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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」

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第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」-4-

 公民館の大広間では、かるた会の模擬試合が始まろうとしていた。瑞季たちは窓ガラスに張りつくようにして、その様子を外から窺っている。観客が中にいると彼らの気を紛らわせてしまうから、と足立先生の案内の元、一度靴を履いて公民館を出て観戦することにしたのだ。

 広間の中では、五組ずつのペアが二列に並び、計十組が向かい合って畳の上に座している。これから札を取り合うとは思えないほど、場は意外なほど和やかな空気に満ちていた。談笑する声が漏れ聞こえている。

 ただ一組、窓から見て奥の列、左から二番目のペアだけを除いて。

 そこに座る優菜と茜の周囲だけ、空気がぴんと張り詰め、まるで別の空間であるかのように静まり返っているのが、ガラス越しにもはっきりと伝わってきた。

 とりわけ茜の表情は真剣そのものだ。瞳の奥の光は獲物を狙う猛禽のような鋭さを携え、札が置かれた畳を射抜かんばかりに見つめている。対する優菜は瑞季たちに背を向けているため表情は見えないが、普段は下ろしている艶やかな長い黒髪をヘアゴムで留め、真摯に茜と向き合っている。

 普段は見られない、試合モードの優菜。

 その引き締まった佇まいに、思わず瑞季は唾を飲み、呟いた。

「うなじ眼福……」

 隣で聞いていた星輝が、怪訝そうな顔で瑞季を見る。

「瑞季?」

「いや、星輝のうなじを否定してるわけじゃないよ? いつも髪を下ろしてて見えないからこそ優菜のうなじの価値が高騰してるだけで。プレミアってやつ?」

「そんな話はしてないって」

 星輝は呆れたように小さく溜め息をつく。

 序歌を詠む女性の声が凛として聞こえ始めた。途端に、それまでの和やかさが嘘のように消え失せる。外で軽口を叩いていた瑞季たちも、はっとして黙って窓の中へ視線を集中させた。

〈きみがため——〉

 読手の声が畳に染み入る。同時に、まるで張り詰めた糸が一斉に弾け飛んだかのように、激しい音が連続して炸裂した。畳を叩く鋭い音と振動に、瑞季の肩がびくりと揺れる。その一瞬で、優菜と茜の最初の勝負は決まっていた。

 札を制したのは、茜だった。

 彼女の唇がかすかに動く。札を掴んだ右手に、ぐっと力が込められた。取った札を素早く自陣の脇へと滑らせると、間髪入れずに自陣の札から一枚を選び、送り札として静かに優菜へ差し出した。

「おおっ、まずは茜ちゃんがリードか」

 まだ一度も言葉を交わしていないだろうに、すでに星輝は「茜ちゃん」と気安く呼んでいた。その馴れ馴れしさが、少しだけ瑞季は羨ましかった。

「今さらだけど、みんなTシャツとかジャージなんだね。着物とか着てやるのかと思ってた」

「それは大会だけじゃね?」

 星輝の素朴な疑問に、不意に横から声がかかった。

「大会でも着ないよ」

 声の主は足立先生だった。

「着物を着て戦うのは漫画やドラマの世界か、あとは本当に一部の格式高い大会くらいかな」

「へえ」

 星輝が言う。

「それにしても、すげえ運いいな、ウチら」

「なにが?」

「ライバル関係のふたりが、くじで偶然対戦することになる現場にあたるなんてさ」

 その言葉に、足立先生は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。

「あはは、実はね、あのくじ、ちょっとだけ細工させてもらったんだ」

「え?」

 瑞季と星輝とアスラの声が重なる。

 先生は人差し指を口元に当て、声を潜めた。

「鳥羽さんに頼まれてね。今日はどうしても月音さんと戦いたい、って。いつもなら自分から直接月音さんに直接対戦を申し込む子なんだけど、君たちがいたから、遠慮しちゃったみたいで」

 そこまで言って、先生はふっと視線を畳の上に戻し、独り言のように付け加えた。

「まあ、鳥羽さんに頼まれなくても、そうする腹づもりだったんだけど」

 悪びれる様子もなく言い切った後、「あ、いや、普段はこんなことしないよ!」と慌てて笑顔で取り繕う。

 星輝が疑いの目を向ける。

「せんせー本当に?」

「本当だよ。本当に初めて。今日だけはね。今日だけは、どうしても戦わせてあげたかったんだ」

 そう言う足立先生の横顔は、どこか遠くを見ているようで、寂しげに見えた。彼は再び口を噤み、ただ静かに、畳の上で火花を散らす優菜と茜の姿を、何かを案じるような複雑な眼差しで見守るのだった。


 一枚取るごとに、一枚送られる。

 その繰り返しの中で、枚数は拮抗したまま、じりじりと終盤へ向かっていく。和室の空気は張り詰め、読手どくしゅの凛とした声だけが静寂を破るように響き渡る。時計の秒針の音すら大きく聞こえるようだ。

 そして、陣地に残る札は五枚となっていた。優菜の陣地には四枚。茜は二枚。天秤は茜に傾いている。

〈わたのはら——〉

 上の句が『わたの原』で始まる歌は二枚。

 優菜は一瞬で両方の札の位置を脳裏にマッピングする。どちらも自陣にある。神経を極限まで研ぎ澄ませ、読手の次の言葉を待つ。対面に座る茜の、執念にも似た気迫が、ひしひしと空気を伝わって優菜の肌を刺す。

