第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」-2-
小倉百人一首は、鎌倉時代の歌人藤原定家が、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ、百首選んだものである。
その和歌は五・七・五・七・七の三十一字で構成される定型詩であり、最初の五・七・五が『上の句』、その後の七・七が『下の句』と呼ばれる。それを札に記したものが百人一首かるたで使用される。札には下の句のみが書かれており、上の句は書かれていない。一般的に、読手が上の句を読み、参加者はそれに対する下の句の札を取ることになる。
日本で古くから遊ばれるこの遊戯にさまざまなルールを設け、競技としたものが『競技かるた』だ。
「——というのが概要だけど、あんまり気にしなくていいかな。最初のうちは、下の句が始まってから札を探せばいいから」
優菜はパンフレットでも読み上げるように説明を終えると、にこやかに付け加えた。
「百聞は一見にしかず。やってみよう」
優菜に促され、星輝、瑞季、アスラの三人は顔を見合わせ、頷いた。
案内された市民会館の和室は広々としていたが、集まっているのはちらほらとお年寄りか、保護者に連れられた小学生が数人といったところだった。
畳の匂いが瑞季の鼻をくすぐる。中学生や高校生くらいの年頃の子は、優菜たち以外には見当たらない。
「今日はちょっと人が少ないね。そのうち増えると思うけど」
優菜は少し残念そうに辺りを見回した。
優菜の格好は動きやすそうな水色無地のTシャツにジャージだ。
一方、「今日のために気合を入れてオシャレしてきたぜ」と息巻く星輝は黒地のTシャツとジーンズだ。そのシャツには任侠映画のタイトルのような筆文字で『我、初心者也』と印刷されている。
瑞季は有名な格安チェーン店で買ったTシャツとロングスカートをラフに合わせていた。対して、アスラはいつも通りの純白のブラウスと黒いロングスカートで、畳が敷かれた日本らしい大広間からは浮いていた。本人はあまり気にしていないようだが、周りの小学生たちがちらちらと視線を送っている。
「まず誰と誰がやる?」
「はい!」
星輝が元気よく挙手する。
「月音先生の動きが見たいです!」
学校の教師陣をニックネームで呼ぶ星輝が『苗字+先生』で呼ぶのはちょっぴり新鮮で、滑稽だった。優菜も同じことを思っているらしく苦笑いしている。
「じゃあ、星輝やろっか」
「おう!」
ふたりは六十センチほどの間隔を開けて向かい合った。瑞季とアスラはそれを横から見学する。
「自分の陣地に並べる札は二十五枚。相手の陣地にも二十五枚。合計五十枚で勝負するの」
優菜は百枚の札束から無作為に五十枚を選び出し、山を作る。
「まず、裏返しでよく混ぜて、お互い二十五枚ずつ取る」
優菜は慣れた動作で五十枚の札をふたつに割って畳の上に置いた。そのふたつの山の高さはぴったり同じだった。右手側を星輝に差し出す。
「取った札を自分の陣地に並べるんだけど、ルールがあってね。縦には三段まで。横には、札と札との幅は畳の目一段分開けて、全体で八十七センチ以内に自由に並べる。ここに戦略性があるんだよね。たとえば、得意な札をあえて相手側に置いたりとか」
「なんで? 取られたら不利じゃん」
星輝が見様見真似で札を並べながら首を傾げる。
「確実に取る自信がある札なら、ちょっとくらい遠くても取れるってこと。そのぶん、あまり自信がない札を自分の近くに置いて有利に事を運べるしね」
「へ〜、なるほどね!」
星輝は感心したように声を上げた。
「えーっと、どうしよっかな」
呟きながら、星輝は札を中央に集めて三段に並べていく。特に意図はなさそうだ。
一方、優菜は手際よく、左右にバランスよく札を配置していく。その迷いのない動きは、初心者である星輝とは対照的だった。
「並べ終わったね。ここから暗記時間に入るの」
「暗記か〜。大変だなあ」
「本来は五分なんだけど、今日は一分くらいにしておこうか」
優菜はスマートフォンを取り出し、かるた読み上げアプリを操作した。優しい女性の声が和室に響き始める。
「暗記時間スタート」
そう言って、優菜は場を俯瞰し始めた。目線がキョロキョロと忙しなく動く星輝とは異なり、優菜の目線の動きは大人しかった。まるで全体をひとつの絵として捉えているかのようだ。
一分後、アプリが〈暗記時間を終了します〉と告げた。
「もう一分か。何も覚えてねえ」
「最初は難しいよね」
一言フォローを入れてから優菜は説明を始めた。
「まず、序歌といって、百人一首には収録されていない歌が読まれるの。『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花』っていう歌。下の句だけ詠まれるから、『いまははるべと さくやこのはな』って聞こえるはず。これは試合開始の合図みたいなもので、この札は場にはないから取っちゃだめだよ。本番はその次から」
優菜の説明が終わると同時に、アプリが序歌を読み上げた。
静まり返った和室に響く声に、星輝はごくりと唾を飲む。
序歌に続き、最初の歌が詠まれた。
