第十四話「奴隷」-5-
八年前。
すべてのデシリル・ジェムがヘヴンの手に堕ちる前日のこと。
空の邦はヘヴンの侵略の前に陥落し、屈辱的な降伏を余儀なくされていた。
カスパールは、占領された空の邦の城の一室に静かに佇んでいた。そこは贅を凝らした王座の間だった。壁には金糸銀糸を用いた豪奢なタペストリーがかけられ、磨き上げられた床は大理石。天井には、精霊の不思議な力によってだろうか、どこまでも広がる美しい青空が映し出され、閉塞感のある城の一室とは思えないほどの、奇妙な開放感を与えていた。
だが、その華やかさとは裏腹に、部屋に満ちているのは重く冷たい空気だった。
部屋の中央には、まるで打ち捨てられたかのように、大きな猫のぬいぐるみが力なく横たわっていた。その首には、銀色に鈍く光る金属製の首輪が嵌められ、そこから伸びる鎖の先は、部屋の隅に立つヘヴンの兵士が握っている。そのぬいぐるみこそ、空の邦の国王だった。今は魔力を吸われ、満足に動くこともできないでいる。ただじっと、目の前の豪奢な玉座に腰掛ける仮面の男を、色褪せた瞳で見据えている。
その仮面の男こそ、ヘヴンの指導者であり、彼らの住む邦の英雄、ジン。カスパールは、そのジンのすぐ隣に、影のように控えていた。
「王よ。貴殿の言う『禁書』とやらは、無事見つかった」
ジンは仮面の下から感情の読めない声で告げた。その声は、部屋の静寂に染み入るように響く。
「しかし、残念ながら我々は精霊の言語の解読に長けているわけではない。その内容を理解するには相当な時間と労力を要するだろう。故に、禁書の内容を熟読しているであろう者にその内容をヒアリングしたいと考えた。それが、本日の『会議』の主なテーマだ。まさか国王自らが、この『会議』に参加していただけるとは。実に光栄の至りだ」
ジンの言葉には、慇懃無礼な、それでいて相手をじわじわと追い詰めるような、粘つくような響きがあった。
「白々しいニャ」
空の邦の王は、か細く、しかし侮蔑の色を隠さない声で吐き捨てた。
王がそう言うのも、無理からぬことだった。カスパールも内心では同意する。なにしろ、その『禁書』の内容を正確に把握しているのは、光の連邦に属する各国の王族、それも限られた者だけだとされているのだから。
ジンの後方には、空の邦の子供たちが数匹、青ざめた顔で地面に座っていた。彼らの小さな首にもまた、王と同じように冷たい金属製の首輪が嵌められ、そこから伸びる鎖を、屈強なヘヴンの兵士たちが飼い犬のリードのように掴んでいる。ある子供は王に希望の眼差しを向け、ある子供は恐怖に震えながら、ただ黙って俯いていた。
「……相手を脅しつる『尋問』を、『会議』などと呼ぶとはな。悪趣味にも程があるニャ。人間の良識というものを、疑わざるをえないニャ」
「奇しくも、我々人間の側に伝わる歴史によれば、五百年前の戦争において精霊が人間に対し、まさしく我々がしているようなことをした、と記されている。王よ、その『禁書』とやらには、そのように書かれてはいないか」
ジンの言葉は静かだが、鋭い刃のように王の心を抉った。
「……書かれている、ニャ」
長い沈黙の後、王は絞り出すようにそう認めた。
「だろうな」
まるで満足げに頷くような言葉だが、彼は頬杖をついたまま微動だにしなかった。
「王よ。貴殿の口から、禁書に描かれた戦争の真実を聞かせてほしい。この戦争の敗者である、我々人間に。そして」
ジンは、ゆっくりと背後の子供たちの方へ視線を向けた。
「貴殿の後ろにいる、偽りの歴史を教え込まれてきた、いたいけな子供たちに」
「……」
王は、ただ黙って目を伏せるだけだった。
「言いづらいか。では、我々の国に伝わる歴史書の内容を、私が話そう。もし、その内容と貴殿の知る『禁書』の記述に齟齬があるのであれば、指摘してほしい」
ジンは、王に選択の余地を与えず、一方的に話を始めた。
「古き時代。精霊たちは無の邦の人間たちを拉致し、デシリル・アンプを探させるため、貴殿たちが『闇の邦』と呼ぶ我々の故郷へと送り込んだ。膨大な数の人間を使役する非道な人海戦術の結果、精霊たちは見事にひとつ目のデシリル・アンプを発見した。しかし、ふたつ目以降は、そう簡単には見つからなかったようだ。結局、五つすべてのデシリル・アンプを発見するまで、実に三百年もの長き歳月を要したという。……その間、精霊たちは労働力確保のため、無の邦から人間を攫い続けた。その正確な総人数を把握することは、もはや誰にも不可能だが……一説によれば、延べ数百万人にものぼるとも言われている。——王よ。意見するところはあるか」
「……ないニャ。拉致した人間の正確な人数は、禁書にも記されてはいない」
「精霊にとって、我々人間の存在価値など、数字として記録するにすら値しない、ということか」
ジンの言葉にはまるで起伏がない。言葉には嘲りが含まれているが、語調にはそれが含まれない。
彼は続ける。
