第三十九話「手鏡と姿見」-3-
その日の夜、真色泉かえではサムネイルに「酔いたい気分」と掲げ、飲酒雑談配信をしていた。
いつもより声が弾んでいる。コメント欄もそれを面白がっているようだった。
〈何かあったときのために、裏でマネちゃんが見守ってくれてるんだけど、途中で配信切れちゃったらごめんね〉
しばらく他愛もないコメントを拾っていたかえでが、ふと画面の向こうを見つめるように黙った。
〈最近、誹謗中傷の話題とかよく聞くでしょ。あれについてなんだけど……かえでの目にもいっぱい入るの。傷つかないと言えば嘘にはなるけど、もう活動長いから、慣れたのは慣れたよ。で、悪質なものについては、大人として然るべき対応を取る〉
かえではそこで言葉を切った。
がさがさ、とお菓子の袋を開ける音がした。続いて、ポリポリとスナック菓子をかじる音。ひと口飲み込んでから、かえでは話を続けた。
〈自分でも性格悪いと思うんだけど、傷つけられた後の反撃って、公的なアレだからさ、ほとんどの人にとっては手続き的にも大変だし、傷つけられたことに向き合わないといけないから精神的にもしんどい。かえでも最初はそうだった〉
いつもよりも舌足らずで高い声。それが、話している内容の重さを軽減させていた。
〈でも、飽き飽きするほど慣れちゃったから、今となっては正々堂々と敵を排除するスイッチがカチッと入るの。FPSのゲームみたいにね。で、だいたい、相手は反省するし、相手が子供だと分かったら、ついつい許したくもなっちゃう。でも、インターネットで生きる者として、教えてあげなくちゃいけない。悪口を書き込んでる奴が、どうせ相手には自分がどんな人間かなんて分かりっこないって思ってるのと同じように、キミが悪口を書き込んだ相手がどんな人間であるかも、キミにはわかりっこないんだってね。匿名っていうのは、キミの名前と顔を隠して守ってくれる代わりに、キミを子供として甘く見ることもしないんだって〉
くは〜、と美味しそうな唸り声が聞こえる。
画面に映る彼女のデスクには、赤ワインのイラストが貼られていた。
〈調子に乗って言いすぎたかも。ごめんね、イメージと違ってがっかりしちゃったら。あ〜! 会社から怒られたらどうしよう!〉
冗談めかして笑うその声は、いつもより幼く聞こえてかわいらしい。思わず「かわいい」とコメントを送ってしまう。
◆
案内された佐倉しずくの家は、瑞季の家と同じく、ごく普通の住宅街に建つ一軒家だった。だが、彼女の自室のドアを開けた瞬間、瑞季は、ここが特別な空間であることを悟った。
「ど、どうぞ……。ちょっと、散らかってるけど……」
謙遜するしずくの言葉とは裏腹に、その部屋は『好き』に満ちていた。
カラーボックスのひとつが真色泉かえでの祭壇と化していた。中央にはアクリルスタンドが鎮座し、その周りを缶バッジやアクリルキーホルダーが、満天の星々のように囲んでいる。壁には、厳選されたであろう数枚のタペストリーが等間隔で飾られていた。
瑞季の部屋にも、ささやかながら推しのコーナーは存在する。だが、その規模と密度がまるで違う。
「す、すごい……! これ、全部集めたの!?」
「うん。お小遣いのほとんど、かえでちゃんにつぎ込んじゃってるから……」
はにかむしずくが指差した先には、クリアファイルに几帳面に収納された、大量のステッカー。そして、椅子の背もたれには、複数の缶バッジでデコレーションされた、可愛らしいトートバッグがかけられていた。いわゆる『痛バッグ』だ。その配置センスは、瑞季の目から見ても完璧だった。
瑞季は、部屋を見回した。
……負けてる。
グッズの数でも、飾り方でも、愛の可視化でも。
いや、愛に勝ち負けなんてない。ないけど。
「染谷さんは、かえでちゃんの、どんなところが好き?」
「えっ!? えーっと、やっぱり、歌かな! 歌声はあんなにお姉さんなのに、話していると、ときどきすごくいたいけな少女みたいになるところが、唯一無二っていうか……」
「わかる! わかります! あのギャップ、たまらないですよね! 私は、お酒飲んだときの配信も好きで……!」
