第十三話「好きなことをして生きていく」-2-
アスラはヘヴンのアジトの自室にいた。
顔の大きさほどの丸い窓がある六畳ほどの部屋に、こちらでの生活に必要な机やパソコン、ベッドが所狭しと並んでいる。それらはジンやカスパールが手配したものだった。彼らには洒落っ気がないため、家具の色にはまるで統一感がない。今度マットやテーブルクロスなどを買って装飾しようか、とずっと考えていたが、まだ購入していなかった。
テーブルに置かれた時計を見る。こちらの時間感覚にはすっかり慣れ、今が染谷瑞季が授業を終えて帰宅した頃だろう、と予想することは容易かった。
一呼吸し、気持ちを仕事モードに切り替える。そして、染谷瑞季に電話をかけた。五回ほどコール音が鳴り、通話が開始される。
〈はい、染谷です。どうしたの?〉
「アスラです。昨日教えていただいたアニメの第一話を観ました」
アスラは昨日見たアニメのヒロインのような明るい声を心掛けた。
「熱い物語ですごく面白かったです!」
その少年漫画のストーリーや設定は、確かに興味深かった。ただし、主人公たちがあまりに馬鹿正直すぎて、アスラには理解できない部分が多かった。
そんなアスラの本音のことなど露知らず、染谷瑞季はひとりで盛り上がっている。
〈でしょでしょ! アスラちゃんにも刺さったんだね! さっすが。分かってるね〉
刺さった……? 私に何が刺さったの?
染谷瑞季はときどき不思議な語彙を使う。日本語を訳すことができても、スラングの意味までは分からないので、このようなときはいつも困る。アスラはとりあえず曖昧に「ふふふ」と微笑んだ。
ふと、電話越しに聞こえる音がいつもと違うことに気づいた。いくつもの賑やかな声がかすかに聞こえてくる。
「今ご自宅ですか?」
〈ううん。学校〉
「え、あ、すみません。もう帰宅していると思ってかけちゃいました」
謝りながら、以前「日本人は電話で謝るときも頭を下げる」と聞いたことを思い出した。
〈大丈夫大丈夫。気にしないで。いつもならもう帰ってるんだけどね〉
アスラは静かに胸を撫で下ろす。
〈教室で星輝に勉強教えてるの。来週のテストで平均点取れないとバンド辞めさせられちゃうんだって〉
「それはお気の毒に……」
〈ね。まあ、授業中に居眠りしてた星輝が悪いんだけど〉
「居眠りしてしまうほど疲れてらっしゃるのですね。お疲れさまです。あまりご無理はなさらずに、とお伝えください」
〈うん。言っておくね〉
アスラは以前、星輝が好んで弾くらしい『ロック』という種類の音楽を調べて聞いたことがあった。彼女の邦の音楽とはあまりにかけ離れ、音のほとんどがただの雑音のように聞こえてしまい、一曲聴いただけでヘトヘトになってしまった。アニメのBGMでもよく耳にするが、その曲による演出をいくらか感じることはできても、音楽的に感動することはできなかった。
無の邦で聞いた音楽の中で、アスラが最も好きなのはフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲第七七番「皇帝」第二楽章だった。厳かで優雅な美しい響きが自国の子守唄を思わせ、温かい気持ちになったのだ。その名曲に出会って以来、彼女はハイドンを好んで聞いていた。
その後、染谷瑞季といくつか他愛のない言葉のキャッチボールをして電話を切った。
「勉強、ですか」
任務のためしばらく学校には通えていない。
学校に通っていたとき、アスラはいつもひとりで勉強していた。幼い頃は学舎に通えず、姉や一部の大人と話すことしかなかったし、彼ら相手に会話を楽しんだことはなかった。七歳で初めて学校という集団生活の場に入ることとなったが、あまり周囲とは馴染めず、そのまま八年が経過していた。
友達とお喋りしながら勉強する周囲の子供たちのことを、羨ましく思ったことは何度かあった。今だって、彼女の胸には寂寥感が満ちている。
