第三十九話「手鏡と姿見」-1-
染谷瑞季は理科室の机を雑巾で拭き上げると、満足げに息をついた。これで今日の掃除当番は終了だ。窓から差し込む西日が、実験器具の並ぶ棚を、オレンジ色に染めている。
部活に早く行きたそうなクラスメイトに「鍵は私が返しとくよ」と声をかけ、瑞季はひとりで理科室に残った。
学校で、こうして誰にも邪魔されずに過ごせる時間は貴重だ。瑞季はしばらく、広い理科室でぼんやりと過ごした。一分ほどしてから戸締まりを済ませ、鍵を返しに向かう。
ちょうどそのとき、隣にある家庭科室の方からひとりの生徒が歩いてくるのが見えた。確か、隣のクラスの佐倉しずく。顔と名前だけは知っていた。いつも教室の隅で本を読んでいるような、物静かな女の子だ。向こうも掃除当番だったのだろう。
互いの視線が、相手の通学カバンに、磁石のように吸い寄せられた。
「「……あっ」」
同時に、小さな声が漏れた。
時間が止まる。
瑞季のボストンバッグには、小さなアクリルキーホルダーが揺れていた。佐倉しずくのバッグにも、まったく同じものがついている。
それは、ただの流行のアクセサリーではない。
瑞季の推しVチューバー・真色泉かえでが配信で身につけている、泉と楓の葉をモチーフにしたトレードマークを再現したものだ。しかも、先日届いたばかりの周年記念グッズである。
瑞季の心臓が、跳ねた。
つまり、目の前にいるこの少女は——同じ穴のムジナ!
「……!」
ふたりの視線が、絡み合う。
瑞季の頭は、瞬時にフル回転を始めた。
——同担だ! マジか! こんな身近に、かえで組(真色泉かえでのファンネーム)がいたなんて! 昨日の歌枠、見た!? 最高だったよね!? ねえ、語り合おうよ!
そんな歓喜の感情が、火山のマグマのように噴き出しそうになる。
だが、同時に、脳内の冷静な自分が警報を鳴らしていた。
——待て、染谷瑞季。落ち着け。相手が同担拒否だったら? 「にわかが馴れ馴れしく話しかけてくるな」と、塩を撒かれかねない。最悪の場合、「真色泉かえでは私のものよ」と襲いかかられる可能性だって——!
オタクの世界は都心の駅のように複雑で、時に戦場よりも過酷なのだ。
佐倉しずくも同じことを考えているのか、その大きな瞳をわずかに見開き、固唾を飲んでこちらを見つめている。
数秒が、永遠のように感じられた。
瑞季はごくりと唾を飲み込み、沈黙を破った。ここで引くわけにはいかない。これは、聖戦なのだ。
「……同担、歓迎? 拒否?」
もし、ここで「拒否」と返されたら、光の速さでこの記憶を脳内から完全に消去する。そのシミュレーションは、完璧だった。
しずくの肩が、びくりと揺れた。彼女は視線を泳がせ、数秒間、何かを迷う様子を見せた後、やがて小さな声で答えた。
「……歓迎、です」
その言葉を聞いた瞬間、瑞季の中で何かが弾けた。
「私もっ!」
瑞季は満面の笑みで両手を掲げた。しずくもおずおずと両手を上げ、互いの手のひらを合わせる。
パチン、と。
乾いた音が夕暮れの廊下に響いた。長年離ればなれになっていた戦友が再会を祝うような、力強いハイタッチだった。
話してみると、ファン歴は瑞季のほうが一年ほど長かった。しずくは、先ほどまでのおずおずとした様子はどこへやら、早口で「いいなあ! 去年の伝説の生誕ライブ、リアタイしたかった……!」と興奮している。
「あの、もし、よかったら……」
ひとしきり盛り上がった後、しずくが少し照れくさそうに切り出した。
「今度、私の家に来ませんか? グッズいっぱいあるんです。染谷さんにも、見てもらいたくて……」
あまりにも魅力的すぎる戦友の提案に、瑞季が断る理由など、どこにもなかった。
「行く! 絶対行く!」
こうして、ふたりのオタク少女は、めでたく盟友となった。
◆
黒瑞季の自室は、静寂と虚無に満ちていた。
壁一面の本棚には、難解な哲学書や物理学の専門書が整然と並んでいる。娯楽や装飾の類いはなく、ただ思考のためだけに用意されたような、無機質な空間だった。その中央に置かれた簡素なソファで、黒瑞季はブックカバーつきの文庫本を静かに読んでいた。
「瑞季ぃ〜」
猫なで声を上げながら、黒ヒナがドアを開けて部屋に飛び込んできた。そのままテーブルを飛び越え、黒瑞季の膝の上へと着地する。
「……」
