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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十五話「感情は空へ昇っていく」

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第十五話「感情は空へ昇っていく」-2-

 夕暮れ時の河川敷は、心地よい風が吹き抜けていた。茜色に染まり始めた空の下、広々とした草地では、サッカーボールを追いかける子供たちや、犬の散歩をする婦人の姿が見られた。

 そんな中、星輝と、優菜から頼まれたアスラ、そして星輝の弟である晃と幹斗の四人が集まっていた。

 目的は、来たる運動会の保護者競技、二人三脚の練習だ。

「よーし、じゃあ早速練習始めっか!」

 星輝が元気よく号令をかける。集まっていたみんながおのおの返事をする中、アスラは短く「はい」と返事した。

 アスラは、上下黒のスリムなジャージ姿だった。上着のチャックは、涼しげな表情とは裏腹に、首元が隠れる一番上までしっかりと閉められている。彼女が常に身につけている翻訳機能付きのチョーカーを隠すためだ。

 ……優菜さんにはおそらく見られてしまったけれど、星輝さんや瑞季さんにはまだ見つかっていないはず。

「アスラちゃん、その格好暑くない? 大丈夫?」

 星輝がカラッとした調子で尋ねる。

 夕方とはいえ、充分に夏らしい陽気だった。

「ええ、大丈夫です。私はどちらかというと寒がりなので」

 アスラは、にこりと微笑んで答えた。しかし、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。正直なところ、暑くてたまらなかった。アスラの故郷である極北の地では、夏の最も暑い時期でもこれくらいの気温になるかどうか。その上、日本は湿度が高く、体感温度は気温の数値よりもずっと高かった。

 この暑さが夏の始まりに過ぎないなんて……。

「そっか? ならいいけど……。無理すんなよ?」

「はい」

「じゃあ、晃! ちゃんとアスラさんに挨拶しろよ」

 星輝に促され、晃と呼ばれた少年——星輝の弟で、五年生の紅組代表らしい——が、アスラの前に緊張した面持ちで立った。まだ小学生らしい、あどけなさが残る顔立ちだ。

「あ、アスラさん! きょ、今日はよろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる晃に、アスラは優しく微笑みかける。

「はい、晃くん。こちらこそよろしくお願いしますね」

「は、はい! よよよよろしくおねがいしまっす!」

 誰がどう見ても、ガチガチに緊張している様子だった。

 アスラには、なぜ彼がここまで緊張しているのか分からない。単に人見知りな性格なのかな、と漠然と思う。

 アスラが目を合わせていると、晃の視線がふいっと下がり、そのまま一点で止まった。どうやら、無意識のうちにアスラの胸元あたりを見つめてしまっているらしい。途端に、晃の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 その瞬間、パシッ! と乾いた音が響いた。星輝が晃の頭頂部を引っ叩いたのだ。

「いてっ」

「レディの胸を直視するんじゃない。スケベ小僧め」

「仕方ないだろ! 姉ちゃんのまな板に目が慣れて——いってえええ!!」

「ぶん殴るぞ」

「もう殴ってる! 二回も!」

 微笑ましい姉弟喧嘩を目の当たりにして、アスラは自然と頬が緩むのを感じた。彼女にも姉はいるが、あのような屈託のない、じゃれ合いのようなやり取りをした記憶は、遠い昔にしかない。どこか羨ましく、心が温かくなるような光景だった。

「……ふふ、仲が良いのですね。なんだか、見ていて微笑ましいです」

 アスラがそっと声に出し、姉弟に向かって柔らかく微笑むと、晃は「えへへ……」と照れくさそうに笑い、星輝も「まあな!」と得意げに胸を張った。

「よーし! そろそろ練習入ろうか!」


 星輝と幹斗のペアと、アスラと晃のペアは、それぞれ練習場所を分けることになった。互いに五メートルほどの距離を取り、向かい合う形になる。

「じゃあ、紐、結びますね」

 晃が、運動会で使うのであろう、赤白の布製の紐を取り出し、アスラの右足首と自分の左足首に手際よく結びつけ始めた。その真剣な横顔は、先ほどの緊張が嘘のように、頼もしく見える。