〈ちはやぶる かみよもきかず たつたがわ——〉
まだ上の句の途中だったが、星輝が「これ聞いたことあるかも!」と声を上げたときには、すでに優菜の手が星輝の陣地の右下にある札を捉えていた。下の句『からくれないに みずくくるとは』が読み上げられる前に、優菜は音もなく札を払っていたのだ。あまりの速さに、星輝も瑞季もアスラも目を瞬かせた。
「かっけえ!」
「有名な句だね。好きな句だからつい手が伸びちゃった。これが最初に来るなんて星輝は持ってるよ」
「へへへ。奪われちまったけど」
優菜は取った札を自分の脇に置くと、自陣の札から一枚を選んで、星輝にすっと差し出した。
「はい、これ『送り札』ね。好きなところに置いて」
「え、取られたのに一枚貰えるなんて、なんかお得な気分だな」
戸惑いながらも札を受け取る星輝に、優菜は悪戯っぽく笑う。
「わたしも初めてカルタを見たときそう思ったよ。でも、自分の陣地から札が無くなった方が勝ちなんだよね」
「へえ! ってことは、相手に札を送るのは、相手の陣地を減らさないためなんだな」
「そういうこと」
次の歌が詠まれる。
〈はなのいろは うつりにけりな いたずらに——〉
星輝はキョロキョロと自分の陣地と相手の陣地を見渡すが、アプリが歌を詠み終えてもそれらしき札が見当たらない。
「あれ? ないぞ?」
「うん、この歌はここにないね」
優菜は再びアプリの再生を止める。
「今の歌は、場に出てる五十枚に含まれてないってこと。試合に使うのは百枚中五十枚だけだから、平均すると二回に一回はこういう『空札』があるの」
「なるほど。逆に緊張感出るかも」
「そうだね。存在しないのに間違って別の札に触っちゃうと『お手つき』になって、ペナルティで相手から一枚札を送られちゃう」
優菜が説明していると、
「おっ、やってるねえ」
温かい男性の声が聞こえた。
見ると、人の良さそうな笑顔を浮かべた男性が立っており、そのままゆっくりと近づいてきて、瑞季の隣に腰を下ろした。笑顔の際にできるシワが深く、朗らかな五十代くらいの男性だった。顔が丸く、胴体もふくよかで、どこかの猫型ロボットを思わせるような安心感のあるフォルムだ。
「こんにちは」
男性は瑞季へ人の良さそうな笑顔を見せながらペコリと頭を下げる。
「こ、こんにちは」
瑞季も少し緊張しながら、釣られて頭を下げた。
「足立先生。今日は少し遅かったですね」
優菜は足立先生と呼ばれた彼に顔を向けながらも、下の句が読まれたばかりの札を、星輝の陣地から軽々と取った。
「午前はちょっと仕事が立て込んでいてね。ところで、みんな、体験に来てくれてありがとうね。ちょっとでも興味を持ってくれたなら嬉しいよ」
「おじさんは強いのか?」
人懐っこい星輝が、遠慮なく尋ねた。
「ハハハ! 試してみるかい?」
「いいねえ。優菜を打ち負かしたらおじさんに勝負を挑もうかな」
などと供述している星輝の陣地からは、まるで札が減っていなかった。それどころか、送り札によって微増している。そして、次の瞬間、読み上げアプリが〈むらさめの〉と上の句を発したときには、優菜はすでに星輝の目の前にあった『きりたちのぼる あきのゆふぐれ』の札に飛びついていた。
「って優菜! もうちょっとウチにも取らせてくれよ!」
星輝が頬を膨らませて抗議する。
「あ、ごめんごめん! つい先生に気を取られて手加減忘れてた」
優菜は悪びれずに笑うと、付け加えた。
「ちなみに、足立先生は強いよ。わたしなんかじゃ全然歯が立たないんだから」
「いやいや、そんなことはないよ、月音さん。君はいつも謙遜しすぎだよ」
足立先生が穏やかに否定する。
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします、先生」
優菜と足立先生は、顔を見合わせて笑った。
優菜はアプリの一時停止ボタンを押した。
「そろそろ交代する? 瑞季もやってみる?」
瑞季はボコボコにやられて倒れる自分しかイメージできなかったが、好奇心はあった。
「うん。やりたい」
「アスラちゃんもやってみる?」
優菜がアスラにも尋ねる。
「あ、えっと、私は結構です。まだ、ひらがなも満足に読めないので……」
アスラは申し訳なさそうに首を横に振った。
「そっか。そうだよね」
優菜は無理強いせず頷く。
「言葉も聞き馴染みがなくて、うまく意味が理解できませんでした」
「昔の言葉だからね。わたしも意味まで覚えてる歌は少ないよ」
優菜がそう言うと、アスラは少し驚いた顔をした。
「そうなのですか。でも、確かに意味は分からないのですが……その、歌の響きが、とても美しいと感じました」
アスラは若干頬を赤らめながら、そう言った。畳に正座したまま、少し俯いている。
その言葉に、優菜の表情は喜びに染まった。座りながら小さくジャンプする。
「へえ! アスラちゃん、歌の響きの情緒が分かるんだね! それってすごいことだよ!」
優菜が目を輝かせて言うと、アスラは「そう、なのでしょうか」と戸惑ったように顔を上げた。
「うん、絶対そうだよ! 日本語をもっと読めるようになったら、一緒に遊ぼうね!」
「は、はい! ぜひ」
アスラは、今度ははっきりと頷き、控えめながらも嬉しそうな笑顔を見せた。