「すべてのデシリル・アンプが見つかってからは、精霊による組織的な人攫いの数は、いくらか減ったという。いや、正確には、国益に資するであろうと判断された、優秀な科学者や技術者といった人材のみを、選択的に引き抜くという方針に切り替えた、と表現すべきか。そして、我が邦に残された、もはや利用価値がないと判断された多くの人間たちは、文字通り、奴隷として扱われるようになった」
王は口を挟まず、身体を縮こませてじっと聞いている。
「精霊の力の前では、生身の人間など無力。だが、それでも人間は諦めなかった。無の邦から連れてこられた優秀な者たちを中心に、精霊に隠れて画策を始めたのだ。時には、精霊の持つ力そのものから着想を得て、皮肉にも、我々の世界の科学技術は飛躍的な進化を遂げることになった」
カスパールは、ジンの言葉を聞きながら、自国の歴史を反芻していた。
無の邦に比べて、カスパールたちが住む邦は人口が遥かに少ない。にも関わらず、一部の科学技術においては、無の邦を凌駕するほどの発展を遂げている。それは、この精霊への抵抗の歴史の中で培われてきたものだった。
「だが、精霊の力に打ち勝てるほどの水準には至らなかった。もはや絶望しかないかと思われたが……ある、偉大な参謀が、ひとつの可能性を提案したのだ。精霊そのものに勝てなくとも、奴らが厳重に保管しているデシリル・ジェムやデシリル・アンプを、少数精鋭で盗み出すことくらいはできるのではないか、と。そして、伝説の戦士デシリアを復活させられれば」
そこまで語ったところで、ジンは一旦言葉を切り、王へと視線を向けた。促されるように、王がようやく重い口を開いた。
「……その作戦は、見事に成功したニャ。そして、盗み出したデシリル・ジェムとデシリル・アンプを使い、五人の人間の戦士がデシリアとして覚醒した。彼らを中心として、人間は積年の恨みを胸に、精霊へ叛逆したのだニャ。……それが、かの戦争の始まりだニャ」
王の言葉には、もはや精霊の王としての威厳はなく、ただ歴史の語り部のような、虚ろな響きを持っていた。
カスパールは、人質となっている子供たちが息を呑む音を、確かに聞いた。無理もないことだ。精霊たちの教科書では、デシリアは精霊の側に立ち、正義のために戦う輝かしい英雄として描かれているのだから。その英雄が、かつては精霊に反旗を翻した人間側の戦士だったなどとは、夢にも思わないだろう。
「……だが、結局のところ、人間はデシリアの力を持ってしても、精霊には敵わなかったニャ。戦争は、人間の敗北に終わったのだニャ……」
王はそう言うと、力なく項垂れた。
部屋に、重苦しい沈黙が再び訪れる。
天井の偽りの青空だけが、やけに明るく見えた。
「言うべきことは、それだけか?」
「……私の口からは……もう、これ以上は、言いたくないニャ……」
「そうか」
ジンは少し間を置くと、再び問いかける。
「デシリアは五人全員が揃えば、世界そのものを白紙に戻せるほどの力を持つと聞いている。それほどの力を持っていながら、なぜ精霊に敗れたのか。不思議な話だとは思わないか、王よ」
王は目を逸らしたまま、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「精霊は……卑劣にも、人間の子供たちを……人質にしたのだニャ。……今、おぬしらが、この子たちにしているように……!」
その言葉を聞いた瞬間、カスパールは、自分の両の拳が強く握り締められていることに気づいた。爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みを感じる。
一方で、ジンは微動だにしていない。
「先ほど貴殿は言った。相手を脅す『尋問』を『会議』と呼ぶなど、人間の良識を疑わざるをえない、と。少なくとも当時は、子供たちの尊い命を犠牲にできなかった我々より、あなたがた精霊の方が良識がなかったと言えるだろう」
ジンの言葉が王の心を抉り続ける。
王は、今にも枯れ草のようにしおれてしまいそうだった。
「デシリアたちは処刑され、それまで連邦の中心地にまとめて祀られていたデシリル・ジェムは各世界にそれぞれ保管され、デシリル・アンプは無の邦に隠された。二度とデシリアの力を人間に明け渡さないために。そして、人間たちが科学技術を進化させて襲ってこないとも限らないと考えた精霊たちは、世界を繋ぐ扉を封印した。敗戦したというのに、奇しくも我々は精霊からの独立に成功したと形になった……かのように思われた。——何か、否定するところはあるか」
ジンの問いかけに、王は、もはや抵抗する気力も残っていないかのように、力なく首を横に振った。
「……ないニャ」
その声は、風前の灯火のように、か細く、消え入りそうだった。
「王よ」
ジンはおもむろに玉座から立ち上がると、力なく横たわる王へ歩み寄った。そして、仮面の下から、冷え切った声で、最後の言葉を告げた。
「かつて奴隷扱いした人間の奴隷となった気分は、どうだ」




