第十一話「風鈴」-5-
トラック型スレイヴの突進——その衝撃は、彼女の記憶を数瞬だけ消し飛ばした。
気づいたときには、アスファルトの上を転がっていた。
全身が軋む。頭が割れそうだ。
だが、休む暇などない。
鉄塊が再び、倒れた彼女を轢き潰そうと迫る。
「くっ……!」
地面と空がぐらりと回る。
嘔吐感をねじ伏せ、無様に地を這って跳んだ。
間に合わない——!
衝撃を覚悟し、眼を閉じた。
だが、衝撃は来なかった。
ゴウッ、と風切り音だけが足先を掠める。
おそるおそる目を開けると、スレイヴのバンパーが彼女の鼻先数センチを通過していた。直前にビルや電柱へ激突したせいで車体が大きく凹んでおり、その空洞が奇跡的に彼女の身体と重なったのだ。
「あぶな……」
冷や汗が背中を伝う。
悠長なことは言っていられない。スレイヴはもう一体いるのだ。
ふらふらと起き上がり、木の上に座るナーサを睨む。
「前にあなたの仲間のおじさんが、スレイヴを二体呼び出すことは並大抵の人にはできないし、同士討ちしちゃうからメリットもないみたいなこと言ってたんだけど。なんで二体呼び出せてるの?」
「さあね、自分で考えれば?」
「……そっか。第一世代だと召喚主が操作するから、同士討ちはしないのか」
だが、精神的な負担は倍増するはずだ。
そこまで思考した、その瞬間。
「ぼそぼそ言ってる場合か?」
警告と共に、左肩に灼熱のような痛みが走る。
「っ!?」
視界を黒い影が横切った。カラス型スレイヴだ。トラック型と遜色ないスピードで滑空し、すれ違いざまにその嘴で肉を抉っていたのだ。
「ぐ……左腕が……」
前腕までうまく力が伝わらず、拳を握ることすらままならない。
スレイヴは再び上空へ戻り、旋回して次の機会を窺っている。
その隙を、地上のトラックが見逃すはずもない。
爆音と共にエンジンが唸る。
リアハイリンは痛む腕を抱え、トラックへ意識を集中した。
今までどおり、引きつけてから真横に——。
ドンッ、と背中に衝撃が走った。
回避動作を取るよりも速く、彼女の視界は空高く持ち上げられていた。
「しまっ——」
背後から忍び寄っていたカラスが、その鋭利な爪を背中に突き立て、彼女を鷲掴みにしたのだ。
「ちょっと! 何すんの!」
逃げ場のない処刑台に吊るされたようなものだった。
カラスはリアハイリンを掴んだまま低空を飛び、トラックの正面へと一直線に向かう。
トラックもまた、カラスへ向かってアクセルを踏み込む。
狙いは、正面衝突による圧殺。
「やば!」
空中では踏ん張りも効かない。背中の爪を引き剥がそうにも、負傷した左腕は動かず、右腕だけでは出力が足りない。
身体を重くして振りほどこうにも、この速度で激突すれば轢かれる未来は変わらない。
迫りくる鉄の壁。
重たい一撃を覚悟したそのとき、
「『黒き感情、流れゆけ』」
信頼できる仲間の声が響いた。
「『デシリア・フライト・シャワー』」
次の瞬間、トラックが閃光と水飛沫に包まれて弾け飛んだ。
激流の直撃を受けたカラスもまた、たまらずリアハイリンを空中に放り出す。
光が消えると、そこにはただのボロボロの運送トラックが停まっていた。慣性でリアハイリンに向かってゆっくり進み、彼女の眼前で止まる。
そして、その向こうから見慣れた水色の戦士が顔を出した。
「マイム!」
「ごめん、結局ついてきちゃった」
「助かったよ。アスラちゃんは?」
「留守番してくれてる。気を使わせちゃって申し訳ないから、ちゃちゃっと済ませちゃおう。腕、大丈夫?」
