第十三話「好きなことをして生きていく」-6-
壁一面が黒い金属で覆われた、巨大なドーム状の空間、王座の間。余計な装飾は一切なく、ただただ広大で、静謐で、底知れない圧迫感だけが支配している。
がらんとした空間の中央に置かれた、黒曜石のような王座。
そこに、ひとりの男が深く腰掛けていた。全身を漆黒の衣装とマントで覆い、顔には不気味な螺旋模様が描かれた仮面をつけているため、その素顔はおろか、表情すら窺い知ることはできない。
ヘヴンの現指導者であり、英雄と謳われた男、ジン。
彼は豪奢な肘置きに右肘をつき、仮面の上から頬杖をつくような仕草で、組んだ脚に視線を落としていたが、やがて顔を上げ、眼前に立つブラフザールを見下ろした。
「どうしてトドメを刺さなかった」
静かだが、有無を言わさぬ響きを持つ声だった。
「あれ以上戦闘を続ければ、周囲の一般市民へ危害が及ぶ可能性が高いと判断したからだ」
ブラフザールは、表情を変えずに答えた。
半分は本当で、半分は偽りだった。あのとき、リアスピサが最後の力を振り絞って放った一撃は、巨大な炎の奔流と化し、周囲を焼き尽くさんばかりの凄まじい熱量と破壊力を秘めていた。ブラフザールが咄嗟に全エネルギーを防御に回して受け止めたことで、周囲への被害は最小限に抑えられたが、もしもう一度同じような攻撃があれば、どうなっていたかは分からない。
もう半分は、ここで終わらせるには惜しいと思ったから。
「今回の戦闘は、あくまで『火の黒拳』のデモンストレーションが主目的であったはずだ。現在の我々の方針において、周囲の住民を危険に晒すリスクを冒してまで、戦闘を続行する必要性はあるまい。デモンストレーションは問題なく完了したのだから、デシリル・ジェムを奪うまで深追いする必要はない。そう判断したまでのことだ」
ブラフザールは理路整然と自身の判断理由を述べた。
「なるほど」
たった四音だが、ブラフザールは自身の心を隅々まで見透されているかのような不気味な寒さを感じた。
張り詰めた空気が支配する玉座の間に、もうひとつ人影があった。ブラフザールの傍らに控えるように立つ、ウルフカットの少女、ナーサだ。彼女の切れ長の瞳は常にジンに向けられていた。彼女は、ブラフザールの報告が終わると、心配そうな表情でジンに歩み寄り、王座の前で跪き、優しく声をかけた。
「……ジン。最近、ちゃんと休めてる? 火の黒拳に続いて、今度は水の黒銃の開発にも取り組んでるんでしょ? あんまり、無理しないでね……」
深い敬愛と、痛々しいまでの献身的な響き。
しかし、ジンはナーサの気遣いには答えず、ただ冷ややかに、ブラフザールとナーサに向けて言った。
「アスラを使い、この世界への危害を極力減らす方針に切り替えたが、故郷で我々の帰りを待つ大勢の民には、関係のないことだ。一日も早く、一刻も早く、この不毛な戦いを終わらせ、我々は帰還せねばならない。そのためには、時に非情な選択も必要となる。……それを天秤にかけることを、けっして忘れるな」
その言葉は、ブラフザールとナーサへの、絶対的な命令。
「……はい。肝に銘じます」
ナーサは神妙な面持ちで頷いた。
ブラフザールは、彼女の手に一冊の書物と小さな包みを見つける。
その本には見覚えがあった。精霊の生態について記された書物だ。本の終盤に鳥の羽でできた栞が挟まれている。
あのあたりは、生涯を共にすると誓った精霊の番について記された箇所だったのではなかろうか——。
ナーサは精霊についてあまり興味がなさそうだったため、わざわざ書庫からそれを持ち出していることが、ブラフザールには意外だった。
彼が考えを巡らせていることなど知らず、ナーサは少し躊躇いつつも、意を決したように、小さな包みをジンに差し出した。
「……あ、そうだ、ジン。これ……。久しぶりに、クッキー焼いてみたんだ。昔……ジンが好きだって言ってくれたでしょ? あのとき、おいしそうに食べてくれたのが嬉しくて……。それが昨日、夢に出てきてさ。つい、衝動的に焼いちゃったんだ。……どう、かな? 少しだけでも、食べて、くれる……?」
期待と不安が入り混じった表情で、ナーサはジンの返事を待った。
だが、ジンはそのクッキーに一瞥もくれることなく、無言で王座から立ち上がった。そして、ブラフザールとナーサには目もくれず、ひとり、玉座の間の奥の扉へと向かっていく。
重厚な扉がひとりでに開き、ジンはその向こうの闇へと消えた。
扉が再び閉まると、広大な玉座の間にはブラフザールとナーサ、そして気まずい沈黙だけが残された。
ナーサは、差し出したクッキーの包みを力なく下ろし、俯いてしまった。
小さな背中が震えている。
ブラフザールには、その姿が、彼女と初めて出会った九年前——まだ幼く、希望に満ち溢れていた頃の彼女の姿と、重なって見えた。
ブラフザールは、静かにナーサに問いかけた。
「ナーサ。君の瞳に写っているのは、現在のジンか? それとも……かつてのジンか?」
その問いに、ナーサは弾かれたように顔を上げ、鋭い敵意のこもった瞳でブラフザールを睨みつけた。触れてはならない領域に踏み込まれた獣のような目だった。
「……少々、無神経な問いだったか。すまない。ただ……君は、もう少し吾が道を行ってもよいのではないかと、吾輩は思う。まだ若い君が、自ら縛られる必要など、どこにもないはずだ」
若者たちは、もっと自由に、信じる道を自分の足で歩むべきだ。あの娘たちのように——。
その言葉を、ブラフザールは口にしなかった。ただ、目の前の少女の行く末を案じるような、複雑な眼差しを向けるだけだった。