黒瑞季は開け放たれたドアに目をやり、小さくため息をついた。本を左手に持ち替えると、空いた右手で黒ヒナの背中をゆっくりと撫で始める。その手つきに合わせて、黒ヒナは気持ちよさそうに喉を鳴らす。そのたび、黒瑞季は胸の奥から感情エネルギーが抜けていくのを感じた。
「今は平常心のつもりだが、ヒナを満足させられるほどの黒感情が漏れ出ているか?」
「充分だニャ。感情エネルギーは、意識して出すものじゃないからニャ」
「そうか」
黒瑞季は再び読書へと意識を戻す。
しばらくすると、黒ヒナは腹を満たした猫のように、膝の上で尻尾を振った。
黒瑞季は小さく息をつく。次に起こることの気配を察知したからだ。
案の定、黒ヒナの身体が小刻みに震え始めた。ひどい悪寒に襲われたかのように、呼吸は浅く、速くなっていく。
「大丈夫。大丈夫だ……」
黒瑞季は黒ヒナの身体をゆっくりと撫でる。その声は、相棒に言い聞かせているのか、あるいは自分自身に言い聞かせているのか。
黒ヒナの震えが、少しずつ弱くなっていき、やがて治まった。
「……はぁ……はぁ……。今日は、一段と苦しかったニャ……」
「中毒症状が悪化しているな。ヒナ、どうしても黒感情を食べなければダメなのか?」
「ぼくはもう、黒感情の甘さなしでは生きられない身体になってしまったニャ。食べなければ、きっと、もっと酷い発作に襲われるニャ。早く、この苦しみから解放されたいニャ」
その言葉に、黒瑞季の表情がわずかに曇る。
黒ヒナはぐったりとしたまま、続けた。
「ぼくが終わるときは、昔ぼくを『出来損ない』だと罵った精霊たちも、みんな巻き込んでやるニャ。あの世で、『ぼくをこんなふうにしたのはおまえたちだ』って笑ってやるんだニャ」
黒ヒナはあどけない口調で歪んだ正義を語る。
「人間も精霊も、いつかまた殺し合うニャ。だったら、その前にみんな終わらせてあげればいい。それこそが、『救済』なんだニャ」
黒瑞季は何も言わない。ただ、黒ヒナの身体を撫でる手は、黒ヒナがこの部屋に来たときよりも、ずっと遅くなっていた。
「瑞季はあくまで『正義なき悪』を掲げているけど、ぼくの正義も少しは分かるんじゃないかニャ? 本当は、瑞季もぼくと同じことを思っているんじゃないかニャ?」
「ああ、分かるさ。ヒナと私は心のつながった相棒だからな。だが、私はヒナのような大義を掲げるつもりはない。それが私のポリシーだ」
「……まあ、いいニャ。瑞季が目的を達成すれば、ぼくの目的も達成されるんだからニャ」
そのとき、開け放たれたドアの向こうから、控えめなノックの音が聞こえた。
顔を上げると、ナーサが立っていた。
黒瑞季は本を閉じ、テーブルに置いた。
「……どうした?」
「入るよ」
ナーサは部屋に入ると、丁寧にドアを閉めた。そして、黒瑞季の正面に置かれた椅子に、どかっと腰を下ろす。彼女はしばらく、黒瑞季と、その膝の上でぐったりとしている黒ヒナを、無表情で見つめていた。
「どうした? 用件があるなら、早く言え」
「いや、すまない。あのガキと本当に同一人物なのかと、改めて思って」
ナーサは、ふっと息を漏らす。
「街中でこそこそ黒感情を集めるのにも飽きた。久しぶりにスレイヴを使ってやろうと思っている。いいか?」
「先日はスレイヴを使うことを拒否したと聞いたが」
「あんな賑やかなところで仕事する気がなかっただけだ。第一世代には飽きたしな」
「そうか。勝手にすればいい」
「了解。……ところで、集めた黒感情は何に使うんだ? あの気色の悪いジジイが、ろくでもないことを企んでいるのは察している。『大洪水』とやらに関係しているのか?」
「私たちの作戦を確実に成功させるための武器だと思ってもらえればいい」
ナーサは怪訝そうに目を細める。
「ずいぶんとふんわりした言い方だな。凪宮にさえぼかされたよ。それも、あんたの指示か?」
「いかにも」
「ふうん。信用されてないんだな。まあ、かつては敵だったもんな」
「それもある」
ナーサは眉をひそめる。
「『それも』? あたしを勧誘したのは、あんただろう。勝手なもんだな」
黒瑞季はテーブルの本を手に取り、ゆっくりと立ち上がるとドアへ向かった。
「信用していないのは、お互いさまじゃないか?」
ナーサは鼻で笑った。
「それもそうだな」




