第三十六話「月の音色」-7-
合唱コンクール当日。
優菜は体育館に敷き詰められたパイプ椅子のひとつに腰掛け、前のクラスの合唱を聴いていた。
今は二年生の発表中で、体育館の前方には生徒たちが、後方には保護者が座っていた。体育館の後方から入場したとき、優菜は保護者席の端に、両親とアスラの後ろ姿を見つけていた。
最後の和音が響き、体育館に拍手が広がった。次は、自分たちの番だ。
担任の小池先生の合図で、クラスメイトたちが一斉に立ち上がる。優菜は深く息を吸い、ステージへ向かった。
舞台に向かって右側の上段に並び、客席を見渡す。こうして見ると、発表を終えたクラスと、これから歌うクラスとでは、表情がまるで違っていた。その奥では、保護者たちが優菜たちを見上げている。
ふと、父と目が合ってしまった。
鼓動が少しずつ大きく、速くなっていく。この静かな体育館の中で、まるで鐘のように響いているのではないかと錯覚するほどだった。
怖い。
今すぐにでも逃げ出してしまいたい。
そんな思いに駆られ、足が震え出した。
大丈夫……。
優菜は深呼吸した。
緊張しているのは自分だけではない。隣の子も、前の子も、指揮者の子も、みんな同じだ。なのに、これほど静かなのだから、自分の胸で鳴る鐘の音は、自分にしか聞こえていないはずだ。
今度は、自分から父へ目を向けた。
お父さま。精一杯、歌いきってみせます——。
指揮者の合図で、正面を向いていたクラスメイトたちが一斉に指揮者へ身体を向けた。続いて、伴奏を務める怜奈へと視線を移す。
ピアノの蓋に遮られ、優菜からは怜奈の顔が見えない。それでも、その表情が目に浮かんだ。これから始まる演奏を今か今かと心待ちにしている、ピアノが大好きな少女の表情が。
指揮者の腕が振り上げられた。
怜奈の指が鍵盤の上を滑り始める。
楽しげな長調の合唱曲。そのイントロは、耳に音符の型ができるくらい聞いている。しかし、怜奈の指から鳴らされる伴奏は、今まで聞いたどの伴奏よりも、楽しそうに聞こえた。まるで音符が踊っているみたいだ。
その楽しさが、優菜にも伝わってくる。
優菜は大きく息を吸い込んだ。
一、二、三、ハイ。
クラスメイトたちが一斉に歌い始めた。その中でも、優菜には自分の声が埋もれずに聞こえていた。
音程は、まだまだ不安定だ。
近くにいる子たち、もし、わたしにつられちゃったら、本当にごめん。
以前は、そう思うたびに怖くなっていた。
でも、もう怖くはなかった。
ただ楽しかった。
周囲の歌声が、少しだけ厚みを増した。優菜の声を受け止めるように。
指揮者は満足げな笑顔を浮かべ、いっそう大きく腕を振った。
アルトのパートから、ひときわ伸びやかな声が抜けてきた。星輝だ。
さすがだよ、星輝。
優菜の頬も、自然と緩んでいた。
歌うことがこんなに楽しいなんて、初めて知った。
みんなと心をひとつにして、歌を紡いでいくこの瞬間が、たまらなく愛おしい。そして、あと数分でこれが終わってしまうことが、寂しかった。
でも、悔いだけは残したくない。
精一杯、楽しむんだ!
三十人を超える歌声が重なり、優菜の声も、その中へ溶けていった。
◆
その日の十六時頃。
優菜が家に帰ると、リビングの明かりがついていた。
珍しく父親がソファに座り、夕刊を読んでいる。母とアスラの姿はなかった。夕飯の買い出しに行っているのだろうか。
「ただいま」
「ああ」
短い返事。いつもどおりのやり取りだった。
精一杯歌いきった優菜には、父への恐れはもうなかった。それでも、どこか気恥ずかしさは残っている。優菜はそのまま、逃げるように自分の部屋へ向かおうとした。
「優菜」
その背中に、父の声がかかった。
「よく頑張ったな」
優菜は思わず足を止めた。
振り返ると、父親はまだ新聞から目を離していなかった。
「……観にきてくれて、ありがとう」
「ああ」
また言葉が途切れた。けれど、いつものような息苦しさはなかった。
やがて父は新聞を畳むと、初めてまっすぐに優菜の目を見た。
「よく声が出ていたじゃないか」
「え」
「合唱コンクールで、優菜の声があんなにはっきりと聞こえたのは初めてだ」
その顔は、相変わらずの仏頂面だった。
だが、目元はほんのわずかに和らいでいるように見えた。
「……」
下手だと怒られると思っていた。完璧ではないおまえは月音家の恥だと言われる気がしていた。
返事をしようとしたが、声が出なかった。
かすかに口元が緩むのを感じ、優菜は小さく頷いた。
(第三十六話「月の音色」了)
第三十七話「不死鳥の歌」2026/10/24 8:00投稿予定




