第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」-1-
髪を後ろで結び、縁の赤い眼鏡をかけた月音優菜は、自室のカーペットに正座し、前のめりで床に並ぶ数十枚のカードを見つめていた。
八十七センチの幅に、六段ずつカードが並べられている。カードの配置は外側に集中しており、優菜の正面には何も置かれていない。格段の隙間は一センチ。上の三段と下の三段の間は三センチ。カードには絵は描かれておらず、平仮名だけが書かれていた。
優菜側の三段のカードの文字は優菜を向いており、逆の三段は逆を向いている。左手を膝の横に置き、右手は膝の前につけていた。
優菜が机の上に置いたスマートフォンから、雅な抑揚をつけた男性の声が鳴った。
〈朝ぼらけ〉
優菜は動かない。
〈宇治の川霧〉
う、の音が発声された段階で優菜は右手をカーペットすれすれの低さで素早く降り、四段目右端のカードを押さえた。
〈たえだえに あらはれわたる 瀬々《せぜ》の網代木〉
音を聞きながら、その札が正解であることを確認する。右手の札を左手に持ち替え、身体の左側に裏返しで置く。先程の一瞬で崩れた配置を整え、再び定位置に戻った。
〈む〉
その一音で優菜は最も手前の段の左端の札を、目線すら動かさずに取った。念のためにその札が正解であることを確認し、裏返して身体の左側で重ねられた数十枚のカードに重ねる。そして、自分の陣地にある札を一枚、不在の相手側陣地に置いた。
スマートフォンアプリがそのまま下句まで読み終え、次の句の読み上げを開始する。
〈夏の夜は〉
優菜は肩の力を抜く。その上の句に対する下の句の札が場にないことを知っていたからだ。
〈夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ〉
その歌を読み終えると、スマートフォンは〈終了しました〉と言った。優菜は正座を崩し、お尻をカーペットにつけ、肩の力を抜いた。
優菜はスマホを手に持ち、時間を見る。
「もう二十二時か」
二十時から二時間だけ練習しようと決めていたので、アプリを落とし、カーペットの上の札を片付け、箱にしまった。その赤を基調とした花柄の箱には『小倉百人一首』と書かれている。
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ」
優菜は歌を口ずさみながら箱を棚にしまう。
この歌は、夏の夜の短さを嘆く歌だ。まだ宵の時分だと思っていたら、既に夜は明けており、それを「こんなに夏の夜が短いのでは、月は西の山陰に隠れる暇もないだろう。雲のどのあたりに宿をとっているのだろうか」という諧謔的な表現で歌われている。
まだ練習を始めて一時間程度しか経っていないと思っていたら、既に二時間経っていた優菜の気持ちと重なったのだ。
ベッドに腰掛け、ヘアゴムを外した。眼鏡をケースに入れた後、三度深呼吸をする。
明日は染谷瑞季たちにかるたを教える予定だった。
楽しんでもらえるかな、と不安が一雫、心に垂れてくる。
優菜は電気を消し、ひんやりとした夏布団に体を潜らせた。
◆
「競技かるた? なんだそれ」
一面の窓越しに快晴の空を眺められるロビーで、ナーサは爪を切りながら、興味なさそうにアスラからの報告を受けていた。
「優菜さん——つまりリアマイムから教えていただくことになりました。リアハイリンとリアスピサと市民会館へ見学しに行きます。リアスピサとは初対面になります」
「空の邦の王子は?」
「私は存じ上げません。彼らはその存在を秘密にしているようですので」
「そらそうか」
ナーサはすべての爪を切り終えると、人差し指の爪にやすりを当てた。爪が研磨され、細かい粉が下敷きにされたチラシに降りかかる。アスラが以前街頭で貰った、政党を宣伝するチラシだった。びっしりと何かの主張が詰め込まれているが、そこに書かれている内容を理解できるほど日本語を読める者は、ここにはいなかった。
「アスラ。任務は分かっているな?」
「もちろんです、お姉さま。デシリアたちの元に潜入し、隙をついてデシリル・ジェムとデシリル・アンプを盗むことです」
「一般人を危険に晒さない限り、手段は問わない。つまり、奴らを殴り飛ばして荷物ごと強奪してもいいんだぞ」
アスラは何も言わず、ナーサから目を逸らした。
「まあ、おまえはそういうやり方を好まない甘ちゃんだよな。この間も、あいつらがひとりになったときに、締め上げて奪えばよかったのに、しなかったもんな」
「周囲に人がたくさんいましたので」
「ふん。勝手にしな」
ナーサは親指で人差し指の爪の先を撫でた。滑らかな触り心地が気に入ったのか、彼女は満足そうに中指の爪の仕上げに進んだ。
ちょうどそのとき、金属製の扉が開いた。ロビーに入ってきたのはブラフザールだ。
「おはよう、ナーサ、アスラ」
「おはようございます」
「アスラ。今日も奴らの元に行くのか?」
「はい。昨日、彼女たちから競技かるたという遊戯に誘われましたので」
「かるた?」
「この国の伝統的な札遊びのことです。詳細なルールは存じ上げませんが、百人一首と呼ばれる昔の歌を使ったカードを取り合う競技だそうです」
「なるほど。そのような遊びが競技になるとは、興味深いな」
あまり興味のなさそうな物言いだった。
ブラフザールは感情が顔や言葉に出ない。戦場以外では常に仏頂面で、口調は平坦だ。歳を重ねていることもあり、近づき難い印象が強い。しかし、彼と長年共にいるアスラやナーサは、彼の懐の広さや慈悲深さをよく知っていた。
とはいえ、競技かるたに本当に興味があるかは、アスラには読み取れなかった。
「アスラはその遊戯に興味があるのか?」
「いいえ。この歳になって、札遊びにうつつを抜かしたりはしません」
「まだまだうつつを抜かしていい歳だと思うが、君らしい意見だ」
「彼女たちにうまく潜り込むため、引き続き彼女たちの趣味に興味のあるふりを続けようと思っています」
「ふむ。デシリアは全員揃うのか?」
「はい」
「では、今日は吾輩が出動しよう」
アスラはわずかに眉を顰めた。
「行く必要はないと聞いておりますが。カスパールさんは最近よく楽しそうに出かけてますし」
「確かに、今回の二度目の方針変更に伴い、カスパールや吾輩、ナーサが戦う必要性は減った。だが、その方針転換が勘付かれては君が不利になるだろう。やはり我々はこれまで通りに動くべきだ」
「そうですか」
「そうでなくても、吾輩は戦うことにしか生きがいを感じられぬ軍人だ。戦うべき相手がいるのにじっとしているのは、性に合わぬ」
アスラにはその感覚が判然としなかった。
「またスレイヴを使わずに戦うつもりですか?」
「そうしたいのは山々だが、君に心配をかけるのは良くない。今日はスレイヴを使わせてもらう」
そう言うと、ブラフザールは自嘲気味に口の端を上げた。
「じっとしているのが性に合わぬと言いながら、結局戦いをじっと見つめることになるのだろう。結局、吾輩は適当に理由をつけて外の空気を浴びたいだけなのかも知れぬ」