「アスラさんは、二人三脚って、やったことありますか?」

「はい、ありますよ。私の故郷でも、これとよく似たお遊戯がありましたので。確か、晃くんと同じくらいの年齢の頃に、学校の行事でやったのが最後だったでしょうか」

「へえ、そうなんですね! あ、紐、結び終わりましたけど……結びごこち、どうですか? きつくないですか?」

 晃が、少し心配そうに尋ねる。

「どのくらいが適切な強さなのかはよく分かりませんが、特に痛みもありませんし、おそらく問題ないかと思います」

 アスラがそう答えると、晃は「よ、よかった……」と安堵の息を漏らした。

「おーい、晃ー! 準備できたかー?」

 少し離れた場所から、星輝の声が飛んでくる。

「うん、できたよー!」

「外側の足と内側の足、どっちから出すかくらいは、ちゃんと決めとけよー!」

「それくらい、分かってるって!」

 晃は姉に向かって叫び返すと、アスラに向き直った。

「アスラさん、外側の足と内側の足、どっちからスタートしたいですか?」

「うーん……。では、外側の足からにしましょうか。まずはお互いの歩幅を確認したいので」

「はい、分かりました!」

 外側の足。すなわち、アスラにとっては左足、晃にとっては右足から、ということになる。

「確か、日本では『せーの』という掛け声で始めるのが一般的でしたっけ」

「そうです! 『せーの』で、まず一歩目。そこからは、『いち、にっ、いち、にっ』て感じでリズム取ります。『いち』が外側の足で、『に』が内側の足、って感じです」

「なるほど、わかりました」

 ふたりは、少しぎこちなく肩を組んだ。隣に立つ晃からは、緊張と興奮が入り混じったような、子供らしい体温が伝わってくる。

「では、行きますよ。……せーのっ」

 アスラの合図で、ふたりは同時に外側の足で慎重に踏み出した。アスラは晃よりも十センチ以上背が高いため、自然な歩幅では合わない。アスラは意識して、普段よりも少し狭めに足を踏み出した。隣の晃の足元を確認すると、彼の踵は、アスラの踵よりも少し前に出ている。アスラに合わせて、彼なりに大きく踏み出そうと意識しているのが見て取れた。

「晃くん、そんなに無理して歩幅を大きくしなくても大丈夫ですよ。今の私の歩幅より、ほんの少しだけ狭いくらいで歩くのが、ちょうどいいと思います」

「いえ、おれがアスラさんに合わせるので、アスラさんは自然な歩幅でいいですよ!」

「でも、歩幅を無理に広げるのは大変ですが、狭めるのは比較的簡単ですから。ここは私が晃くんに合わせますね」

「あ……は、はい! ありがとうございます!」

 ふたりは一旦、踏み出した足を元の位置に戻し、改めて息を合わせる。

「せーのっ!」

 再び、外側の一歩を踏み出す。今度は踵の位置がぴったりと合った。晃の歩き方も、先ほどよりずっと自然に見える。

「素晴らしいです、晃くん。呼吸が合ってきましたね。このまま、中の足も行ってみましょう」

 アスラが微笑みかける。

「はい! せーのっ」

 アスラは左足が引っ張られるのを感じた。タイミングがややずれてしまったらしいが、特に問題のない範囲内だった。

「せーのっ!」

 外、内、外、内……。一歩ずつ、ぎこちなかった動きが滑らかになっていく。互いのリズムを探り合い、調整していく。一歩ごとに、ふたりの呼吸と動きの精度が上がっていく確かな感覚があった。

「おお、なんかうまくいってるかも!」

 晃の声が興奮で上擦っている。アスラからも自然と笑みがこぼれた。

「そうですね、とてもいい感じです。では、次は最初から、『いち、に、いち、に』のリズムで行ってみましょう」

「はい! よーし、いったん、あそこの階段の横にある木を目指しましょう!」

 晃が、目標地点を指差す。

「分かりました。では、行きますよ」

「せーのっ!」

「いち!」

「にっ!」

「いち!」

「にっ!」

 ふたりの息は、驚くほどぴったりと合っていた。まるで、最初からひとつの生き物であったかのように、スムーズに、危なげなく前へと進んでいく。

 アスラはリズムを数えながらも、隣の晃の様子を気にかけていた。彼の横顔は、興奮で紅潮し、真剣そのものだ。もはや、こちらを気にしている余裕はないらしい。最初の緊張はどこへやら、晃の持ち前の元気さが前面に出てきて、一歩一歩の動きが、次第に力強くなってきた。それに伴い、彼が発する「いち、にっ」という掛け声のテンポも、少しずつ速くなっていく。歩幅も、無意識のうちに広がってきているようだ。

