第三十八話「空色の栞」-7-
家々から夕飯の匂いが漂い、自転車のベルが遠くで鳴る。その中を、穹はひとり、長い影を引き連れて歩いていた。
「ねえ、ヒナ。聞こえてる?」
穹は小声で、自分の中にいる片割れに語りかけた。
「……あなたと同化したことを、後悔したことは一度もないよ。でも、少しずつ境界が曖昧になって、あなたとひとつになっていくのが怖かった。いつしか自分が自分じゃなくなって、消えてしまうんじゃないかって」
脳裏に浮かんだのは、あの生意気な少年。「猫になりたい」と笑った晃の姿だった。
「……でも、それも悪くないかもって……今日、ちょっと思ったんだ」
胸の奥から、ヒナの声が返ってきた。
穹……。
「犠牲になるつもりはないよ。諦めたわけでもない。ただ……ひとつになることを、前より怖がらなくなっただけ」
穹は少しだけ笑った。
「あなたの一部になっても、この世界を一緒に見ていけるなら。それも、悪くないかなって」
穹は足を止め、空を見上げた。
一番星が、静かに瞬いている。
その光を見ていると、先生の瞳を思い出した。
しばらくして、穹の身体が柔らかな光に包まれた。光が収まると、そこには三毛猫柄のぬいぐるみがいた。ぬいぐるみの姿のまま、染谷家の二階のベランダへと飛んだ。そこで、穹の姿に戻る。
「今日は、この姿でいたい。いいかな?」
――問題ないニャ。
カーテンの隙間から瑞季の部屋を覗くと、彼女はベッドに寝そべり、にやけた顔でスマートフォンの画面を見つめていた。
「……何してるの?」
「うわあああっ!? 穹ちゃん!? びっくりしたあ……」
瑞季が飛び起き、慌ててスマホを背後に隠す。
窓を開けてもらい、穹は中に入った。
「またエッチなの見てたんだ。ずいぶん元気なことね、病人さん」
「なっ、ちがうよ! これは十五禁の恋愛もので……!」
「あなた、十四歳でしょ」
「うっ……それは、その……」
瑞季がしどろもどろになるのを冷ややかな目で見据えた後、穹は声の調子を落として尋ねた。
「……それで。体調はどうなの?」
「え? あ、うん! もうすっかり元気。夕飯もおかわりしちゃったくらいだよ。穹ちゃんこそ、遊園地楽しめた?」
穹は、晃との言い合いや、迷宮での一件、そして最後に交わした「またね」という約束を思い出し、不本意ながらも頬が熱くなるのを感じた。
「ま、まあ……それなりにはね」
ツンと横を向く穹を見て、瑞季は弾けるような笑顔を浮かべた。
「よかったあ! 穹ちゃん人見知りだから、こうでもしないと楽しんでくれないと思ってたんだよね。最初はヒナとしてバッグにいるだけの予定だったみたいだしさ」
その言葉に、穹の眉がぴくりと動いた。
「……ん? 今、なんて言った?」
「えっ? ——あ」
「『こうでもしないと』? ……瑞季。まさか、ぼくを外に出すために仮病を使ったんじゃないでしょうね」
瑞季の顔から、さーっと血の気が引いていく。
「あ。ま、まさか、そそそそんなわけないよ! 本当に頭が痛くて、お腹もこう、ギュルギュルって……!」
「ふーん……」
穹はジト目で瑞季を追い詰める。
「元気そうだから、今日こそぼくが勝つまでゲームに付き合ってもらうよ。昨日の続き、まだ終わってないでしょ」
「ま、待って! 今度こそ本当に体調崩しちゃうってば!」
「あー! 『今度こそ』って言った! やっぱり仮病だったんだ!」
「言葉の綾だって!」
穹は瑞季に無理やりコントローラーを握らせ、ゲーム機の電源を入れた。
「今日は寝かせないよ、瑞季」
「ええ〜……お手柔らかに頼むよ、穹ちゃん……」
窓の外では、すっかり夜の帳が下りていた。
モニターの明かりが、穹の横顔を青く照らしている。
カチャカチャとボタンを押す音。
「ああああ! また負けた……」
悔しそうな穹の声に、瑞季が笑う。
明日も、その先も、どうなるかは分からない。
それでも今夜だけは、ふたりとも何も考えずにいられた。
夜は、まだ始まったばかりだった。
(第三十八話「空色の栞」了)
第三十九話「手鏡と姿見」2026/11/7 8:00投稿予定




