第十三話「好きなことをして生きていく」-3-
すっかり暮色に染まった空の下、星輝、優菜、瑞季の三人は、やや疲れた表情ながらも、どこか達成感を漂わせながら並んで歩いていた。先ほどまでの数学との格闘は熾烈を極めたが、優菜の厳しい叱咤と、互いに励まし合ったことで、星輝も最後まで投げ出さずに課題をやり遂げたのだ。
「いやー、マジで頭使ったわー。脳みそが糖分欲してる」
星輝がぐったりとした様子でぼやく。持っていたバッグの重みがいつも以上に感じられた。
「でも、最後までちゃんとやりきったじゃない。偉いよ、星輝」
優菜が労うように微笑む。
「ほんとほんと。諦め宣言が出た時はどうなるかと思ったけど」
「へへっ」
歩道の街灯がぽつぽつと灯り始めている。部活動帰りの生徒たちの声もまばらになり、辺りには静かな夜の気配が漂い始めていた。
ふと、星輝が足を止めた。
「……ん?」
何かを感じたのだろうか。優菜と瑞季も、つられて足を止め、星輝が見つめる先へと視線を向けた。
街灯の光が届かない、少し先の角の暗がりに、人影が立っている。最初は電柱か何かかと思ったが、それは明らかに人だった。しかも、その佇まいには、この平和な町の夜には似つかわしくない、異様なほどの威圧感があった。
人影が、ゆっくりと暗がりから歩み出てくる。街灯の光がその姿を照らし出した瞬間、三人は息を呑んだ。
白髪の短髪。鋭い眼光。黒いタンクトップから覗く、無駄なく鍛え上げられた筋肉。迷彩柄のカーゴパンツ。
ブラフザールだ。
「またかよ……!」
穏やかな空気は一変し、張り詰めた緊張感が三人を包む。
ブラフザールは、三人の反応を意に介する様子もなく、淡々とした口調で言った。
「……探す手間が省けたな、デシリアの娘たちよ」
その声には感情が乗っていない。
彼はゆっくりと右手を上げた。その手のひらに、何か複雑な紋様のようなものが淡く光っているのが見えた。
「来る!」
優菜が叫ぶのと、ブラフザールが何かを呟くのは、ほぼ同時だった。
「——転送」
瞬間、三人の足元がぐにゃりと歪むような感覚に襲われた。視界が激しく揺らぎ、平衡感覚が失われる。抵抗する間も、変身する暇さえ与えられなかった。まるで巨大な力に掴まれ、無理やり空間を引き剥がされるような不快な浮遊感。
以前、メルキーヴァに別の場所へ飛ばされたときのことを、星輝は思い出す。あのときの感覚に近かった。
次の瞬間、三人は硬いコンクリートの上に、乱暴に放り出されていた。
「いった……!」
「きゃっ!」
受け身を取り損ねた瑞季と優菜が、小さく悲鳴を上げる。星輝はかろうじて体勢を立て直したが、突然の状況変化に眩暈を覚えていた。
見慣れない場所だった。眼下には、宝石箱のようにきらめく繋町の夜景が広がっている。風が強く吹きつけ、フェンスがなければ落ちてしまいそうな高さ。——どこかのビルの屋上だ。
「なんなの、今の……!」
瑞季が悪態をつきながら立ち上がる。
すぐ近くにブラフザールが立っていた。彼は涼しい顔で夜景を眺めている。
「……いつも思ってたんだけどさ」
瑞季が、混乱した頭を整理するように、ブラフザールに向かって問いかけた。
「敵キャラ特有の、その瞬間移動みたいなの、なんなのよ? ずるくない?」
その問いに、ブラフザールはゆっくりと三人のほうへ向き直った。
「……これは、瞬間転移システム。ジンの発明のひとつだ」
「ジン……?」
その名を聞いたのは二度目だった。以前、敵であるナーサが口にしていた名前だ。
——あたしたちのボスで、英雄さ。
「予め登録した地点へ、瞬時に転移するための装置だ。本来、製品版は大人の人間ほどの大きさの演算装置と、莫大な電力を消費する代物だがな」
ブラフザールは自身の胸あたりを軽く叩いた。
「我々ヘヴンの傭兵が使うこれは、そのエネルギー供給源を装着者自身の生命力から得ることで、機器の小型化と携帯性を実現した、いわば専用の試作品だ」
「へえ」
星輝が腕を組み、挑発的な笑みを浮かべる。
「ま、なんかよく分かんねえけど、要するに、それ使うとアンタ自身も消耗するってことだろ? 既にあんたはいくらか弱ってるって認識でいいわけだ?」
その言葉に、ブラフザールは表情ひとつ変えず、静かに答えた。
「……フン。適切なハンデであろう」
