第三十七話「不死鳥の歌」-3-
星輝が小池先生との面談を終えた頃。
凪宮琥珀は、高梁家から少し離れた電柱の影に立っていた。生暖かい風がタキシードのジャケットをはためかせる。鉛色の雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
彼の脳裏に、以前興味本位でこの家を覗き見たときの光景が、よみがえった。
夕暮れ時。台所から響く楽しげな声。母親代わりの長女が夕食の支度をするのを、幼い弟たちが危なっかしい手つきで手伝っている。それを見守る少女の横顔は、疲労の色も見せず、活発さと慈愛に満ちていた。
——ああ、滑稽だ。
凪宮は、その記憶を鼻で笑いながら、半年前の記憶を呼び起こしていた。
◆
その日は、激しい雨と風が街を打ち付けていた。
凪宮は、公園のベンチで小さくうずくまっていた。上等な仕立てのシャツは泥に汚れ、ところどころが破れている。唇の端は切れ、頬には生々しい痣が浮かんでいた。
一時間前、彼は見知らぬ高校生たちに路地裏へと引きずり込まれた。
——お前の母親のせいで、うちの親父の会社が潰れたんだぞ!
——なんだよその肌の色、気色悪いんだよ!
罵声と共に、何度も腹を蹴られた。
大嫌いな母親。
その存在が、今、自分に直接的な害を及ぼしている。仕事にしか興味がなく、自分を産んだことさえ後悔しているような女。そんな人間のせいで、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
親なんて、邪魔でしかない。
あんな奴なんていなければ——。
怒りが、絶望が、冷たい雨と一緒に、心の奥底へと染み込んでいく。
いつも孤独を癒してくれていた、ノイズミュージックを奏でるヘッドホンは、無残に踏み砕かれていた。
激しく降り注ぐ雨音。唸りを上げる風の音。それは、彼が好むノイズミュージックに似ていたが、今は少しも癒しにはならない。暴力的で、冷たいだけの音の洪水だった。
そのときだった。
「……どうしたの?」
ふと、頭上から、穏やかな声がした。
顔を上げると、そこに、ひとりの女性が立っていた。黒いワンピース姿の彼女は、大きな傘を差し、静かに凪宮を見下ろしている。
彼女は、彼の泥だらけの姿や顔の痣を見ても、驚きも、憐れみも見せない。ただ、その深い黒色の瞳で、彼の心の奥底を見透かすように、静かに見つめているだけだった。そして、凪宮の身体が濡れないように、そっと傘を傾けてくれた。
「ひどい目に遭ったんだね。もう全部どうでもいいって、諦めているような……そんな目に見える」
「……!」
初めてだった。自分のこの感情を、誰かに正確に言い当てられたのは。同情でも叱責でもない、ありのままを理解してくれる言葉。凪宮は、警戒しながらも、彼女から目が離せなかった。
彼女はゆっくりと屈むと、彼の目の高さに視線を合わせた。
「もし、こんな理不尽なことばっかりの世界を、全部無かったことにできるとしたら……してみたい?」
突拍子もない問いだったが、不思議と心にすっと染み渡った。世界を、無かったことにする。それは、なんと甘美な響きだろうか。
そして何より、この女性の瞳の奥にある暗い光は、自分によく似ている。ただの大量生産品みたいな人生を過ごすだけでは手に入れられない、寂しい光。
僕は、この人に出会うために生まれてきた——そんな確信があった。
こくり、と小さく頷く凪宮を見て、彼女は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「……帰りたい場所は、ある?」
その質問に、彼は力なく首を横に振った。あの冷たい屋敷は、帰る場所ではない。自分が帰らなくても、誰も困らない。
「そう……」
彼女は、白く細い手を差し伸べた。
「なら、私のところに来る?」
それは、孤独な子供に向けられた救いの手であり、同時に自分を今とは違う世界に誘う、魅力的な悪魔の手のようでもあった。
凪宮は、迷わなかった。
その手を——染谷瑞季の手を、震える手で握り返した。
◆
——『みんな』の中心に、自分を置くことを忘れるな。
小池先生の言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、星輝は自宅への道を歩いていた。不思議と、重苦しい気分は晴れ、足取りは軽い。完全に答えが見つかったわけじゃない。それでも、進むべき方向だけは見失わずに済みそうだった。
父ちゃんに、ちゃんと謝ろう。
もう一度、話をしよう。