「わーかーりーみ! 綺麗な声でちょっと暴言吐くのがいいよね。酒癖の悪さといい、ときどき出る幼女っぽさといい、あの落差がいいよね。ああ! なんてエッチな位置エネルギー!」
「ねー!」
一度火がついたオタクの会話は、もう誰にも止められない。
しずくは、普段の大人しい姿が嘘のように、早口で熱っぽく、真色泉かえでの魅力を語り続けた。
彼女は、月額のメンバーシップにも加入しており、時折スーパーチャットも送っているという。一方、瑞季は動画サイトのプレミアム会員に入って広告をスキップしているだけで、メンバー加入もスパチャもしたことはなかった。コメントも「かわいい」「うんうん」「草草草」「くしゃみ助かる」といった簡単なものばかりだ。
「さすがに、親からもらったお小遣いで、あんまり大きな額のスパチャを送るのは抵抗があって……。でも、高校生になってアルバイトを始めたら、いつか絶対、赤スパを送りたいんです。この気持ちを、かえでちゃんに伝えたくて……」
瑞季は、しずくの純粋な熱量を羨ましく思う。だが、同時に、その危ういほどのめり込み方に、かすかな不安が胸をよぎった。まるで、自分のすべてを推しという存在に捧げてしまっているかのような——。
……もしかして、ガチ恋勢だったりするのかな。
ひとしきり語り尽くしたあと、しずくはふっと口を閉じた。何かを思い出したように、少しだけ視線を伏せる。
「染谷さんは、他にオタク友達はいるの?」
それが、少し勇気を出した質問なのが感じられた。
答え方に迷いつつも、瑞季はありのままに答える。
「アニメが好きな子はいるけど、Vオタはいないなあ」
「そうなんだ」
しずくは頬を赤くしながら、落ち着かなげに両手の指を絡めた。
「わたし、友達自体いなくて。だから、染谷さんと仲良くなれて、すごく嬉しくて」
その言葉に、いつかの自分を思い出した。
優菜に初めて話しかけられた頃の自分を。
自然と笑みがこぼれた。
「私も、佐倉さんと出会えてよかった」
言ってから、瑞季も少しだけ恥ずかしくなった。
しずくも頬を赤くしたままうつむく。
さっきまであれだけ喋っていたのに、ふたりとも急に口数が減った。
しばらく、ふたりとも手元のグッズを眺めていた。
先に視線を上げたのは、しずくだった。
「そのお友達ってどんな人?」
「ひとりは、外国の子。アニメのイベントに行った帰り道に話しかけてくれて、そこから仲良くなってさ」
「へえ……本当にそんなことってあるんだ」
「うん。私もびっくり」
実際にはアスラは意図的に瑞季に接触してきたわけだが、それでも、あの出会い方をして良かったと、瑞季は思っている。
「金髪の、ちょっと大人っぽくてちょっと天然な清楚美人なの。もう、絵本の中から飛び出してきたお姫様みたいな!」
「なんだか、フィクションみたい」
しずくは、にひひ、といたずらっぽく笑った。
「そういう子が罪深い性癖持ってたりすると、萌えるよね」
「……それ、ちょっと分かるかも」
アスラとはこれまでアニメの話を何度もしてきたが、いつもストーリーや世界観の話になりがちで、そのようなことを聞いたことはなかった。
「アスラちゃんは、どんなキャラクターが好きなんだろ」
「——ヘクシュン!」
その頃、優菜の部屋では、優菜とアニメを観ていたアスラが突然くしゃみをした。
「どうしたの? 風邪?」
「そういうわけではないと思いますが……なんでしょうね、急に鼻がムズムズしました」
「誰かがアスラちゃんの噂をしてるのかな」
アスラは少し考えた。
「そういう迷信は聞いたことがあります」
そして、ふと窓の外へ目を向けた。少し肌寒く感じ、腕をさする。
「でも……なんだか、嫌な予感がします」
◆
その夜、瑞季は自室の机で宿題を進めていた。パソコンでは、真色泉かえでのゲーム配信がBGM代わりに流れている。
ゲームが終わり、雑談に入ったところで、コメント欄に「アンチ」という言葉がちらほら流れ始めた。ゲーム内で「アンチ・ウイルス」という言葉が出てきていたからだろう。
〈アンチって意味分からないよね。嫌いなら見なければいいのに〉
そのコメントを、かえでが拾った。
アンチという人たちの気持ちは、瑞季にはどうしても理解できなかった。
好きでもないものをわざわざ見に行って、嫌いだと声を上げる。自分なら、そんなことをする時間があるなら好きなものを見ていたい。
