第十五話「感情は空へ昇っていく」-4-
アスラと瑞季が木陰で言葉を交わしている頃、斜陽が照りつける河川敷では、星輝と幹斗が動きを止めていた。幹斗は、ぜえぜえと肩で息をし、膝に手をついてその場にへたり込みそうになっている。額から滴り落ちる汗が地面に小さな染みを作り、その小さな身体は限界を迎えて震えていた。
「……疲れた……もう、ムリ……」
幹斗の諦めを滲ませた声。
そんな弟の姿を見て、ペットボトルのスポーツドリンクを飲みながら草地に腰掛ける晃が、呆れたように眉をひそめた。
「おい、幹斗。その程度でバテるのかよ? ちょっと走り込んだだけだろ? だらしねえなあ」
晃の言葉には悪気がないのかもしれない。
だが、それは疲労困憊の幹斗の心に、鋭く突き刺さった。
「……うるさいな! 僕は……! 僕は、兄ちゃんや姉ちゃんみたいに、運動が得意じゃないんだ……!」
幹斗は顔を上げて叫んだ。その声は震え、長い間抑え込んできた苦しみと悔しさが、堰を切ったように溢れ出していた。
活発で何でもそつなくこなす兄。
運動神経抜群で、いつも明るい姉。
そんなふたりと比べて、運動が苦手な自分……。
幹斗は、その差をいつも痛いほど感じていたのだ。運動会は、そんな惨めな自分を晒す罰ゲームのようなものだとさえ思っていた。
兄弟の間に走るピリッとした不穏な空気。それを敏感に感じ取った星輝が、足の紐を解いて晃へ近寄った。
「こら、晃。あまり幹斗を煽るんじゃない。得意不得意は人それぞれなんだから。それに、勉強だったらおまえが幹斗に負けてるだろ」
「うっ……。で、でも、おれ四年生だし! 二年生にはさすがに負けないって!」
「ふーん? でも、幹斗の成績はおまえの二年生の頃より、ずっと良かったけどなー?」
星輝がニヤリと笑いながら指摘すると、晃はぐうの音も出なくなった。
幹斗は一瞬顔を上げる。先ほどの幹斗の悲痛な叫び声を聞きつけたのだろう、アスラと瑞季が、心配そうな表情でこちらへ歩いてきていた。
幹斗は、そんな周囲の視線から逃れるように、再び膝に手をつく。うつむいたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……運動会なんて、嫌いだ。僕みたいに運動できない人は……みんなの前で、かっこ悪いところを見せて……みじめな思いをするだけなんだから」
その小さな背中は、細かく震えていた。
「……幹斗くん」
そっと、優しい声がかかった。
アスラだった。
彼女は、幹斗の前にそっとしゃがみ込むと、彼の冷たくなった手を、両手で優しく握った。そして、彼の顔の高さよりも少し低い位置から、彼の顔を覗き込むようにして語り始めた。
「私の故郷では、人の気持ちはすごく軽くて、空へと昇っていくものだと言われています。だから、心の中に捨てたい思いがあるなら、下を向くのではなく、空へ向かって飛ばしてしまうのがいい、と」
「あ……それ、なんか、知り合いが似たようなこと言ってた」
瑞季が、ぽつりと呟いた。
その『知り合い』とは、おそらく空の邦の王子ことだろう。感情がエネルギーとなり空へ昇るという概念は精霊たちが持つ思想であり、精霊に支配された長い歴史を持つアスラの故郷でも、同様の考え方が根深く存在していた。
アスラは瑞季の言葉に頷き返しつつ、再び幹斗へと視線を戻し、優しい声で続ける。
「……幹斗くん。気持ちは、すごくよく分かります。私も、運動はあまり得意ではありませんでしたし、幹斗くんと同じように思ったことも、何度もあります。人前で運動なんてしたくない、失敗したら恥ずかしい、って……。でもね、これだけは覚えていてほしいんです」
アスラは、幹斗の手を、さらに優しく握りしめた。
「あなたの大切な人……お姉さんやお兄さん、ご家族やお友達は、ぜったいに、あなたの失敗を笑ったりしません。もし、あなたの失敗を笑う人がいたとしても、それは、いつだってあなたにとって、ちっとも大切ではない人です。そんな人のことなんて、気にする必要はありません」
アスラの言葉は静かだったが、不思議な説得力を持っていた。
「それでも、嫌な声というものは、どうしても耳に入ってきてしまいますし、心に棘のように刺さって、溜まってしまうこともあります。……そういうものは、全部お空に向かって、ぽーんって飛ばしちゃいましょう。きっと、俯いているよりも、すっきりすると思いますよ」
アスラの言葉は、魔法のように、幹斗のかたくなだった心を少しずつ溶かしていくようだった。
うつむいていた幹斗が、ゆっくりと顔を上げる。その目にはまだ涙が浮かんでいたが、先ほどのような絶望の色は消えていた。
「……そうそう!」
今度は晃が幹斗の肩を抱え、少し照れくさそうに言った。
「さっきは、だらしない、とか言っちゃって悪かったな、幹斗。でもさ、もし幹斗がちょっとでも頑張りたいって思うんなら、おれは、ちゃんと背中を押してやる気はあるんだぜ? 運動会では、紅組と白組で敵同士だけどさ、それ以前に、おれたち兄弟だもんな! ……な、姉ちゃん!」
「ああ。当然だ。ウチら家族の絆は最強だからな!」
星輝は、力強く頷いた。
「幹斗。おまえは周りのことなんか気にしないで、後悔しないように全力で挑めばいいんだよ。たとえ本番でこけたって、転んだって、大丈夫だ! ペアを組むこの、最強で最高の姉ちゃんが、最大限カバーしてやるからな!」
星輝は、ドン、と自分の胸を叩いてみせた。その姿は頼もしく、温かかった。
兄と姉からの励まし。そして、アスラの優しい言葉。それらが、幹斗の中に眠っていた、小さな闘争心に火をつけた。
そうだ、本当は負けたくないんだ。運動は苦手だけど、それでも諦めたくなんてないんだ——。
「……わかった」
幹斗はぐっと涙を堪え、頷いた。
そして、ペアである姉に向かって宣言した。
「……やるからには、絶対勝とうね、姉ちゃん!」
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「アスラさん!」
今度は、晃が幼い手をアスラの手に重ねた。
「おれたちも、絶対に負けないですよね!」
「ええ。当然です」
アスラもまた、勝負師の顔になり、きっぱりと言い放った。
「私たちペアが、勝ちます」
アスラの強気な発言に、星輝は目を丸くした。
「おっ、アスラ、意外と強気なんだな! いいじゃん、そういうの!」
「か、かっこいいです! アスラさん!」
晃は、目をきらきらと輝かせ、憧れの眼差しでアスラを見つめていた。
夕暮れの河川敷に、子供たちの元気な声と、それを見守る優しい笑顔が溢れる。先ほどまでの沈んだ空気は、すっかり吹き飛んでいた。幹斗の心には運動会への憂鬱さではなく、目の前の壁に立ち向かおうとする、確かな勇気が灯っていた。




