第十五話「感情は空へ昇っていく」-3-
練習が一段落つき、休憩を取ることになった。
アスラは手の甲で汗を拭いながら、斜面に腰を下ろして練習を見守っていた瑞季の元へと歩み寄った。瑞季は、木陰の中からペットボトルのお茶を差し出す。
「おつかれさま、アスラちゃん。どうだった? 初めての日本の運動会練習は」
「はい。とても楽しかったです」
アスラは差し出されたお茶を受け取り、小さく頭を下げた。
「晃くん、とても素直でいい子ですね。一生懸命で」
ジャージの中は思った以上に汗で蒸れていた。早くこの上着を脱ぎたい衝動に駆られるが、チョーカーを隠すためには仕方がない。
「ふふ、アスラちゃんも、すっかり優しいお姉ちゃんって感じで、見てて微笑ましかったよ~。晃くん、完全にアスラちゃんにホの字だったよね」
「……ほのじ?」
聞き慣れない言葉に、アスラは小首を傾げた。その純粋な疑問符を浮かべた表情を見て、瑞季は楽しそうに説明する。
「あはは、『ホの字』っていうのはね」
瑞季は指で宙にカタカナのホの字を書いた。
「一目惚れしちゃってるってこと。まあ、アスラちゃんみたいな、綺麗で優しい年上のお姉さんと、あんな風に密着して二人三脚なんてできちゃったら、晃くんくらいの男の子なら、そりゃあドキドキしちゃうよね~。……うーん、でも、あれで晃くんの性癖が変な方向にねじ曲がってないといいけど……。いや、待てよ? アスラちゃんに惚れるなら、むしろそれは健全中の健全か……。これは良質なおねショタ……。尊い……ぐふふ……」
瑞季はひとりで何やらブツブツと呟き始め、次第に怪しい笑い声を漏らし始めた。そして、はっと我に返り、慌てて取り繕う。
「あ、ご、ごめん、アスラちゃん! よくわかんないこと言っちゃったよね」
「い、いえ、お気になさらないでください。いつものことですので」
「いつものこと!? そんなに頻繁に変なこと口走ってたの私!?」
瑞季が本気でショックを受けている様子に、アスラはくすくすと笑い出した。
練習を続ける星輝と幹斗、休憩しながら彼らに声をかける晃に目を向ける。アスラには、眩しすぎて少し胸が痛む光景だった。
「……弟さん、星輝さんにすごくフランクに……対等に話していましたね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「ん? まあ、姉弟だし、あんなもんじゃないかなあ。……私はひとりっ子だからよく分からないけど」
「そういう、ものなのですね」
「アスラちゃんは、兄弟がいるの?」
瑞季が尋ねた瞬間、アスラの表情から、ふっと明るさが消えた気がした。
「……はい。姉がいます。私は、お姉さまに頭が上がりません」
姉——ナーサには常に敬語で話している。それは、単なる尊敬だけではなかった。
「星輝さんと弟さんが……少しだけ羨ましいかもしれません」
ぽつりと漏れた本音に、アスラ自身が少し驚いた。
「……そっか。あんまり、仲良くないの? ——あ、ごめん! もし、答えたくなかったら、全然答えなくていいからね!」
「いえ……」
アスラは小さく首を振った。
「……昔は、とても仲が良かったと、思います。ずっとふたりで一緒にいましたから。姉は、いつも頼りない私のことを、力強く引っ張ってくれました。さきほど瑞季さんは『すっかりお姉ちゃんしてた』と仰ってくださいましたが、あれはただ、姉からかけてもらった優しい言葉や、してもらったことを思い出しながら、晃くんに接していただけなのです」
遠い日の、失われてしまった日々。
それを辿るように、アスラの声は切なく揺れた。
「……でも、何年も前のことです。私が、お姉さまの逆鱗に触れるようなことを言ってしまって。それ以来、私たちの関係は姉妹というより、まるで……」
まるで、召使いとその主人のような——。
そこまで言いかけて、アスラははっと口をつぐんだ。
「——いえ、なんでもありません。忘れてください」
ナーサはアスラを姉妹として扱わなくなり、気安く接することを禁じられた。
でも、姉と一緒にいたくて。
その結果、自ら召使いのように姉に接し始め、ナーサもその他人行儀な距離感を許した。姉以外に周囲にいたのは、血の繋がりのない大人ばかり。学校でも周囲と馴染めず、友達がいなかった。いつしかアスラは、敬語ではない話し方を忘れてしまっていた。
瑞季は、それ以上何も聞かなかった。アスラが抱える事情の深さを察したのか、ただ、静かに頷いた。
「そっか。うん……。まあ、いろんな姉妹の形があるよね。……いつか、アスラちゃんが、お姉さんと仲直りできる日が来ることを、私も祈ってるよ」
瑞季の優しい言葉が、アスラの心に、じんわりと沁みた。
「……ありがとうございます。瑞季さん」