「腕どころかトラックに轢かれて全身痛いよ」
「轢かれたの!?」
「めっちゃ痛かったけど、なんとか転生はしてない」
冗談を言って微笑みながら、リアハイリンは旋回するスレイヴを見上げた。
「あのカラス、小回りが効くから厄介。私が追い回してマイムの元に誘導しようと思う。あわよくば捕まえる」
「そこを叩けばいいんだね」
「うん。まず、私をカラスまで打ち上げて」
「了解」
直後、リアハイリンの足元から水柱が噴き上がった。
その水圧をエレベーター代わりに、リアハイリンは一気にビルの屋上付近まで跳ね上がる。
リアハイリンはスレイヴへ跳ぶ。スレイヴは斜め下へ猛スピードで滑空して逃げ、リアハイリンは風に乗って身体を操作して追いかける。
ビルに囲まれたこの場所は広くない。
スレイヴはビルにぶつからないように弧を描くように左に曲がる。
それを見越し、スレイヴよりも小回りで曲がって近づいていく。
とうとうスレイヴの尾に手が届きそうになる。
そこで、スレイヴは翼をはためかせ、空へ浮き上がった。こうなるとリアハイリンに追いかける術はない。
彼女がひとりであれば。
リアハイリンの手元に水の柱が出現し、彼女はその先を掴む。柱はスレイヴの高さまで伸び、彼女の身体を上昇させていく。
カラスと目線の高さを合わせると、リアハイリンは再度飛びかかった。
ようやく、その尾を掴む。
その瞬間、カラスの飛行能力が失われた。
リアハイリンが自身の質量の鉛のように変化させたからだ。
数トンの錘をつけられたカラスは、悲鳴を上げる間もなく垂直落下する。翼をバサバサと羽ばたかせるが、一ミリも浮き上がることはできない。
地面との激突の直前、リアハイリンは身体を元に戻し、スレイヴを地面に叩きつけるようにして投げた。
凄まじい地響きと共に、スレイヴがアスファルトにめり込む。
まだ動こうと痙攣するカラス。
だが、その頭上には既に巨大な影が落ちていた。
リアマイムが作り出した、巨大な水のハエ叩きだ。
とうとうカラスは、動く手段を失った。
「『黒き感情、無に帰せよ』」
リアハイリンは空中から足元のスレイヴへ手を向け、残る力を振り絞って唱えた。
「『デシリア・クリア・スクリーム!』」
浄化の光が炸裂する。
光が収まると、そこには何事もなかったかのように普通のカラスが、キョロキョロと周囲を見渡していた。カラスは元気そうに飛び立っていく。
「ふう……。さて、ナーサ! ——って、あれ?」
ナーサが座っていた木へ顔を向けたが、既にもぬけの殻だった。
「いつのまに……」
リアマイムもナーサがいなくなったことに気づいていなかったらしい。
「まあいいか」
そう呟くリアハイリンだが、その表情は曇っていた。
「どうしたの?」
「今の戦い、なんか変だった気がして……。最初、スレイヴは一体だけだったんだけど、途中でもう一体増えてさ。ナーサは肩がだるいとか言って他人事だし」
ふたりの間に沈黙が走った。
リアマイムも彼女同様に表情を曇らせるが、パン、と手を叩いてその暗い空気を弾き飛ばした。
「ともかく、今はアスラちゃんの元に帰ろう」
「そうだ! 早く帰らなきゃ! あまりにもトイレが長い女だと思われる!」
変身を解こうとした、そのとき。
「——誰?」
視界の隅、ビルの影に誰かが立っているのが見えた。
すぐに顔を引っ込めてしまったので、正体までは分からない。
リアハイリンは駆け出し、ビルの角を曲がった。
だが、そこには誰もいない。
がらんとした狭い路地に、ただ風だけが吹き抜けていた。




