第三十七話「不死鳥の歌」-4-
リアスピサの頬に冷たい雨粒が触れる。空を見上げると、鉛色の雲から雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。
庭先では、悠太と渡が言葉を失って立ち尽くしている。ふたりの驚きと心配が入り混じった視線が、背中に突き刺さった。
だが、今は振り返らない。
目の前には、護るべき父の心を喰らった、異形の怪物がいる。
「父ちゃん……待ってろよ。ウチが絶対に助けるからな!」
自らに言い聞かせるように叫び、リアスピサは地面を蹴った。
スレイヴは、錆びたサーバーラックを思わせる巨体を軋ませて応戦した。身体から伸びる無数のLANケーブルが鞭のようにしなり、四方からリアスピサへ襲いかかる。
迫るケーブルを見極め、彼女は拳にまとわせた炎でなぎ払った。焼き切れたケーブルが火花を散らし、地面に落ちる。
さらにスレイヴとの距離を詰めると、スレイヴはキーボード状に変形した両腕をアスファルトへ叩きつけた。
直後、地面からコマンドプロンプトの黒いウィンドウを思わせる塊が突き出す。リアスピサは素早く身をかわし、その塊を足場に跳躍した。スレイヴの懐へ飛び込み、炎の拳を叩き込む。
鈍い手応え。スレイヴの巨体がよろめき、後退する。
いける——!
そのときだった。
スレイヴの頭部を構成するモニター群が、一斉に彼女を捉えた。
モニターから、おびただしい数の紙片が、嵐のように吹き荒れる。
——すまない。
——もっと大きな会社に入っていれば。
——あの子にもっと良い服を買えたのに。
——父親失格だ。
謝罪と後悔の言葉が、視界を埋め尽くす。その一枚一枚が、父の心の叫びだと分かり、リアスピサの胸が締め付けられる。
「そんなことない! ウチは父ちゃんが大好きだ。そんな後悔しなくていいんだよ!」
炎の壁を展開し、紙の嵐を焼き尽くす。灰が舞うたび、スレイヴの胸のモニターに、細かな亀裂が走った。
そして、父の声が星輝の意識に直接響いてきた。
《すまない、星輝……。俺は……ダメな親だ……》
「父ちゃん!」
あと、もう少し。あと一撃で——!
リアスピサが炎を拳に集束させた瞬間。
背後で、凪宮が楽しそうに風の黒杖を振るうのが見えた。
「では、そろそろ本気を出していただきましょうか」
凪宮の周囲に、凄まじい風が渦を巻くと、スレイヴが天を仰いで咆哮した。風がスレイヴへと流れ込み、その巨体をさらに変質させていく。
風をまとったスレイヴは、ノイズの走る半透明の防火壁を展開した。リアスピサが拳に集めていた炎は、壁に吸い込まれるように消えていく。
さらに、凪宮の操る暴風が戦場一帯を覆った。風が壁となってリアスピサと悠太たちを隔て、彼女の炎をかき消していく。
風壁の向こうでは、悠太と渡が何かを叫んでいた。だが、聞こえない。
「悠太! 渡!」
声を張り上げる。だが、自分の叫びさえ轟音にかき消され、耳に届かなかった。
完全な孤独。
聞こえるのは、脳内に直接響く父の絶望の声だけだった。
《おまえを育てる金がなかった》
《おまえの夢を、俺が潰している》
《俺なんていない方が、おまえは……》
「違う! そんなこと、思ってない!」
必死の叫びも、空しく風に溶けていく。
風を纏ったLANケーブルが、無数の鋼の刃となってリアスピサに襲いかかる。拳の炎で数本を焼き切る。しかし、焼き切れなかった一本が、腕を掠めた。戦闘服が裂け、赤い線が浮かび上がる。
間髪入れず、スレイヴがキーボード状の腕を振り下ろした。リアスピサが身を翻した直後、地面から黒い塊が突き出す。
「ぐっ……!」
下から突き上げられ、身体がくの字に折れた。リアスピサは弾き飛ばされ、背中からアスファルトに叩きつけられた。肺から空気が抜け、視界が明滅する。口の中に、じわりと鉄の味が広がった。
追い打ちをかけるように、エラーログの紙片が暴風に乗って襲いかかってくる。カミソリを思わせる鋭さで、頬や肩、脚を次々と切り裂いていく。
雨と泥の匂い。ケーブルがショートする焦げ臭さ。そして、脳内に響き続ける父の絶望。
いつの間にか激しさを増していた雨が、容赦なく彼女の身体を打ち、体温と炎を奪っていく。
「父ちゃん……ウチが、悪かった……」
かすれる視界の中、リアスピサは最愛の父へ、震える手を伸ばす。
「無駄ですよ」
自分の声さえほとんど耳に聞こえないほどの暴風の中、なぜか凪宮の声だけは、不思議なほどはっきりと聞こえた。
「あなたの声は届かない。あなたの愛するお父さまは今、あなたを拒絶している。あなたの存在そのものが、彼を苦しめているのですよ」
その声は、憐れみと愉悦に満ちている。
「ほら、あなたは誰かのためなら、自分を捨てられるのでしょう? 彼のために、ここで消えてあげてはいかがですか?」
凪宮の言葉が、父の絶望の声よりも鮮明に、星輝の胸の奥へ入り込んでくる。




