。
「恥ずかしがることはないよ。そういえば、日本語の会話はできるけど文字を読み書きするのは苦手なんだっけ」
「は、はい。そうなんです」
優菜は先ほどアスラが見つめていた棚を見上げる。その棚に置いてある本たちを見て、優菜は頬を綻ばせた。
「お勉強偉いね」
「ありがとうございます。その……、お会計してきます」
「ここの本は買わなくていいの?」
「大丈夫です……見ていただけですので」
「そっか。アスラちゃん、この後ちょっといい? 相談したいことがあって」
「え? あ、はい」
アスラはそそくさとレジへ向かっていく。そんなアスラの背中を見ながら、優菜の頭に新たな悩みがふたつ発生していた。
ひとつは、どうしてアスラがここにいるのかということ。通っている中学校は隣町だと言っていたし、映画に行ったときも彼女だけ住む方面が違うから現地集合にしていたのだ。どうして地元でもなんでもない駅の、なんの変哲もない本屋にいるのか。この近くに用事があったのだろうか。
もうひとつは、首元。暑いからか、彼女はいつも首元に巻いているリボンをつけておらず、第一ボタンも外していた。そこから黒いチョーカーが見えたのだ。
単なるおしゃれかもしれないが、そのチョーカーには見覚えがあった。
「今ね、星輝の弟の運動会の保護者競技に出てくれる人を探してるの」
本屋の外で優菜はアスラに事のあらましを説明していた。
話しながら、彼女はアスラの首元に目をやる。フリルのネクタイはなかったが、ボタンは締められ、チョーカーが見えなくなっていた。
「星輝の弟の晃くんと幹斗くんの小学校の運動会が次の土曜日にあるんだけど、ふたりとも保護者競技にも出るみたいなの。しかも晃くんが紅組で幹斗くんが白組で、同じ競技に相手として出ることになっちゃったから、保護者がふたり必要になってね。で、星輝とお父さんが出る予定だったんだけど、お父さんがお仕事で行けなくなっちゃって」
優菜は困ったように眉を八の字にする。
「星輝さんは、お母さまや祖父母はいらっしゃらないのですか」
「うん。お母さんは亡くなってるの」
優菜は少し声を落として説明した。
「お爺ちゃんお婆ちゃんはさすがに競技に参加できるほど体力がないみたいで」
「そうなのですか」
アスラは静かに頷く。
「それでね、お父さんの代わりにまずわたしが声をかけられたんだけど、その日は朝に家の用事があってさ。昼一番の運動会に間に合うか分からなくて。次に瑞季が声をかけられたんだけど——」
優菜はそこで言葉を切り、少し悪戯っぽく笑みを浮かべると、瑞季の口調を真似てみせた。
「『ええっ!? わ、私が人様に見られながら体を動かすなんて、そんな、めっそうもない……! お願いだから、それは最後の最後の、もうどうしようもなくなったときの、最終手段だと思って! 世界最弱の最終兵器だと!』……って」
「ふふっ」
優菜のモノマネに、アスラは思わず吹き出して、可憐な笑い声を漏らした。
「瑞季さんらしい、言い回しですね」
「でしょ?」
優菜もくすくすと笑う。
「瑞季のこういうところ、わたし好きなんだよね」
どうやらアスラも、瑞季の少し変わった言い回しがツボに入ったらしい。ふたりの間に、和やかな空気が流れる。
「それでね、『運動部の子とかに声かけてみたら?』って言ったんだけど、『お父さんやお母さんが中心の保護者競技に、運動部の子を連れていったらガチすぎるでしょ! それはそれで浮くからヤダ!』って星輝が言うものだから……。他のクラスの子にも何人か声をかけてみたんだけど、なかなか都合が合う子がいなくてね。どうしようかなあって、ちょっと途方に暮れていたところに、ちょうどアスラちゃんが目の前に現れたってわけなの!」
優菜は、まるで救世主を見つけたかのように、きらきらした目でアスラを見つめる。
「そうなのですか……」
アスラは優菜の熱意に少し気圧されたように、一歩後ずさる。
優菜は思う。
アスラは押しに弱いと。
もうひと押し! と一歩前に出て上目遣いでお願いするように問いかける。
「どうかな? 運動会に出てくれない?」
「え、ええっと……」
アスラは困ったように視線を左右に泳がせた。指先を小さくもじもじさせながら、何かを考え込んでいる。
「予定、空いてないかな……? もし忙しかったら、全然気にしないでね!」
「あ、いえ、予定は……その日は特に何もありません、大丈夫です。でも」
アスラは言い淀み、きゅっと口元を手で軽く押さえた。視線が足元のタイルの模様をさまよう。運動会に出ることと、何か別のことを、頭の中で天秤にかけているようだった。
しばらく考えた後、アスラはふっと息を吐き、自信なさげな瞳で優菜を見つめた。
「あの……。私でよろしければ……ぜひ、お願いします」
「ほんと!? やったー!」
優菜は思わず小さく飛び跳ねて、満面の笑みで喜んだ。
「ありがとう、アスラちゃん! 星輝、すっごく喜ぶと思う! さっそく連絡しなきゃ!」
嬉々としてバッグからスマートフォンを取り出した優菜だったが、すぐに「あ!」と素っ頓狂な声を上げた。
「ごめんごめん、言い忘れてた! 大事なこと! アスラちゃん、明日の夕方って、空いてる?」
「空いています」
「よかった……!」
優菜はほっと胸を撫で下ろす。
「明日、星輝の家の近くで、保護者競技の練習をする予定なの。時間は……だいたい今くらいの時間からかな。ごめんね、わたしは生徒会の仕事があって、ちょっと参加できないんだけど、アスラちゃん来れる?」
「練習、ですか」
アスラは小首を傾げる。
「あの、保護者競技というものは、そんなに練習が必要なほど激しいものなのでしょうか……?」
「ううん、全然そんなことないよ! 競技の勝敗で点数が入るわけでもないんだけど、ただ、ほら、星輝の家族ってみんな揃って負けず嫌いだからさ。特に星輝本人が『やるからには勝つ!』ってやる気満々で……」
優菜は少し呆れたような、でも楽しそうな表情で付け加えた。
「ふふ……。なんとなく、星輝さんにはそのようなイメージがありますね」
アスラも納得したように微笑んだ。
「でしょ? だから、練習っていうか、顔合わせみたいな感じかな。じゃあ、明日、この駅前の広場で待ち合わせるように星輝に連絡しておくね! 動きやすい格好で来てね」
優菜は手際よく言うと、早速スマートフォンを操作して星輝にメッセージを送り始めた。その嬉しそうな横顔を見ながら、アスラもまた、少しだけ楽しみな気持ちになっている自分に気づいたのか、小さく微笑むのだった。