そんな決意を胸に、玄関のドアを開けた瞬間だった。
「お、おかえり、星輝」
玄関の上がり框に、父が立っていた。その隣には、見慣れたふたつの顔。
「よお、星輝!」
「やあ、お邪魔してるよ」
ドラムの悠太と、ベースの渡。渡は愛用のベースギターとミニアンプを、悠太は練習用のカホンを傍らに置いている。
「え……悠太? 渡? なんでウチの家に……?」
驚く星輝に、父がひどく気まずそうに頭を掻いた。
「あー……その、なんだ。昨日は悪かった。余計なことまで言っちまったな」
「父ちゃん……」
違う。
余計なことを言ったのは、ウチの方だ——。
その一言が、喉を越えてくれなかった。
「で、だ。今の星輝に必要なのは、俺なんかより、一緒に音楽をやる仲間なんじゃないかと思ってな。それで、ふたりに連絡させてもらったんだ。この家でなら、音も出せるだろ? あまり大きすぎる音は出さないでほしいが」
父の不器用な説明に、悠太がニカッと笑って続けた。
「あたりまえだろって言ってやったぜ。リーダーが悩んでるときに、放っておけるかよ」
「僕もだよ。それに、星輝の家でセッションなんて、なんだか秘密基地みたいでワクワクするしね」
まっすぐな瞳を向ける悠太。はにかむ渡。そして、心配そうに、でもどこか誇らしげに娘を見つめる父。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
感謝の言葉が、涙と一緒にこみ上げてきた、その瞬間だった。
パチ、パチ、パチ……。
場違いな、乾いた拍手の音が、玄関先からいた。
「素晴らしい家族愛ですね。感動でハンカチがびしょびしょになりそうです」
全員が玄関口へ目を向ける。開いた扉の向こうに、ひとりの少年が立っていた。整った顔立ちに褐色の肌。タキシードを着こなしたその姿は、この古い家にはあまりにも不釣り合いだった。
凪宮琥珀だ。
「あなたの罪悪感こそが、最高のエンターテイメントを呼ぶのですよ、お父さま」
凪宮は、うっとりとした表情で、父を見つめている。その瞳は、獲物を前にした爬虫類のように冷たく、そして愉悦に満ちていた。
父と悠太、渡が「誰だ?」と困惑の表情を浮かべる中、星輝だけが言葉の意味を理解していた。
「てめえ……なんでここに……!」
「久しぶりにあなたに会いたくなりましてね、高梁星輝さん」
凪宮は優雅に一礼すると、その手に、鈍く光る水晶を出現させた。
まずい、と思ったときには、もう遅かった。
父の視線が、水晶に吸いついた。
「父ちゃん! 見るな!」
星輝の叫びは、届かない。
凪宮が、恍惚とした表情で、詠唱を口にする。
「『水晶よ、黒を架けろ』」
瞬間、父の上半身が異様に膨れ上がった。
「ぐ、あああああっ!」
父の叫びとともに、全身から黒い霧が噴き出す。渦巻く霧が、たちまちその姿を覆い隠した。
黒い霧は水晶へと吸い寄せられていく。その一方で、父が持っていたビジネスバッグの口がひとりでに開き、中から仕事用のノートパソコンが浮かび上がった。
パソコンが霧の中へ引き寄せられる。そこから無数のLANケーブルが伸び、父の身体に絡みついた。さらに、サーバーラックを思わせる金属パーツが集まり、父の身体を鎧のように覆っていく。
「な、なんだよ、あれ……!」
「星輝のお父さんが……!」
悠太と渡が、腰を抜かして絶句する。
やがて、玄関先に現れたのは、異形の怪物だった。
胸にはノートパソコンが埋め込まれ、画面には「SYSTEM_ERROR」の赤い文字が絶え間なく流れていた。背中には、弟たちのものらしいランドセルがいくつもケーブルで縛りつけられていた。その重みに耐えるように、怪物の巨体が軋んでいる。
凪宮は、その『作品』を満足げに見つめると、恐怖に震える星輝へと、挑発するように語りかけた。
「さあ、どうしますか、ヒーローさん。お友達が見ていますが」
星輝は、震える悠太と渡をかばうように、前へ出た。
迷いがないわけではない。だが、それ以上に、仲間と家族を傷つけられた怒りが、胸の奥で燃え上がっていた。
「ふたりとも。今から起こることは、他言無用だぜ」
振り返らずにそう告げると、星輝はボストンバッグからデシリル・アンプを取り出し、強く握りしめた。そして、真紅のデシリル・ジェムを、アンプに装着する。
灼熱の光が、古い家の中を真昼のように照らし出した。
炎が星輝の身体を包み込む。渦巻く光の中で、その姿が少しずつ戦士へと変わっていった。
やがて光が収まる。
そこに立っていたのは、燃えるような赤髪をなびかせた炎の戦士だった。
悠太も渡も、声を失っていた。




