第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」-7-
ふっ、と茜の瞼が震えた。ぼんやりとした視線が数度宙を彷徨い、やがて隣に座る優菜の姿を捉える。茜は驚いたように目を見開くと、慌てて上半身を起こした。
「……月音さん? 私、なんでここで……?」
茜は自分の状況が理解できないようで、きょろきょろと周囲を見回している。
ここは公民館の入口脇に置かれた古い木製ベンチ。いつの間にか日は傾き、空は茜色に染まり始めていた。
「……少し、休んでたみたいだよ」
優菜は静かに答える。
茜は戸惑った表情で、自分のジャージについた土汚れや、擦りむいた膝に目を落とした。どうしてこうなったのか、思い出せないのだろう。
茜の転校について、聞きたかった。しかし、あえて優菜からは切り出さない。
そのまま、無言の時間が続いた。何か重たいものが空気の中に漂っているような沈黙だった。夕暮れの風がふたりの間を通り過ぎていく。
その間、優菜は隣に座る茜が、何かを必死に言葉にしようとしているのを感じ取っていた。何度も口を開きかけては、また閉じてしまう。その逡巡する横顔を、優菜は静かに見守った。
ついに、覚悟を決めたように茜が話し始める。
「来週、転校するんだ。かるた会は隔週だから、今日が最後。だから、最後にあんたに勝ちたかった」
俯いていた顔を上げ、けれど視線は優菜ではなく、遠くの空に向けられたままだった。
「そっか。寂しくなるね」
「驚かないの? 思ったより反応が薄い」
茜が訝しむようにこちらを向いた。無理もない反応だろう。
「そんな気がしてたから」
先ほどの戦いまで、転校のことは聞いていなかったが、彼女が涙を流した後ろ姿から、漠然とそんな予感はしていたのだ。
「そっか。だよね、あんなに泣いてたら、少しくらい察するよね」
茜は力なく笑い、少し恥ずかしそうに再び視線を落とした。
「まあね」
「あたしなんかいてもいなくても、あんたにとってはどうでもいいでしょ——って思ってた。どうしてか分からないけど、今はそうじゃない気がしてる」
茜は言葉を切り、自分の手のひらを見つめた。
優菜も自分の手のひらに目線を落とした。
「うん。すごく寂しいよ。歳が近くて、本気でぶつかり合えるの、鳥羽さんだけだったから」
それは紛れもない本心だった。
優菜は続ける。
「それに、わたしは親に激しいスポーツをするのを禁止されてて」
「親、厳しいの?」
「うん。でも、わたしはスポーツを何かやりたくて。だから、競技かるたなら許してくれるんじゃないか、って思って始めたの。最初は毎日勉強してまで続けるつもりはなかった。でも、この繋町かるた会に、鳥羽さんが来た」
「あんたが入会した一ヶ月後に私が入ったんだっけ」
「そう。鳥羽さんも私も初心者だった。そのときはわたし、あまり真剣に取り組んでなくて。でも、鳥羽さんは熱心にかるたと向き合っていた。一ヶ月もアドバンテージがあるし、戦ったらわたしが勝つと思ってた。でも、鳥羽さんにとって二回目のかるた会で戦って、負けた。それが、すごく悔しかった。だから、負けたくないと思って、わたしは本気でかるたと向き合うことにしたの」
茜は意外そうに口を少し開きながら、黙って優菜の話を聞き続けていた。
「あなたがいなかったら、切磋琢磨し合えるライバルだっていなかった。そんな人が転校するって聞いて、悲しくないわけないよ」
語尾が震えた。目に熱いものが込み上げてくる。そんな自分に、改めて実感した。
ああ、わたしは本当に寂しいんだ——。
言い終えると、茜はしばらく黙り込んでいた。やがて、ふっと息を吐き、少し照れたような、でも嬉しそうな、複雑な表情を浮かべた。
「……そうなんだ。私も、なんだかんだいって、月音さんと、もっともっと戦いたいって思ってた。だから、本当に寂しい。最近はずっと負けが続いていたから、最後くらいどうしても勝ちたくて、めちゃくちゃ練習頑張ったんだ。でも、勝てなかった。もう、心がぐちゃぐちゃだった。でもね」
茜は顔を上げ、少し吹っ切れたような表情で言った。
「もう悲しくないよ。さっき気づいたんだ。ここだと県大会は無条件に出れるし、そこを勝ち抜ければ全国大会。全国まで行けば、月音さんと戦えるかもしれない。いいアイデアでしょ?」
「全国大会なんて考えたこともなかったなあ。でも、鳥羽さんが全国を目指すなら、わたしも目指す。ひとりなら頑張れないかもしれないけど、ひとりじゃないから」
優菜が力強く言うと、茜は目を見張り、力強く頷いた。
「うん。遠く離れていても、私たちはかるたで繋がった戦友。今までと何も変わらない」
茜は立ち上がり、三歩前に進んだ。茜色の夕日に照らされたその背中は、先ほどまで泣きじゃくっていた少女のものとは思えない。とても、たくましく見えた。
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」
