第三十七話「不死鳥の歌」-1-
週末の練習スタジオ。ほのかな照明が、渡の抱えるアコースティックギターのボディを照らしている。
「じゃ、いくよ」
いつも低音でバンドの土台を支える渡が、少し照れくさそうに前置きし、軽やかにコードをかき鳴らし始めた。
そのイントロに、高梁星輝はいきなり心を掴まれた。哀愁を帯びたマイナーコードから始まり、サビに向かって駆け上がっていくような、疾走感のあるメロディ。渡が口ずさむ鼻歌は、まだ輪郭こそぼやけているが、間違いなくアップテンポなロックナンバーだった。
そのメロディには、うつむいた顔をあげさせるような勢いがあった。音を追ううちに、星輝の胸にも熱が灯っていく。
この曲は、一週間前の約束から始まった。
「そろそろ、オリ曲作りたくない?」
渡が練習終わりにそう提案すると、ドラムの悠太とギターボーカルの星輝は、待ってましたとばかりに拳を突き上げた。
「ちょっといい感じのメロディを思いついてさ。来週までに仕上げてくるよ」
サビが終わり、コードを優しく鳴らして、渡は手を止めた。
額に汗を浮かべながら、不安げにこちらを窺う。
「——どうかな?」
星輝の隣では、悠太が「すげえ……!」と感嘆の声を漏らしていた。
星輝も、同じ気持ちだった。
「最高じゃん! これだよ、これ! ウチらがやるべき曲は!」
直感だった。このメロディに、自分の声を、言葉を乗せたい。そんな興奮で胸が高鳴った。
「歌詞考えてくるよ!」
星輝は勢いよく宣言したものの、その熱は練習が終わるころにはすっかり冷めていた。
歌詞が、まったく浮かんでこないのだ。
ノートの白いページを前に、星輝はペンを握ったまま動けずにいた。
誰かを元気づける歌。
仲間を支えるための歌。
聴いた人が笑顔になれる歌。
浮かぶのは、そんな「誰かのため」の言葉ばかりだった。どれも聞き覚えがあり、自分の言葉とは思えない。
渡が心を込めて作ったメロディに、こんな言葉を乗せたくはなかった。
自分の心の底から湧き上がる、本物の叫び。それはいったい、どこにあるのだろう。
脳裏に、凪宮琥珀の冷たい声が蘇る。
——あなたの親がもっと責任を持って子育てしていれば、あなたはその若さで新聞配達のアルバイトをしようとしたり、『音楽で金を稼いで家族を助けたい』なんて馬鹿な夢を、見ずに済んだはずです。
一度思い出すと、あの言葉が、こびりついたガムのように思考から取れてくれなくなった。
ウチの夢は、そんなに馬鹿なことなのか。誰かを助けたい、支えたいと願うことは、そんなに滑稽なことなのか——。
考えれば考えるほど、ノートの白さが、ただただ目を焼いた。
◆
自宅のリビング。弟たちが寝静まった後の静寂の中、星輝はテーブルにノートとペンを広げていた。渡が送ってくれたデモ音源を、イヤホンで繰り返し聴く。メロディは、もう完璧に覚えた。それなのに、そこに寄り添わせる言葉だけが見つからない。
玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたのだ。
「ただいま」
「おかえり、父ちゃん」
疲れた顔でリビングに入ってきた父は、娘がテーブルに向かっているのを見て、表情を和らげた。
「まだ起きてたのか。勉強か?」
「まあ、そんなとこ」
父は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、ふたつのコップに注いだ。星輝の向かいへ腰を落とすと、片方のコップを星輝に差し出した。
「あ、ありがと」
「……星輝。おまえ、高校のこと、どうするか考えてるか? もう、そろそろ本気で考えなきゃいけない時期だぞ」
その言葉に、手持ち無沙汰に揺れる星輝のペンが、ぴたりと止まった。
進路。それは、ここ最近、意図的に思考から追い出していた問題だった。
音楽で稼いで、進学せずに家族を支えたい。アルバイトもして、少しでも家計を助けたい。
そんな夢物語が、非現実的であることくらい、本当は分かっている。プロのミュージシャンになることが、どれだけ険しい道なのかも。
でも、そうでも考えなければ、このどうしようもない現状から目を逸らせなかった。
凪宮の言葉が、悪魔の囁きのように、再び頭の中で反響した。
——お父さまの稼ぎがもっと高ければ、なんて思ったことは? 子供をこんなにたくさん抱えるのに、たいした所得がないなんて、無責任だと思ったことは?
将来への不安、歌詞が書けない焦り、凪宮に植え付けられた父への不信感。それらがないまぜになり、喉の奥に粘ついていた。
星輝が何も言えずにいると、父は何かを察したように、真剣な眼差しを彼女に向けた。
「……まさか、進学せずにバイトしたいなんて、言わないよな?」
心配してくれている。それは分かっていた。
高校へ進み、安定した未来を掴んでほしい。父がそう願っていることも。
だからこそ、凪宮の言葉が深く刺さった。父の気持ちを理解するほど、胸の奥に押し込めていた不安が、抑えきれなくなっていく。
そして、魔が差したように、棘のある言葉が口をついて出た。
「……少なくとも、父ちゃんみたいに、たいした給料でもないのに、ずっと忙しそうな大人にはなりたくない」
空気が凍りつく。
そんなことを言いたいわけではなかった。
毎日、自分たちのために身を粉にして働いてくれている父を、誰よりも尊敬している。感謝している。
だが、一度口から出てしまった言葉は、もう二度と、元には戻らない。
一瞬だけ、父の目が見開かれた。
そのまま視線が落ちる。
何かを飲み込むように喉が小さく動いた。
「……そうか」
それだけを言うと、父はゆっくりと立ち上がり、リビングから出て行った。自室のドアが閉まる乾いた音が、やけに大きく響いた。
父の背中が見えなくなっても、星輝はその場を動けなかった。
言ってはいけないことを言ってしまった。謝りたいのに、追いかけるための力が出ない。
テーブルには、白紙のままのノートが開かれていた。




