第三十九話「手鏡と姿見」-2-
黒瑞季とナーサが会話している頃、ヴォイズ・アークのアジトにある別の部屋では、凪宮琥珀が薄暗い照明のもと、ヘッドホンで音楽を聴いていた。
不意に部屋のドアが開いた。凪宮の視界の端に人影が映る。
「よっ」
磐名式乃だった。いつものように気怠げな表情で壁に寄りかかっている。
凪宮はヘッドホンを外し、首にかける。
「急に入ってくるなんて失礼ですね」
「おいおいノックくらいはしたんだぞ? ヘッドホンで音楽聴いてるアンタが悪い」
「それは一理ありますが、何の用ですか?」
「昼メシ、行かねえ?」
「……構いませんが、珍しいですね。どんな風の吹き回しです?」
凪宮は無表情で問い返す。磐名が自分を食事に誘うなど、天変地異の前触れかもしれない。
「たいした理由なんてねえよ。ま、尺が余ってたんじゃね?」
「……尺?」
「じゃ、先に行ってるから。準備ができたら来いよ」
言うだけ言って、磐名はさっさと部屋から出て行ってしまった。
残された凪宮は、小さく溜息をつくと、仕方なく立ち上がり、クローゼットへと向かった。
瞬間移動装置の前で、磐名は、腕を組んで凪宮を待っていた。
やがて、通路の奥から凪宮が姿を現す。その姿を見て、磐名は少しだけ意外そうに目を見開いた。
「お? 今日はタキシードじゃないのか?」
凪宮が着ていたのは、シンプルな黒のTシャツに、ラフなジャケットを羽織っただけの、ごく普通の服装だった。
「TPOですよ。あなたと行くような店に、高い服なんて着ていいはずがない」
「言えてるな。いつもTPOをわきまえてるかどうかは、さておきだが」
軽口を叩き合いながら、ふたりは、光の中へと足を踏み入れた。
磐名が向かったのは、何の変哲もない大衆食堂だった。外壁には手書きのメニューが貼られ、店内からはサラリーマンたちの楽しげな声が漏れ聞こえている。
その賑やかな声に眉をひそめながら、凪宮は店先の食品サンプルと値札をじっくりと眺めていた。
「あなたによく似合う、安いお店ですね」
「だろ? こういうところ来ねえだろ、アンタは」
「ええ。行ったことがありません。興味もないです」
「おいおい、それが人に連れられた店を見て言うべき感想か?」
ふたりは暖簾をくぐり、小さなテーブル席に向かい合って腰を下ろす。くたびれたエプロンを身につけた女性店員がやってきた。磐名は唐揚げ定食を頼み、凪宮も何を注文すればいいか分からず、同じものを頼んだ。
手持ち無沙汰になり、凪宮は店の隅の古いテレビに目を向けた。ちょうど国会中継が映っていた。しかし、店内が騒がしく、何を話しているのかまでは聞き取れない。
「最近、調子はどうだ?」
磐名は湯呑みのほうじ茶をすすりながら尋ねた。凪宮もそれにならって口をつけたが、思いのほか熱く、ひと口含んだ瞬間に思わず口を離した。
「退屈ですよ」
「へえ。アタシより真面目に働いてるくせに退屈なのか」
「あなたはもう少し真面目に働いてください」
「働きたくないから、こんなことしてるんだよ」
「それはそうですね」
「ま、あれこれ準備してるんだよ。そう遠くないうちに、月音優菜に接触するつもりさ。アンタはどうだ?」
先日の高梁星輝との戦いを思い出してしまう。途中まではこちらが優勢で、気持ちよく追い詰めていたはずなのに、最後はあのざまだ。我ながらみっともない。彼女の話題は、口にしたくなかった。
「……どうも最近、ときどき神辺穹がひとりで外出しているようです」
「へえ」
「彼女がひとりで外出するタイミングと、僕の気が向くタイミングが重なったら、接触しようと思っています」
「なんか雑だな」
