第三十八話「空色の栞」-1-
「……っ、そこ! 逃がさないよ!」
深夜、染谷瑞季の部屋には、ゲームのコントローラーのボタンを激しく叩く音と、幼い少女の声が響いていた。
ゲーム機の画面の中で、神辺穹が操るカートがレースコース上を火花を散らしながら急旋回する。先行するのは、瑞季のカートだ。
「あはは、穹ちゃん、目の前にトラップあるよ?」
「なっ……!?」
穹のカートが地雷に接触し、派手なエフェクトと共に失速した。画面の左半分で、瑞季の機体が一位のままゴールテープを切る。
「もうそろそろ終わろうか、穹ちゃん」
「……もう一回。もう一回やる」
穹の桃色の前髪の間から覗く瞳が瑞季を射抜く。
「それ二十回くらい言ってるよね? もう三時近いし、さすがに……」
「ぼくが勝つまで終わらせない」
瑞季が困ったように頬を掻いたときだった。
トントン、とドアが叩かれる。
「……瑞季、明日早くから遊園地に行くんでしょ。早く寝なさい」
母親の静かながらもどこか威圧感のある声。
その瞬間、穹の姿がかき消えた。ベッドの上には、三毛猫柄の愛くるしいぬいぐるみ——ヒナが転がっている。
瑞季は立ち上がり、眠そうな母に向かって両手を合わせるようにして謝った。
「あ、ごめん! 起こしちゃった!?」
「うん、起こされた。早く寝なさいよ」
「はーい」
瑞季が慌てて返事をする。ドアが閉まり、足音が遠ざかるのを確認して、瑞季はふぅ、と息を吐いた。
「危なかった……。穹ちゃん、ということで、続きはまた今度で」
ベッドの上のヒナが光に包まれた。次の瞬間、人間の姿に戻った穹が、ひょいと顔を上げる。
「だめ。音を消して黙ってやればいいでしょ。ぼくが勝つまでやる。だからといって瑞季は手加減禁止だからね」
「ええー……」
穹の、年相応に子供らしい負けず嫌いな横顔が、なんだか眩しかった。
「まさか、私を先にへばらせて実力差を埋めようとしてる?」
「さあ、早く次やるよ。ボタン押して」
「え、否定してくれないの?」
瑞季は「仕方ないなあ」と苦笑しながら、再びコントローラーを握りしめた。
穹は、普段ほとんど人間の姿にならない。特に瑞季の家では、「人間の姿でいると、不法侵入してる気がする」と言って、ヒナの姿のままで過ごしていた。
この日も、数時間前まではそうだった。
「瑞季は相変わらず下手だニャ。あーあ。あと一瞬早くハンドル切っていれば」
瑞季がレースゲームをしていると、いつも後ろのヒナがうるさくなる。
「うるさい指示厨! 難しいんだって! 自分でやってみなよ!」
「でもぼくのこのプリティな身体はゲーム機を触るのに向いてないニャ」
「じゃあ穹ちゃん呼んでよ」
すると、ヒナは黙った。穹の人格と話しているらしい。
たぶん穹ちゃんは恥ずかしがって断るだろうなあ、と瑞季が思っていたら、ヒナがニヤリと笑った。
「分かったニャ。ぼくの代わりに穹がスーパープレイで瑞季を蹴散らしてくれるらしいニャ」
その瞬間、ヒナの身体が光に包まれ、ベッドの上に桃色の髪の少女が現れた。
「ちょっとヒナ! ぼくは指示も何もしてないって! ゲームなんてほとんどしたことないし!」
瑞季は心の中でヒナにグーサインを出した。
「まあまあ。せっかくだから、ちょっと一緒に遊ばない?」
瑞季は彼女にコントローラーを差し出す。
「まあ……ちょっとだけなら」
恥ずかしそうに頬を赤らめる。コントローラーを受け取る手は、どこか嬉しそうだった。
こうして、長い長い「ちょっとだけ」が始まった。
