第十五話「感情は空へ昇っていく」-5-
運動会当日。快晴ではないまでも、晴れ間が広がっていた。繋小学校のグラウンドには、色とりどりの万国旗がはためき、子供たちの元気な声援と、保護者たちの賑やかな話し声、そして軽快なマーチの音楽が混ざり合い、独特の熱気に満ちている。アスラは、その喧騒の中にいながら、どこか地に足がつかないような、ふわふわとした感覚の中にいた。
これから、アスラと晃のペアは「保護者対抗二人三脚リレー」に出場する。先日、河川敷で練習したとはいえ、大勢の観衆の前で走るというのは、アスラにとって初めての経験だ。
失敗したらどうしよう。
転んで恥をかいたらどうしよう。
もし、何かの拍子に正体がバレてしまったら……。
考えれば考えるほど、不安がじわじわと染み広がっていく。手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
アスラと晃が所属するのは紅組。グラウンドの一角に設けられた待機エリアの中、アスラは落ち着かない様子で、小さく深呼吸を繰り返していた。隣に立つ晃も緊張しているのか、しきりに足元の小石を蹴っている。彼の顔は、先日の練習の時のような自信に満ちたものではなく、やはり不安の色が濃い。
「……アスラちゃん、顔、真っ青だよ? 大丈夫?」
ふいに、背後から優しい声がかかった。
振り返ると、瑞季が心配そうな表情で立っていた。彼女は競技に出場しないので、観客席にいるはずだった。
「あ……瑞季さん」
その声は、自分でも驚くほど細かった。
「アスラちゃん、めちゃくちゃ緊張してそうだね」
「は、はい……」
アスラは俯き、自分の足元を見つめた。ジャージの裾を無意識にぎゅっと握りしめる。
「そっか……。うん、そうだよね。こんなにたくさんの人が見てるんだもんね。緊張するよね。あ、そうだ。優菜はさっき到着したよ。間に合ってくれてよかった」
「そう、ですか」
「もしかして、知り合いが多いと余計に緊張しちゃう? 余計なこと言っちゃったかな」
「いえ……大丈夫です」
「そっか」
瑞季は無理に励ますでもなく、ただ静かにアスラの気持ちに寄り添うように頷いた。そして、少し屈んで、アスラの顔を覗き込むようにして微笑んだ。
「……でもね、アスラちゃん。だいじょうぶ」
アスラの冷たい右手が、瑞季の手に包まれる。
「あなたには、私がいる」
その声には、不思議な安心感があった。
しかし、すぐに「あ……」と照れたように頬を掻く。
「……なーんて、私なんかにそんなこと言われても、ちっとも頼もしくないかな……あはは」
自嘲気味に笑う瑞季だったが、その表情はとても優しかった。
「……実はね、これ、私の大好きなヒーローのセリフなんだ」
瑞季は少し遠くを見るような目で、懐かしむように続けた。
「子供の頃に見たテレビ番組のヒーローなんだけどね。そのヒーローが、ピンチになった仲間によく言ってたセリフなんだ。『だいじょうぶ。あなたには、私がいる』って。……私ね、その言葉を聞くたびに、すごく勇気をもらってた。嫌なことがあっても、大好きなヒーローが一緒にいてくれるなら、きっと大丈夫だって、頑張れるって。……そう思って、今まで、何度もピンチを乗り越えてきたんだ」
瑞季の言葉は、アスラの心にじんわりと温かい光を灯すようだった。
ヒーロー……。
アスラの世界には、そのような存在は物語の中にしかいなかった。だが、瑞季にとって、それは現実の支えとなっているのだろう。
そのとき、アスラの左手がぬくもりに包まれた。
「おれもいるよ、アスラさん」
「晃くん」
ふたつの熱が、じんわりとアスラの心の奥深くに染み始めていた。
瑞季は晃に笑みを向けた後、再びアスラへ向かって続けた。
「今すごく色々と考えちゃってると思うんだ。失敗したらどうしよう、とか、恥ずかしい、とか……。ついつい、余計なことをぐるぐる考えちゃうかもしれないけど……」
瑞季は、アスラの肩に、そっと手を置いた。
「そういうときはね、心の中で叫ぶんだ。考える前に、走っちゃえ! ってさ」
「考える前に……」
瑞季の言葉が、魔法のようにアスラの心のもやを少しずつ晴らしていく。
そうだ、考えすぎても仕方がない。今は、隣にいる晃くんと、そして応援してくれる瑞季たちを信じて、ただ、自分の全力を尽くすだけ。
「……はいっ」
アスラは顔を上げ、力強く頷いた。その瞳には、もう不安の色はなかった。代わりに、レースに臨む確かな決意の光が宿っていた。
「瑞季さん、ありがとうございます。……なんだか、すごく、勇気が出ました」
「うん! よかった!」
瑞季は、アスラの変化を見て、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「アスラちゃん、すごく緊張してそうだって、優菜が心配しててさ。優菜は急いで来たばかりで疲れてそうだったから、代わりに私が来ちゃった。頑張ってね、アスラちゃん、晃くん! 応援してるから!」