 このままでは、また足がもつれてしまう危険がある。アスラは少し声量を上げ、カウントのペースを戻そうと試みた。

「いーち……、にーい……」

 しかし、興奮状態にある晃の耳には、その微妙なペースダウンは届いていなかったようだ。彼は、アスラの意図とは裏腹に、さらにぐんぐんとペースを上げていく。ついに、アスラは彼のスピードについていけなくなり、内側の足を上げるタイミングが、コンマ数秒、遅れてしまった。

「あ……っ!」

 その、ほんのわずかなずれが、命取りとなった。結ばれた足と足がもつれ合い、バランスを崩す。アスラと晃は、互いに支え合うこともできず、そのまま横倒しになるようにして、河川敷の柔らかな草むらへと倒れ込んでしまった。

「わっ! ご、ごめんなさい、アスラさん!」

 草まみれになりながら、晃が慌てて謝る。

「いえいえ、こちらこそ、うまくついていけずにすみません。お怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫! ちょっと膝、打っちゃったけど、全然平気! アスラさんは?」

「私も大丈夫です。草むらで助かりましたね」

 アスラは、草むらにぺたんと座り込んだまま、いたずらっぽく微笑んでみせた。

「おーい! 大丈夫かー!」

 星輝が遠くから駆け寄ってくる。彼女の腰のポケットからは、まだ使われていない二人三脚用の紐が覗き、彼女が走るたびにぴょこぴょこと揺れている。どうやら、星輝と幹斗のペアは、まだ足に紐を括りつけずに、歩幅合わせの練習をしていたらしい。

 それを見て、晃が「あ、そっか……。まず紐なしで練習すればよかったんだ……」と、今更ながらに呟いた。

「大丈夫だって! 転んだけど、アスラさんもおれも、全然ケガしてないから!」

 晃が、姉に向かって元気に答える。

「そっか。あんまり無理すんなよ」

 星輝はそう言うと、また幹斗との練習に戻っていった。

「……ごめんなさい、アスラさん。おれ、ちょっと焦りすぎました……」

 申し訳なさそうに頭を下げる晃。

 アスラは優しく微笑む。

「いいんですよ。失敗も、大切な練習のうちですから。それに、晃くんの『勝ちたい』という強い気持ちが、私にもよく伝わってきました」

「あはは……。姉ちゃんに負けたくなくて」

 晃は照れくさそうに笑う。

「あの、紐、いったん外して練習しますか?」

「いいえ」

 アスラは静かに首を振った。

「先ほどの感じだと、あとはペース配分さえ気をつければ、うまくできそうでしたから。このまま続けましょう」

 アスラ自身も思いの外興奮していた。

 負けたくない——!

「もう一度チャレンジしましょう。立てますか?」

 アスラは、すっと軽やかに立ち上がると、まだ座り込んでいる晃に向かって、そっと手を差し伸べた。晃は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「はい!」と元気よく返事をし、アスラの手を取った。

 片足が紐で繋がれているため、晃が立ち上がると、ふたりの身体は自然と密着するような距離になる。晃の顔が、また少し赤くなった。

 アスラは、照れている晃の様子には気づかないふりをして、そのまま彼の肩に手を回した。

「もし、またペースが乱れ始めてきたと感じたら、私がこうしますね」

 そう言って、晃の肩を人差し指で、とん、とん、と優しく叩いた。

「名案ですね! うん、叩かれたらペースを落とします。おれ、歌でもそうなんだけど先走っちゃいがちだから、教えてくれると嬉しいです」

「はい。精一杯サポートします」

「よーし! 次は絶対に失敗しないぞ! アスラさんが一緒なら、おれ、なんだってがんばれます!」

 晃は拳を握りしめ、意気揚々とガッツポーズを決めた。

「期待していますよ、晃くん」

 アスラは心からの笑顔で応えた。

 ふたりは「せーの」と息を合わせ、前へ前へと進んでいく。

 アスラはすっかり自分の潜入任務など忘れ、ただの年相応の少女として、いち、に、いち、に、と楽しく数えていた。


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