瑞季たちと一緒に映画館に行ったり競技かるたの大会を見学した時のことを思い出す。
あの時間は——楽しかった。
そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさし、ため息が溢れる。
「そんなことよりも、どうやってデシリル・ジェムを盗むかを考えないと」
怪しまれずにデシリル・ジェムとデシリル・アンプを盗むことはなかなか難しい。力を奪うことが最も有効にはたらくのは、デシリアたちのリーダー的存在である染谷瑞季だ。彼女は他のふたりよりも隙が見える瞬間が多い。
だが、最も難易度が高いのも彼女だ。彼女のバッグにしばしば空の邦の王子が入っている。王子に気づかれてもアウト。そのため、染谷瑞季からの窃盗が最も困難となる。
なかなか有効なアイデアが浮かばない。外の空気を吸いたくなった。この部屋の窓は完全に固定されており、開かない。施設全体の空調システムにより換気はされているものの、外の風を直接浴びたくなることもある。
部屋の外に出ると、ちょうど廊下をブラフザールが歩いていた。首にタオルをかけているため、トレーニングを終えてシャワーを浴びたところなのだろう。
「こんにちは」
「ご苦労」
アスラの部屋のふたつ隣がブラフザールの部屋だった。彼は自室の前で立ち止まる。
「やつらの調子はどうだ?」
「星輝さん——リアスピサが学校のテストで平均点を取らないといけないらしくて、大変そうです。あまり建設的な話題ではないですかね」
「そのようなことはない。気軽な話をできるほど打ち解けられていると理解した。道具を盗む隙は、そのうち向こうからやってくるだろう」
「そう、ですかね」
「うむ。焦ることはない。この調子で頼む」
表情ひとつ動かさないぶっきらぼうな言い方だったが、彼は彼なりにアスラのことを案じてくれているのだろうと、アスラは理解している。今回の作戦により、ブラフザールやカスパール、ナーサはデシリアと本気で戦うことを禁じられた。無関係な人々を巻き込まないためだ。
この作戦はヘヴンの意向に沿う作戦であると同時に、軍人としての矜持を傷つける作戦でもあるだろう。ブラフザールがアスラをあまりよく思っていない可能性も充分にあった。
しかし、ブラフザールやカスパールがそのような様子をアスラに見せたことはなかった。姉であるナーサからはあからさまに毛嫌いされているが、それは今に始まった話ではない。
ブラフザールはそのまま自室に入っていく。
彼の部屋を横切りながら、アスラは炎のデシリアである高梁星輝のテストの行方を想像していた。
◆
放課後の教室にはどこか気怠い空気に包まれていた。窓の外からは運動部の元気な掛け声が聞こえてくる。
補修開始から小一時間が経過した。優菜が丁寧に書き写してくれたノートと教科書を睨みつけ、ワークブックの連立方程式と格闘していた星輝の集中力は、ついに限界を迎えていた。複雑な途中式を書き連ねるうちに、思考がパンクし、眉間にズキズキとした痛みが走り始める。
星輝は、持っていた鉛筆をこぼすように机に転がすと、椅子の背もたれにぐったりと体重を預け、力なく天井を仰いだ。
「あーダメだ。もう無理……。集中力、完全に切れたわ……」
絞り出すような声は、疲労困憊そのものだった。一方、優菜は淡々と星輝の前のノートを見つめている。
「まるで最初から集中し続けてたみたいな言い方だね」
「今日の優菜、なんか辛辣……」
「ここ、掛け算間違ってるよ」
「え? あー、はい。はいはい、左様でございますか……」
星輝は天井を見上げたまま、生返事をするだけだ。その投げやりな態度に、瑞季は呆れつつも、優菜が指差した箇所を覗き込んだ。「2 × 9 = 16」。……九九の段階で躓いている。
その計算式から滲み出る星輝の疲労と絶望感が、なんだか不憫に思えてきて、瑞季は少し同情的な声色で言った。
「星輝。疲れてるのは分かるけど、もう少し頑張らないと厳しいよ」
その言葉が、最後の引き金になったのかもしれない。
