第十一話「風鈴」-7-
ヘヴンのアジトのロビーの窓から、青、赤、黒のグラデーションに彩られた空がよく見える時刻。
カスパールは紙カップのアイスチャイをストローで飲みながらソファに座り、空を眺めている。カレー屋のテイクアウトで買ってきたものだった。
入り口の扉が開く。
入ってきたのはナーサだった。
「お疲れさまです」
彼女の声が日本語で聞こえる。カスパールは翻訳機のスイッチを切っていたが、その言葉の意味は理解できた。
「お疲れさま、ナーサ」
カスパールは母国語で答える。
ナーサは耳の翻訳機を外し、襟に指を入れて首の翻訳機のスイッチを切り、カスパールの正面のソファに座った。それぞれ、多言語をリアルタイムで翻訳して聞く機械と、口から出る母国語を打ち消して多言語に翻訳して出力する機械。これを使えば、言葉の壁など存在しないも同然だった。
「翻訳機越しでの会話にも慣れたけど、やっぱり耳で直接言葉を聞くのが落ち着きます」
「同感だ。翻訳機なしでも会話できるように勉強せねばな」
「そこまで長居するつもりはありませんよ」
「それもそうだな。ところで、今日はどうだった?」
「消化不良です」
ナーサの顔は歪んでいた。心底気に食わないという表情だ。
「要するに、しっかりと任務を果たしたというわけだな」
ナーサは軽く首肯した。
「スレイブは召喚主ひとりにつき一体ずつしか召喚できないことを、ブラフザールさんがあいつらに教えてたのは予想外でしたが。まあ、バレてないでしょ」
「ふむ。ブラフザール殿は普段無口だが、変なところでおしゃべりな節はある」
そこで会話が途切れる。
カスパールは、ナーサにはまだ話したいことがあるだろうと思っていたが、彼女はなかなか口を開けない。どうやら自分からは切り出しにくいらしい。
チャイがなくなり、氷だけになった紙コップを円テーブルに置いてカスパールは尋ねる。
「新たな作戦について、君はどう思う?」
「どうって……ジンの命令ですから、従うだけです」
「作戦そのものについての君の率直な意見を聞いている」
ナーサはカスパールから顔を逸らし、窓の外に広がる空を眺めた。
「正直、本命の作戦がバレないために適当に戦うなんて、嫌ですよ。しかも、あいつのためのデコイみたいな役割なんて。ちょっとイライラしてたから、人が死なないように気をつけながらスレイヴに街を破壊させちゃいました」
反抗期の非行少女のような横顔だった。
カスパールは腕を組む。
「怪我人が出たら、元も子もないな」
「すみません」
「君の気持ちは分からなくもないが、彼女ほどの適任が他にいないのだから仕方がない」
ナーサは顰めっ面で眉をぴくっと動かした。カスパールの言ったことは正論だが納得はできない、という表情だと、カスパールは読み取る。
「カスパールさんはどう思うのですか」
「我らが不殺の方針を掲げている限り、妥当だろう。少々回りくどい作戦だとも思うが」
「回りくどいですよね」
次に続いたナーサの声色は、やや温かい色だった。
「でも、ジンがこの作戦を提案するなんて意外です。他人の安全を鑑みるなんて」
顔がかすかに紅潮している。
ナーサのジンへの気持ちを目の当たりにすると、カスパールはいつもどう反応すればいいのか分からなくなる。いつもどおり、淡々と事務的な会話を続けることしかできない。
「そうだな。しかし、君よりもさらに若いあの子の精神への負担が気になる。我々軍人を差し置いて、戦闘慣れしていない自分が作戦の最重要人物になるなど、私であれば緊張で布団に潜りたくなるかもしれない。心のケアも必要だろう。今のジンが心のケアなど考えられるはずはない。君や私でなんとかしてやらないと」
「あたしだって何もできないし、やりたくない」
ナーサの返答に、カスパールはため息をつき、ナーサと同じように空を見上げた。
その空に、彼女と初めて会った頃のことを思い浮かべてしまう。
ボロボロの布に身を包み、小さな身体で妹を庇うように抱いてこちらを睨む、野良猫のような姿を——。
ちょうどそのとき、入り口の自動扉が開いた。
そこに立つ少女が会釈し、カスパールたちへ向かってくる。彼女に後頭部を向けるナーサは、振り返りもしなかった。
「噂をすればなんとやら、だな」
カスパールは立ち上がって少女を迎える。
ナーサは座ったまま何も言わず、俯いていた。
入ってきた少女の靴が自分の視界に入ると、ナーサはようやく重い口を開けた。
「任務の進捗は順調か?」
「はい」
風鈴のような、細く美しい声だった。
ナーサは顔を上げる。
白いブラウスと黒いロングスカートに身を包んだ金髪の少女——アスラの青い目と、目線がかちあった。
「順調に潜り込めています。ナーサお姉さま」
(第十一話「風鈴」了)
第十二話「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の」2026/4/18 8:00投稿予定