鳥羽茜が上の句を発する。急にどうしたんだろう、と思いつつも、優菜の口からは自然と下の句がこぼれ出ていた。
「われても末に あはむとぞ思ふ」
山を激しく流れる川の水が岩に当たり、ふたつに分かれた後、再びひとつに合流していく。その様子を、離ればなれになった恋人への想いに重ねた崇徳院による歌だ。また、これは単なる恋の歌ではなく、戦に敗れたため住み慣れた土地を離れなければならない崇徳院の激情を、恋の歌になぞらえて詠まれた歌だとも言われている。
茜は優菜と真正面から向かい合った。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「次は、絶対に勝つから。優菜ちゃん」
茜は、少し照れたように、でもまっすぐな目で、握手の手を差し出す。
優菜もベンチから立ち上がり、その手を強く握り返した。茜の手は、少しだけ震えていたけれど、力強かった。
「次も負けないよ、茜ちゃん」
夕日に照らされたふたりの影が、公民館の壁に長く伸びていた。
◆
その夜。ヘヴンのアジトにある自室で、アスラは報告書をノートパソコンで書いていた。そのパソコンは彼らの故郷から持ってきたものだが、形状はこの世界のノートパソコンと大きく変わらない。キーボードの配列は異なるが、その入力方法やトラックボールの使用感はほとんど同じものだった。
〈月音優菜は水を操る。水という身近な物質をどのように扱うか興味深かったが、現状の彼女の戦い方ではあまりバリエーションを感じない。それがデシリアの限界であるのか、それとも彼女が使いこなせていないのかは不明。戦闘能力は、脅威というほどではないように思う。今日は相手が彼女に執着したため最前線に立っていたが、おそらく後方支援向けだろう。ただし、学力が高く、頭の回転が早い。潜入する上で最も注意を払う必要があるのは彼女だ〉
カナダ出身という、自分で作った設定の矛盾を指摘されたときはハラハラしたものだった。うまく誤魔化せたとは思えないが、さすがにアスラがヘヴンからのスパイだと疑ってはいないだろう。
「千早ぶる 神代もきかず 竜田川 唐紅に 水くくるとは」
今日アスラが取った札の句のひとつだ。その響きが心地よくて、アスラはつい口にしてしまっていた。
「……真面目に報告書書かないと」
〈高梁星輝は炎を操る。まだ一度しか戦いを見ていないが、リアマイム同様、技のバリエーションは多くなかった。とはいえ、炎そのものが私たち人間にとって脅威であることは間違いない。学力は見るからに低く、そのぶん溌剌とした性格だ。彼女が最も隙が大きいように思う〉
〈染谷瑞季は風のデシリアらしい。先日彼女のバッグを手にした際に、手のひら大の薄く派手な柄の物体を見つけた。あれはおそらく、空の邦の精霊の王族が姿を隠すときに使用する亜空間の住居。彼女の家に押しかけて攫うことはそう難しくないが、デシリル・ジェム三つすべてが人間に渡った現在、そこまでする価値はないと判断する〉
そこまで書き、リアハイリンの能力についてほとんど書いていないことに気がついた。とはいえ、彼女に関してはほとんど書くことがなかった。
〈ナーサお姉さまがおっしゃっていた通り、風の力を使用していなかった。スピードやパワーは他のふたりよりも高いが、殴る蹴るしかしていない。お姉さま曰く「出していないのではなく、出せないらしい。適性がないのかも」とのこと。詳細は不明だが、私なりに別の仮説を立てた。デシリアになる適性とデシリル・ジェムの属性を操る適性は別にあるのではないか。リアスピサは、デシリアになる適性が低かったため、すぐには変身できなかった。逆にリアハイリンは、デシリアになる適性が高かったが、属性を操る適性がなく、風のデシリアとしての真価を発揮できていないのではないか。この説が正しければ、それぞれデシリル・ジェムに適性があった我々が変身できない理由も説明できる。もっとも、この説が必ず正しいとは思わない。この説にはとらわれず、改めて客観的に観察しようと思う〉
そこで一度手を止めた後、追記した。
〈また、特筆すべき点として普段のリアハイリンは不思議な言葉遣いをしたり、突如早口やぼそぼそとした話し方になることが多く、言葉を聞き取れないことが度々あった。翻訳機の故障を疑うことさえあったほどだ。どこか頼りのない印象で、他のふたりに比べて人間性に欠けていると感じた。しかし、スレイヴを目にした後の彼女は、まるで別人となる。以前彼女に教わった物語の主人公のような、カリスマ性すらあった。普段の印象と敵を相手にした時の印象の差が大きく、そのメリハリのあるギャップは〉
そこまで書いたところでアスラの手が止まった。しばらく画面を睨んだ後、〈また、特筆すべき点として〉以降の文を消した。
(第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」了)
第十三話「好きなことをして生きていく」 2026/5/2 8:00投稿予定