〈——こぎいでてみれば ひさかたの〉

  最初の音が『こ』であることを確認した瞬間、優菜は体勢を沈め、最短距離で左手を伸ばした。シュッ、と畳を擦るわずかな音と共に、的確に札を払う。

 茜も同時に反応し、手を伸ばしてきていたが、札に触れる直前で優菜の動きが勝ったことを悟り、悔しそうに手を引いた。

 優菜は取った札を確認し、深く、静かに息を吐く。

 優菜の陣地は残り三枚。茜は二枚。どちらに転んでもおかしくない、緊迫した状況だ。

 汗が一筋、優菜の額を伝う。茜も、無意識にか、眼鏡の位置を直す指が微かに震えている。

〈もろともに——〉

 最初の一音の瞬間から、ふたりの視線が鋭く交差し、畳の上を走査する。

 『も』で始まる句は二種類あるが、場には一枚しかない、いわゆる一枚札だ。

 今日一番の激しく、鈍い音が和室に響き渡った。

 制したのは、優菜。

 下の句が読み上げられる中、優菜は札をしっかりと掴み、自分の横へと引き寄せる。

 茜は「くっ…」と小さく呻き、唇を噛んだ。

 これで、残り札は互いに二枚ずつ。

 続く歌は、空札。

 張り詰めた空気の中、ふたりは動かない。

〈いまこむと いひしばかりに ながつきの——〉

 決まり字『いまこ』。これも一枚札。

 優菜の陣地の、ほぼ中央。

 迷いなく左手を振り下ろす。

 茜の手がわずかに届く前に、札は優菜の手の中に吸い込まれていた。

 これで、優菜の陣地は残り一枚。茜は二枚。その差はわずか一枚だが、精神的なアドバンテージは逆転した優菜に移りつつあった。茜の表情に、焦りの色が隠せなくなっている。呼吸も少し荒い。

 そして——。

〈せをはやみ いはにせかるる たきがはの——〉

 決まり字『せ』。

 茜の陣地、もっとも優菜側の段の中央。

 ふたつの腕が目にも止まらぬ速さでその札にまっすぐ向かい、鋭い快音が響いた。

 優菜はかすかに眉間に皺を寄せる。

 それは、手の甲に熱い痛みが走ったから。

 手のひらには、確かに勝利の感触があった。


「ありがとうございました」

 勝負が決した瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、優菜は深く息を吐いた。正座したまま、対面にいる茜に向かって丁寧に頭を下げる。全身に心地よい疲労感が広がると同時に、安堵感が込み上げてくる。

 茜はしばらく俯いたまま動かなかった。肩が小さく震えている。やがて、ゆっくりと顔を上げた。その目には、堰を切ったように大粒の涙が溢れていた。茜は咄嗟に眼鏡を外し、制服の袖で乱暴に涙を拭う。

「……っ……うっ……」

 言葉にならない嗚咽が漏れる。それでも茜は、歯を食いしばるようにして立ち上がった。礼もせず、くるりと優菜に背を向ける。

「鳥羽さん!」

 優菜が声をかけるが、茜は足を止めなかった。

 早足で和室の出口へと向かい、乱暴に扉を閉めて出て行ってしまった。後に残されたのは、気まずいほどの静寂と、彼女の陣地に残された二枚の札だけだった。

 優菜は、茜が座っていた場所に目をやった。そこには、拭いきれなかった涙の跡が、小さな水たまりのような淡い染みを作っていた。

 今日のこの一戦に、彼女がどれだけの思いを懸けていたのか。

 その重い一端に触れたような気がして、優菜の胸にも、ほろ苦さが静かに込み上げてくるのだった。


 茜は、込み上げてくる熱いものを振り払うように、走った。

 向かう当てはない。

 ただ、あの場所から、優菜のいる場所から一刻も早く離れたかった。

 息が切れ、足がもつれそうになる感覚だけが、今は現実だった。

 たどり着いたのは、公民館から少し離れた、古びた遊具がいくつか置かれただけの小さな公園。人気はなく、錆びたブランコの軋む音が微かに聞こえるだけだ。

 茜は力なくベンチに腰を下ろすと、堪えきれなかったものが堰を切ったように溢れ出した。

「……っ、うぅ……!」

 ぽろぽろと零れ落ちた雫は、やがて嗚咽に変わる。

 悔しい。悔しい。悔しい——。

 膝に顔を埋め、声を殺して泣きじゃくる。世界で一番、自分が惨めに思えた。

 不意に、頭上から低い声が降ってきた。

「何を泣いているのだ」

 その声には、一切の感情がなかった。

 びくりとして顔を上げると、見慣れない男が立っていた。五十歳くらいだろうか。彫りの深い顔立ちに、白い肌。厚手の黒いタンクトップ一枚で、隆々とした筋肉質な腕を晒している。

 涙で濡れた頬を乱暴に手の甲で拭った。

「……話しかけないで」

 男は茜の敵意を意に介する様子もなければ、面白がるような様子もない。無表情のまま、ただ彼女を見下ろしていた。

「あくびでもないかぎり、理由なき涙はない」

 男はこともなげに言うと、腰につけた小さな革のポーチに手を伸ばした。ごそりと中を探り、取り出したのは、手のひらほどの大きさの水晶だった。磨き上げられた表面は鈍い光を放っている。見ているだけで、吸い込まれそうになる美しさ。

「涙あるところに黒感情あり」

 男は水晶を茜に差し出す。

 ひんやりとした冷気が、水晶から発せられている気がした。

 茜の心に深く沈んでいた黒いおりが、その言葉に呼応するようにざわめき始める。

「悔しさ、怒り、妬み……。好きなだけ暴れて、その鬱憤を晴らすがよい」

 その言葉が、なぜだか甘美に聞こえた。

「『水晶よ。黒を喰え』」


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