第三十八話「空色の栞」-4-
お昼すぎ、穹たちは巨大迷路にやってきた。
木枠とアクリルパネルが複雑に組み合わされた巨大迷路。制限時間内にゴールすれば園内ショップの割引券がもらえる仕組みだ。
「いい? 瑞季の分まで割引券をむしり取るよ」
「あはは、穹ちゃん気合入ってるね」
穹は優菜を引き連れ、スタート地点のひとつに立っていた。隣の入り口にはアスラと星輝、晃が並んでいる。
「おい、ちびっこ! おれが先にゴールして、アスラさんにカッコいいところ見せてやるからな!」
晃が柵越しに挑発的な笑みを浮かべる。
「あんたみたいなバカ、迷路の藻屑になればいいの。勝つのはぼくだよ」
「なんだと!」
カウントダウンと共に、ふたつのグループは同時に迷宮へと吸い込まれた。
五分が経過した。
「あっちはどれだけ進んでるんだろう。人数も多いし、有利なのはあっちだよね」
優菜が透明な壁越しに反対側のルートを気にしながら呟いた。それに対し、穹は迷いなく角を曲がりながら、淡々と答える。
「大丈夫。たとえ頭数はあっちが多くても、頭の質は『1 + 0.5 + 0.1』だからぼくらの方が上だよ」
「辛辣だなあ」
優菜は苦笑しながらも、穹の迷いのない足取りについていった。
ほどなくして、穹たちはパネル越しに晃たちと遭遇する。
「……思ってたより早いね」
穹が足を止め、ガラスの向こうの晃を睨む。
「へっ、互角ってところだな! だがこの先はおれたちが勝つ。猫見習いの直感は鋭いんだよ!」
晃が鼻を鳴らしたときだった。
ドンッ、と鈍い音が響いた。
穹たちの通路の向こうで、未就学児くらいの男の子が体勢を崩し、アクリル壁の角にぶつけていた。その後ろには、少年より一回り大きく、よく似た男の子が走っていた。追いかけっこをして走っていたのだろう。
頭をぶつけた少年は悲鳴を上げる間もなく、その場に倒れ伏した。
「え、うそ……」
兄と思われる少年が顔を真っ青にして立ち尽くす。
「おい、大丈夫か!?」
晃が駆け寄ろうとするが、アクリルパネルが邪魔をして向こう側へ行けない。行き止まりだ。
「クソッ、どっから回ればいいんだ!」
周囲の客も足を止め、「危ない!」「誰かスタッフを!」とパニックになりかける。
その喧騒の中、
「——道を開けて」
穹が走る。
目の前には二メートルを超えるアクリル壁。
止まる気配はない。
次の瞬間には、右足が壁を捉えていた。身体が跳ね上がり、もう一枚の壁へ。さらにもう一度。こうして高度を上げ、頂点に手をかける。そのまた、しなやかな身のこなしで最上部を軽々と越え、向こう側の通路へと着地した。
晃はパネル越しに、その軽やかな動きを呆然と見つめるしかなかった。
「動かさないで。……もしもし、ぼくの声が聞こえる?」
穹は子供の頭や首を動かさないよう気をつけながら、呼びかけへの反応と呼吸を確かめた。
「大丈夫。無理に起きなくていいからね」
子供はかすかに頷いた。
「……」
同い年とは思えないほどの鮮やかな身のこなしに、晃は憧れと敗北感を同時に覚えていた。
「よかった、意識はある。きみ、親御さんは? 携帯、持ってるなら電話してくれる?」
パニックになっていた兄の少年に、穹が静かなトーンで指示を飛ばす。少年は「あ、う、うん!」と震える手でスマートフォンを取り出した。
「スタッフさんを呼んでくる!」
優菜が即座に反応し、迷路を逆走していく。
「アスラ、星輝、晃」
穹はアクリル越しにふたりを振り返った。その瞳には、先ほどまでの子供じみた意地は微塵も残っていない。
「こっちはそんなに人手はいらないから、ゴールに向かってて」
「え、でも」
晃は戸惑う。
目の前の穹が、あまりに遠い存在に見えた。
「景品の割引券、取ってよね」
「あ、ああ……」
晃は圧倒され、思わず頷いた。
その後、担架を持って駆けつけたスタッフと合流し、穹は子供とその両親と共に非常口から迷宮を脱出した。
「本当にありがとうございました。なんとお礼を言えばいいか……」
母親が涙ながらに穹の手を握る。穹は気恥ずかしさに目を伏せた。
「……いえ。ぼくは何もしてませんから。それに——」
言いかけて、穹は口をつぐんだ。
むしろ、自分を動かしたのは晃だった。壁の向こうで、彼は真っ先にあの子を助けようとしていた。
あの姿を見たからこそ、穹も迷わず動けたのだ。
その後、検査のため、親子はスタッフと共に事務所へ向かっていった。
それを見届けた直後、遊園地の祝祭には不釣り合いの、不吉な地鳴りが響いた。
「!?」
一拍遅れて悲鳴が上がる。中央広場の方角から、黒い煙が立ち昇っていた。スレイヴの出現を告げる狼煙だと、穹たちは瞬時に悟った。
「……よりによって今なの」
「穹ちゃん」
優菜の一言に、穹は力強く頷く。やるべきことは、ただひとつ。
「行こう」
穹と優菜は走りながら、デシリル・アンプを手に取った。
未来で自分を導いた先生とは違う、今の時代のリアマイム。その優菜と並んで、穹も戦場へ向かって走った。
胸の奥に湧いたのは、懐かしいような、不思議な気持ちだった。
遊園地の空を、水色と空色の二筋の光が駆け抜けた。
一方、迷宮のゴール地点。
突如として響き渡った爆音と地鳴りに、割引券を手にした晃は身をすくめた。
「なんだ、今の音。アトラクションって感じではなさそうだったけど」
晃は不安そうに、隣にいたはずの姉へ目を向けた。しかし——。
「……あれ? 姉ちゃんは?」
晃はきょろきょろと周囲を見回した。
「姉ちゃん?」
返事はない。
「どこ行ったんだよ……」
「……星輝さんなら、あちらへ行きましたよ」
アスラが、騒然とする広場とは反対の方角を指差しながら、穏やかに言った。
「少し気分が悪いと、お手洗いに向かわれました。私たちは待っていましょう」
「そうなの? 全然元気に見えてたけどなあ」
首を傾げる晃の背後の建物の向こうに、アスラは赤い光を見た。
スレイヴはお任せします、みなさん——。