その口調には、絶対的な自信が滲み出ていた。
星輝は周囲を見渡す。ビルの屋上は、遮るもののない夜風に晒され、肌寒ささえ感じられた。眼下に広がる繋町の無数の灯りは、まるで遠い世界の出来事かのように現実感がない。コンクリートの床と、周囲を囲む低いフェンス以外、ここには何もない。隠れる場所も、利用できる障害物もなかった。
「……なあ、おっさん」
星輝が、警戒を解かずにブラフザールに問いかける。
「周りに何にもないけどさ、今日はスレイヴは使わないのか? それとも、またどっかから呼び出すつもりか?」
前回の戦闘では、優菜の戦友である鳥羽茜をスレイヴに変えて使役していた。今回も同様の手を使うのか、あるいは別の何かを用意しているのか。
その問いに、ブラフザールは静かに首を横に振った。
「要らぬ。スレイヴなどに頼らずとも、今日は貴様たちを仕留めるに足るものがあるのでな」
そう言うと、ブラフザールはゆっくりと両手を体の前で合わせた。彼の手には、漆黒のグローブが装着されている。それは指先まで覆う、革と金属が組み合わった漆黒のグローブ。
そして、特に目を引いたのは、右手の甲に埋め込まれた、深紅の宝石だった。それはまるで生きているかのように、内側から鈍い光を放っており、周囲の闇の中で不気味に脈打っているように見える。デシリル・ジェムに似た、しかしどこか歪で禍々しいエネルギーが発せられている。
「それは?」
「これは、『火の黒拳』」
ブラフザールは、自身の右手を掲げ、誇示するように言った。
「ナーサ『地の黒槍』を見たことはあるだろう。あれと同じく、ジンの手によってデシリル・ジェムの力を兵器へと転用したものだ。地の力を槍に宿したあれとは違い、これは炎の力を、この拳に宿す」
瑞季が息を呑む。以前ナーサと戦った際、その槍から放たれる大地を操る力に苦しめられた記憶が蘇る。彼女の瞳に宿る殺意は、今思い出してもぞっとするほどだった。
「その、右手の甲についてる赤い石って……」
星輝は、自身の持つ炎のデシリル・ジェムと同じ色をした宝石を睨みつけながら尋ねた。
「これは、君が持つ炎のデシリル・ジェムの力を再現すべく作り出された贋作だ。本物と比べれば、確かにその質、純度において劣る部分はあるだろう。だが……」
ブラフザールは右手の拳を強く握りしめた。赤い宝石が、より一層強く輝きを増す。
「小娘三人を相手にするには、これで充分だ」
その言葉と共に、彼の全身から凄まじい闘気が放たれた。
ビルの屋上の空気が、ビリビリと震える。
「来い、デシリアよ。四の五の言わず、いざ尋常に勝負だ」
ブラフザールが、低い声で言い放つ。その佇まいは、まさに歴戦の傭兵。一切の油断も隙もない。
「……あのなあ。こっちはアンタなんかに構ってる暇、ねえんだよ」
星輝は吐き捨てるように言った。
早く家に帰りたいし、明日の学校の準備だってある。こんなところで、意味もなく戦っている場合ではない。
「ならば、選択肢はひとつしかないであろう」
ブラフザールは冷ややかに言い返す。
「この吾輩の屍を踏み越えていくことだ」
その言葉は、彼我の実力差を暗に示す、絶対的な自信に裏打ちされていた。
もはや、対話の余地はない。
「……優菜、瑞季」
星輝は覚悟を決めた目で、仲間たちに向き直った。
「とっとと、この頑固親父、ぶっ倒すぞ!」
「うん!」
「だね!」
優菜と瑞季も、力強く頷き返す。三人はそれぞれ、通学鞄やポケットから、デシリル・ジェムとデシリル・アンプを取り出した。宝石が淡い光を放ち、アンプがそれに呼応して起動音を立てる。
三人は同時に眩い光に包まれ、戦闘コスチュームへと変身していく。
「『デシリアの 穢れを裁く魂は 如何なる者にも染められない。透き通る心、リアハイリン!』」
瑞季が眩い白の光と共に、力強くもしなやかな戦士の姿へ。
「『デシリアの 水面たゆたう魂は 如何なる者にも穢されない。澄み渡る心、リアマイム!』」
優菜が青の光に包まれ、水の力を秘めた優雅な姿へ。
「『デシリアの 情熱煌く魂は 如何なる者にも消せはしない。燃え上がる心、リアスピサ!』」
星輝が真紅の炎を纏い、情熱的な戦士の姿へ。
彼女たちの華やかな衣装が夜風になびかれるが、四人の間にある緊張の糸は、少しも揺るがなかった。




