第三十七話「不死鳥の歌」-2-
その翌日、星輝は授業にまるで集中できなかった。教師の声は耳を素通りし、教科書の文字は意味のない記号にしか見えなかった。視線はいつしか窓の外を流れる雲を追っていた。
昨夜の父の傷ついた顔と、何も言わず自室へ引き上げた背中が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。何度「ごめん」と心の中で繰り返しても、その罪悪感は少しも軽くならなかった。
「……星輝、大丈夫?」
昼休み。焼きそばパンをひと口だけ頬張り、いつまでも噛み続ける星輝を、染谷瑞季が心配そうに覗き込んだ。。隣では、月音優菜もお茶を片手に、眉を下げている。
「んあ? ああ、なんでもねえよ。ちょっと、新曲の歌詞が浮かばなくてな」
星輝は、無理やり口角を上げて笑ってみせた。だが、その笑顔が、ひどくぎこちないものであることは、自分でも分かっている。
瑞季と優菜は、顔を見合わせた。これ以上踏み込んでいいものか、迷っているのが見て取れる。
その優しさが、今は少しだけ、つらかった。
「そっか……。無理はしないでね」
「何かわたしたちにできることがあったら、いつでも言ってね」
ふたりの気遣いに、星輝は「サンキュ」とだけ返し、無理やりパンを口に詰め込んだ。味がほとんどしなかった。
放課後。重い足取りで昇降口へ向かっていると、背後から無愛想な声が飛んできた。
「高梁。ちょっといいか」
「ん、小池っち?」
振り返ると、そこには担任の小池先生が立っていた。
長身の小池先生の顔を見上げる。
「なに? どうしたの? 居眠りしてたこと?」
「それもあるが、今日は違う。……何かあったか?」
小池先生の言葉は、柔らかかった。
「今日の授業中、魂が五回は身体から抜け出ていたぞ」
「げっ……よく見てるな、さすが小池っち」
図星を突かれ、星輝はバツが悪そうに頭を掻いた。
小池先生は、じっと星輝の目を見つめると、ふいと視線を逸らした。
「……ちょっと、話してみないか?」
「え?」
「私はおまえにとって赤の他人だ。家族や友達ほど近い存在じゃない。だからこそ話しやすいこともあると思うが、どうだ?」
以前、バンド活動のせいで居眠りが続き、叱られたことがあった。それでも小池先生は、テスト前には優菜や瑞季と同じくらい親身になって勉強に付き合ってくれた。
星輝はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……話、聞いてくれる?」
「行くぞ」
小池先生は職員室とは別の方向へ歩き出した。その背中を、星輝はおずおずと追いかけた。
通されたのは進路指導室だった。ふたつの机がL字に並べられ、それぞれの前に椅子が置かれている。小池先生は入口から遠いほうの椅子に座り、星輝に顎をしゃくった。
星輝は黙って腰を下ろす。
その様子を小池先生はじっと見据えていた。
「すまないな。温かいお茶でも出せればいいんだが」
「いや、そんなのいいっすよ」
星輝は苦笑した。先生の気の抜けた言葉に、張り詰めていた肩の力が抜けていく。そこで初めて、自分が緊張していたことに気づいた。
星輝はふと、窓からグラウンドを見た。サッカーの練習をする莉照蓮司の姿が見えた。ボールを追う表情は真剣で、楽しそうだった。
「……ウチは、みんなに幸せになってほしいんだ」
ぽつりとこぼれた言葉は、自分でも驚くほど、か細かった。
「だから、困ってる人や悩んでる人を助けたい。たとえ嫌なやつだったとしても助けたいし、更生するきっかけくらいにはなりたい。そうやって、お節介を焼きたいんだ。でも……この間、そんな場面に直面して……助けたいって思いと、そうじゃない思いが、両方ウチの中にあったんだ。結局ウチは、人に価値をつけて線引きをしてるんじゃないかって気がしてさ。ウチはずっと、誰にでも平等に接して、苦しんでいたら助けるのが、正しいことだと思ってた。だから、ウチは間違ってるんじゃないかって。みんなはそれは悪いことじゃないって言うんだけど……もう、なにも分からないんだ」
堰を切ったように言葉があふれた。話しているうちに、自分でも話の筋を見失っていく。それでも止まらなかった。凪宮に言われたこと。父を傷つけてしまったこと。その全部が、胸の奥でひとつに絡み合っていた。
最後まで聞き終え、小池先生は静かに頷く。
「なるほど。……そうだな、ひとつずつ整理していこう」
「ごめん。ごちゃごちゃしてたよな」
「そんなことで謝るな。らしくない」
先生は腕を組み、少しだけ目を閉じた。考えをまとめるように一拍置いてから、ゆっくり口を開く。
「たとえ嫌なやつだったとしても、助けるべき。——それが、高梁の価値観。ここまでは合ってるか?」
「ああ」
「『助けたい』ではなく、『助けるべき』。……合っているか?」
星輝は少し迷ってから、小さく頷いた。
「あ、ああ。他の人に求めたりはしないけど、高梁星輝として、そうあるべきだって、信じてる」
「……そうか」
短い返事だった。