だからこそ、次にかえでが語った言葉には、思わず顔を上げた。
〈そうだね。でも、アンチの人たちにも、きっと好きな子はいるんだよね。『好き』っていう気持ちを大切にするように、『嫌い』って気持ちも、きっとすごく大事にしてるんだと思うな。『好き』も『嫌い』も同じくらい大事な気持ちだから、それを否定したくはないかな〉
画面に映るアバターが、一度上を向いた。
一息ついてから、まっすぐ、視聴者へ目を向ける。
〈『好き』は手鏡で、『嫌い』は姿見。……かえでは、そう考えてるの。手鏡ってさ、それを見て、自分の笑顔を知ることもできるし、その手鏡自体が可愛かったら、持ち歩きたくもなるし、人に見せたくもなるでしょ? それが、手鏡にとっても本望だし、一番いい使い方だよね。それって、『好き』って気持ちと似てると思わない? もちろん、人知れずこっそり愛でるのも、すごく尊いんだけどね〉
画面の中で、真色泉かえでがクシャッと笑う。
〈でも、『嫌い』って気持ちは、『好き』以上に自分自身のことを教えてくれるじゃない? 誰々のこういうところが嫌いだ、って思うところって、自分が気をつけようとしているところだったりするし、あるいは自分自身の嫌いなところと一致してたり。だから、『嫌い』って気持ちは、手鏡よりは姿見なんだよね。手鏡よりももっと広く、自分の全身を知ることができるけど、あんな大きなもの持ち歩かないでしょ? 重たいし、割れたら危ないし。手鏡とは違ってて、部屋の隅に置いて、ときどき自分の姿を確認するために綺麗に磨いておくのが、一番いい付き合い方なんじゃないかな〉
瑞季は、真色泉かえでの言葉をただ静かに聞き入っていた。
そこでふと、ナーサのことが頭に浮かんだ。
瑞季は、ナーサ自身を嫌っているわけではなかった。ジンが心を失ってもなお、彼のために生きようとする姿には、眩しいほどの一途さを感じる。
もちろん、星輝や無関係な人たちを傷つけたことは許せない。でも、憎んでいるのは、あくまで彼女の行いであって、彼女自身ではない。
では、ナーサが自分たちを嫌う理由は?
彼女がアスラへ向けて発した言葉を思い出す。
——都合の悪いところから目を逸らして、全部分かった気になってるあんたみたいなやつが、一番嫌いだ……っ!
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
あの怒りは、ただの憎しみなのだろうか。
「……恋と推しは違うけど、ナーサにとってのジンと、私にとってのかえでちゃんは、似てるのかも」
同じものではない。けれど、大切な人を失う怖さなら、分かる気がした。
もし、推しが突然いなくなったら。
活動を辞めたり、何かに傷ついて笑わなくなったりしたら。
自分は、どうなってしまうのだろう。
「それに——」
未来の自分の姿が脳裏に浮かんだ。
黒く染まり、世界を壊そうとしていた自分。
あの姿が自分の未来なのだとしたら。大人になるということは、夢と現実の間で、あんなふうに壊れてしまうことなのだろうか。
瑞季はしばらく夜空を見上げていた。
星は綺麗だった。
なのに、今は少しだけ遠く見える。
——私は、どんな大人になるんだろ。
ヒナが帰ってきた夏の終わりの夜、瑞季はそんなことを考えていた。
その問いに答えるように、世界を壊そうとしていた、もうひとりの自分の姿が浮かぶ。
心が、きゅっと縮む。
「……そっか。大人には……なりたくない、のかも」
やがて、スパチャ読みのコーナーが始まる。色とりどりのコメントが画面を流れていく。
その中に、ひとつの文章が目に留まった。
『こんばんは! かえでちゃんのアクキーをバッグにつけて登校しているのですが、隣のクラスの子も同じものをつけてて、それをきっかけに仲良くなれました! かえでちゃんのおかげで友達ができました! ありがとうございます!』
「……!」
瑞季は思わず身を乗り出した。
これ、佐倉さん……?
確信はない。けれど、こんな偶然があるだろうか。
同じ画面を見ているであろう友人の顔を思い浮かべると、胸の奥がじんわり温かくなった。
かえでちゃん、ありがとう。
瑞季は、そっと笑った。