「あなたに言われたくはありません。それに、『スレイヴを使うのは週一回未満で充分間に合うから、あえて急ぐな』と言っているのは、僕らの主ですので」
「そうだな。こういうのは冬に決着をつけるのがセオリーだしな」
「何のセオリーですか」
この人と話していると調子が狂う、と毎度ながら凪宮は思う。
「そういえばアンタ、神辺とは同級生なんだっけ?」
「ええ、一応。学校で話したことはありませんが」
「ふーん」
そこで会話が止まった。改めてテレビに目を向けるが、画面はほとんど変化しておらず、音も相変わらず聞こえなかった。
五分ほど経過したところで、唐揚げ定食二人前が運ばれてきた。平大皿には、油の光る鶏の唐揚げが山のように積まれ、その麓には樹海のようなキャベツの千切りが乱雑に敷かれている。ご飯茶碗も味噌汁のお椀も、凪宮が思っていたよりずっと大きかった。
凪宮は皿を見て、眉を動かした。
「……これは一人前ですか?」
「見りゃ分かるだろ」
「そうですか」
ちょうどその頃、騒がしかったサラリーマンの一団が退店し、ようやくテレビの音声が聞こえるようになった。
画面の中では、恰幅のいい総理大臣が増税案について得意げに説明していた。
〈——つきましては、現行の制度にはいささか不平等な点がございます。それを是正することが、今回の主な目的であります〉
磐名は、箸でつまんだ唐揚げを口に放り込みながら、心底うんざりしたように呟いた。
「いたなあ、こんな総理大臣。子供のときは『大人になったらこいつらの言ってることも理解できるのかな』って思ってたけど、今見てもさっぱり訳わからんな」
「それはあなたが何も学んでないからです」
凪宮の指摘を、磐名は無視して続ける。
「どんな解釈したら、その理由で国民を納得させられると思ってんだよ。『走れメロス』を読んで、『地球のため、私たち一人ひとりが、自然の保護に努めなければならないと気付かされました』って感想文が書けるくらいの、豪快な行間の読み方をしねえと無理があるだろ。もういっそ、『裏金を使わずに正々堂々と豪遊したので増税します』くらい、正直に言っちまえよな。その方が、よっぽど信頼できるわ」
品のない物言いに、凪宮は深い溜息をついた。
「彼らも彼らなりに、必死に仕事をしているんですよ。少なくとも、あなたよりずっと専門的な知識を持った上で多角的に物事を考えている。テレビ越しの数分だけ見て、素人が全部分かったつもりになるのは感心しませんね」
「ふうん」
「何が正しくて何が間違っているかなんて、論ずるつもりはありません。ですが、自分よりはるかに多くを学び、膨大な情報を扱う立場の人間より、自分の考えのほうが正しいと思い込むのは、愚か者の特権ですよ。自分には想像もつかない事情があることさえ想像できない。その単純な思考が羨ましい限りです」
皮肉を込めて言ったつもりだが、磐名は「へへっ」と笑った。
「アタシは学のない愚か者だからね。思う存分言わせてもらうさ。アタシに言わせりゃ、政治家様に気を遣って国民が言いたいことも言えないんじゃ、本末転倒だろ」
画面の中の総理大臣が演説を終えると、その背後に座っていた議員たちが一斉に拍手を送った。
「おいおいおいおい、今の発言のどこに感心する要素があったんだ? 『裸の王様』のTRPGでもしてんのか? 昼間から遊んでないで真面目に仕事しろっつーの」
磐名が好き勝手に毒を吐くのを聞いているうちに、凪宮はすっかり食欲をなくしていた。箸を持つ手が止まる。
「……あなたと食べるご飯は、まるでおいしくありませんね」
「あ?」
磐名はキッチンの方へ身体を向け、手を上げる。
「おばちゃーん! このガキ、飯がまずいって!」
「そんなことは言っていません!」