ゲーム音を消し、ふたりは無言で画面に食らいついていた。穹はカーブのたびに身体まで傾け、コントローラーのボタンを必要以上に強く叩いている。
その必死さがおかしくて、瑞季は何度も笑いそうになった。
その直後、穹のカートがまた地雷を踏んだ。
画面いっぱいに爆発エフェクトが広がる。
穹は声を出せない代わりに、口をへの字に曲げた。
その顔を見た瞬間、瑞季は耐えきれなくなって噴き出した。
◆
翌朝。秋の冷え込みが肌を刺すバス停で、穹は高梁星輝たちへ深く頭を下げていた。
「ごめんなさい。ぼくのせいで瑞季が……」
本来なら今日は瑞季が来る予定で、穹はいつものように彼女のバッグの中にいるはずだった。
「昨日、ぼくが勝つまでゲームを続けたせいで」
脳裏に浮かぶのは、顔を真っ青にして「……ごめん、穹ちゃん……頭が痛くて……」とベッドから頭を上げることすらままならない瑞季の姿。
「ゲームしてたらプレイヤーの方を倒しちゃうなんて、穹は面白いな」
星輝は真剣に反省する穹を見て、カラカラと笑っていた。
「ごめんなさい……」
「瑞季が来られないのは残念だけど、穹が代わりに来てくれたんなら悪くないな。今日は思いっきり遊ぼうぜ」
「……」
穹は星輝と目を合わせられなかった。ヒナの姿なら気安く話せるのに、人間の姿で向き合うと、なぜか気恥ずかしくてうまく言葉が出てこない。デシリアとして共に戦うことには少しずつ慣れてきたが、こうしてプライベートで接するのは、まだ苦手なままだった。
しかも、今日は初めて会う相手もいる。
「なあ、姉ちゃん。このちっちゃいの誰?」
星輝の弟・晃が穹に指さす。
ピキ、と穹の中で何かが切れる音がした。
「……だ、誰がちっちゃいって!?」
「事実だろ。ただでさえちっちゃい姉ちゃんより背ぇ低いし、何年生? 四年生くらい?」
「六年生!」
「うそだろ!? 同い年かよ」
晃の生意気な言葉に、穹の額に青筋が浮かぶ。
「こっちこそ信じられない! あんたみたいな精神的に幼いガキが同い年なんて!」
「ああ!? ガキにガキとは言われたくねえなあ!」
一触即発の空気。星輝が「こらこら、初対面でケンカすんな」とふたりを引き剥がそうとしたとき、向こうから月音優菜とアスラが歩いてきた。
「おはよ〜」
元気に手を振る優菜。
「おはようございます。瑞季さんのことは残念でした」
まるで瑞季が死んだかのように神妙なアスラ。
「……おはよう」
穹は小声で挨拶を返した。
ふと、晃の方を見ると、彼は緊張した面持ちでピンと背筋を伸ばしていた。
「お、おはよっ……ござ……お、おはよ、アスラさん……!」
顔を真っ赤にし、視線を泳がせ、あからさまに挙動不審になる晃。
アスラは不思議そうに小首を傾げる。
「おはようございます、晃くん。今日はよろしくお願いしますね」
「は、はひっ! も、もちろんですっ! おれが……おれが、アスラさんのこと、エスコートしますからっ!」
さっきまでの威勢はどこへやら。晃は耳まで真っ赤にして、アスラの前だけで別人のように縮こまっている。
穹は、その隣で鼻を鳴らした。
「……きもちわる」
「なっ……!? おまえ、今なんて言った!」
「気持ち悪いって言ったの。あんた、さっきまであんなに偉そうにしてたのに、アスラが来た途端にそれ? エスコート? 介助されるのはあんたのほうでしょ」
「うるせー!」
「仲良いなあ、おまえら」
星輝が豪快に笑い、アスラは困ったように「いいのですかね……?」と首を傾げた。