星輝は、天井を向いたまま、力なく言った。
「……もういいよ。ウチには無理だ。諦める」
その言葉に、教室の空気が凍りついた。瑞季も優菜も動きを止め、ただ呆然と星輝を見つめることしかできなかった。
普段の彼女からは想像もつかないような、弱々しく、すべてを投げ出したような響き。
「もういいんだ……。これまでサボってきたツケが回ってきたんだ。ウチのことはもういいから、ふたりは自分の勉強を頑張ってくれ」
自嘲気味に呟き、星輝は目を閉じた。まるで、世界から自分を遮断するかのように。
「星輝……」
優菜が心配そうに声をかける。
だが、星輝は天井を見たまま、ぴくりとも動かない。まるで石になったかのように。
「ウチは勉強なんてせずとも、好きなことをして生きていくんだ……。だから、もう……」
その、自分に言い聞かせるような呟きを遮るように、凛とした声が響いた。
「星輝」
それは、優菜の声。
しかし、いつもの穏やかさとは違う。
静かだが、有無を言わせぬ強さと、どこか厳しさを含んだ響き。
まるで、道を誤ろうとしている子供を、厳しく、しかし愛情を持って叱る母親のような声。
その声の力に、星輝は思わずびくりと体を震わせ、悪いことをした小学生のように背筋を伸ばして萎縮してしまう。
優菜は厳しい瞳で、星輝の瞳をまっすぐに見据える。
「星輝はバンドが好きなんでしょ? 今そのバンドを続けるために頑張ってるんでしょ? 好きなことをして生きていきたいと思うのはいいけど、そのゴールに向かって進んでいる途中にある『嫌なこと』から逃げちゃダメだよ。その『嫌なこと』のために、好きなことを諦めることになっちゃうんだから。好きなことをして生きていたいと思うからこそ、好きなことを好きなだけできるように、今は目の前の壁を超えなきゃ」
優菜の言葉がひとつひとつ、星輝の心の奥底に重く響いていく。
星輝は、とあるバンドメンバーのインタビュー記事を思い出していた。
『もう無理だって諦めたくなるようなことは、本当にたくさんあった。レコーディングが上手くいかなかったり、ライブで全然客が入らなかったり……。でも、その度に思ったんだ。ここで辞めたら、絶対に後悔するって。これは、この先、俺たちがもっと成長するための試練なんだって。そうやって、メンバーみんなで言い聞かせ続けて、ここまで来たんだ』
星輝は、そんな彼らの姿に感動し、音楽を始めた。あんなかっこいい大人になりたい、と。ここで諦めたら、「絶対にプロミュージシャンになる!」と意気込んで練習していた昨日の自分に顔向けできない。
「……そう、だよな」
星輝の口から、掠れた声が漏れた。掠れながらも、確かな意志のこもった声が。
ゆっくりと身体を起こし、優菜と瑞季に向き直る。その瞳には、先ほどまでの諦めの色は消え、再び闘志の火が灯り始めていた。
「ありがとう、優菜。目が覚めたよ」
星輝はふっと息を吐き、決意を込めた表情で、再び机の上のワークブックへと視線を落とした。転がっていた鉛筆を、力強く握りしめる。
「父ちゃんも言ってた。大人になって新しくできるようになることなんて、仕事と、ちゃんと勉強しておけばよかったって後悔することだけだ、って。ここで逃げたら、きっと未来のウチが後悔する」
その言葉には、もう迷いはなかった。
「うん。星輝なら、絶対にできるよ」
優菜が、今度はいつもの優しい笑顔で頷く。
「この壁だって、きっと乗り越えられる。……ね、瑞季」
瑞季も力強く頷き、星輝の背中をポンと叩いた。
「そうだよ。私からしたら勉強より音楽の方がずっと難しい。ステージで輝く星輝なら、この程度の勉強やっつけられるよ! よし! 私も頑張ろう! 平均点上げて星輝を苦しめるんだ!」
瑞季らしい、少し捻くれた激励の言葉。
それに、星輝はいつものように八重歯を見せた笑みを浮かべて応えた。
「受けてたってやるぜ瑞季。ついに本気を出したこの星輝様に不可能はない!」