「では、次だ。自分の嫌いな人間が苦しんでいて、それを助けるべきか分からなかったと言ったな。高梁のことだから、嫌いじゃない相手なら脊髄反射で助けただろう。でも、嫌いな相手を前に、動けなかった。——こう認識したが、合っているか?」
「合ってる」
「高梁は、嫌いな相手を助けられなかった自分を責めている。周りはそれでいいと言うのに、納得できないんだな」
「……ああ」
小池先生は、星輝の返事を受け止めるように小さく頷いた。
それから小さく息をつき、「最後にひとつ教えてくれ」と続けた。
「おまえは、誰かの音楽に救われたと感じたことはあるか?」
「え……?」
あまりに唐突な問いだった。
けれど答えだけは迷わない。
「もちろんあるよ。だからウチも誰かを音楽で救いたい。その一心で、音楽をやってるんだ」
「ありがとう。見えてきた」
「何が見えてきたんだ?」
「そうだな……」
小池先生は机を見下ろして腕を組む。思考を整理しているらしい。
しばらくして腕をほどき、星輝と目を合わせた。
「……嫌いな相手を助けられなかったこと自体より、そんな自分を許せない。そういうことか?」
「ああ。ウチの信念が正しいのか間違ってるのか、分からなくて」
「信念、か。……高梁。それは、本当に『信念』か?」
「え?」
「それとも『義務』か?」
星輝は言葉を失った。
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「……」
「誰かを助けたいという気持ちは、おまえの信念なんだろう。だが、助けられない自分を責め続けるなら、それはもう自分を縛る義務になっている」
「……!」
星輝は、陣頭愛華のスレイヴを倒したときの自分を思い出した。あのときの自分は、自分自身が思い描くヒーロー像に囚われていた。
でも、そのヒーロー像は瑞季や優菜のそれとは違っていた。
瑞季たちは『苦しんでいる人を助ける』という信念を持ちながらも、『助けたくないなら助けなくていい』と自分自身の気持ちに寄り添っていた。
自分には、それがなかった。
「そっか。これは信念なんかじゃなくて——呪いだったんだ」
星輝は自分の手のひらを見下ろした。まだ答えははっきりしない。それでも、何かを掴みかけている気がした。
「高梁よ」
呼びかけられて、星輝は顔を上げる。
「確か、アルバイトをしたがっていたな。好きに使うお金のためではなく、家計を支えるために。違うか?」
「そ、そうだけど……。それがどうしたんだよ」
「それも同じだ」
「え?」
「お父さんは、娘に家計を支えてほしいと思っているのか?」
星輝は目を伏せる。
父がそんなことを望んでいないのは、最初から気づいていた。
なのに、自分はそれを否定していた。
「……思ってない。ウチが、勝手に背負ってる」
「そうだ。それも呪いだ。大きな夢を持ち、大きな理想を掲げるからこそかかってしまう、優しい呪い」
優しい呪い。
その表現が、不思議なくらい胸に落ちた。
「さっきの音楽の質問だって、そうだ」
「え?」
「誰かを音楽で救いたい。その一心で、音楽をやっている。——そう言っていたが、音楽を始めた理由は、本当にそれだったか?」
星輝は息を止めた。
思い浮かんだのは、好きなバンドの音楽に初めて心を揺さぶられたときのこと。そして、初めてギターを手にした日の高鳴り。
「……違う。ウチは、音楽が好きだから音楽をしてる。誰かを救いたいって気持ちは、その後だ」
星輝はゆっくり目を閉じた。
これまでの出来事が一本の線になっていく。
小池先生が続ける。
「人助けなんてな、目的にするものじゃない。まずは自分のやりたいことに、まっすぐ突き進む。その道中に困ってそうな人がいれば、気になるよな。気になるから、声をかけてみる。……そういうものでいいんだ。誰かの人生まで背負う必要はない。まずは、自分を幸せにしろ」
「自分を……」
「そうだ。おまえは最初、みんなに幸せになってほしい、と言っていたな」
「うん」
「その『みんな』の中心に、自分を置くことを忘れるな。おまえだけが幸せじゃない世界を、おまえの大切な人は、幸せと呼ぶと思うか?」
「……!」
「おまえの幸せそうな姿を、みんなに見せればいい」
自分が幸せになること。
自分のために歌うこと。
それが、巡りめぐって誰かのためになる。
そんなふうに考えたことはなかった。
「そっか……ウチは、難しく考えすぎてたんだな……」
ふと、目尻から涙が一滴、こぼれ落ちた。それを見せるのが恥ずかしくて、うつむいてしまう。
「ありがとう……。今日のことは、心に刻んでおくよ。でも、ちょっと恥ずかしいから、小池っちは忘れてもらってもいい?」
「了解した。記憶から抹消しておこう」
星輝は顔を上げ、目の前の教師に向かって、にかっと笑ってみせた。
「サンキュ、小池っち。父ちゃんや優菜が言ってたことが、やっと腑に落ちたよ」
「……小池先生と呼べ」
呆れたようにため息をつく小池先生の口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、星輝は見逃さなかった。




