第三十六話「月の音色」-5-
あれは、社会人一年目の夏。業種にもよるんだろうけど、アタシの職場じゃ、若手は日付が変わるまで働かされるのが当たり前だった。
毎日へとへとになって家に帰るだけの、再放送みたいな日々。そんなある日、奥歯が痛み出した。そういえば社会人になってまだ一度も歯医者に行ってなかったなと思って、土曜日のお昼前に歯医者の予約を入れたんだ。
そして予約当日。見事に二度寝した。起きたらもう予約時間ギリギリ。慌てて歯を磨いて、最低限の化粧だけをして、家を飛び出した。そのとき、歯医者から電話がかかってきたんだ。
〈申し訳ございません。先生の急な所用により、本日の診察ができなくなってしまいました。お手数をおかけしますが、改めてご予約を取り直していただけますでしょうか〉
絶望したよね。土曜日なんて、一日中寝てないと月曜日に仕事できなくなるってのに。しかも、この歯の痛みに耐えろって。日曜は歯医者開いてないし、次の土曜日も予約いっぱい。結局、さらにその次の土曜日の予約になった。
アタシは、一日にふたつ以上のことをこなしたくない性格でね。すでに「家を出る」っていう一大イベントを消費したから、もう何もやる気は残ってなかった。とはいえ、ここから家に帰るのもなんか悔しいじゃん?
とりあえず、外食だけしてくることにしたんだ。近所の喫茶店に入ったものの、あまりおなかはすいてなかったから、柄にもなくパフェを頼んだんだ。
そしたら、思わず声が出ちまった。
「あー、歯医者にバックレられたその足で食うパフェうめえ」
これが、アタシが初めて世界を滅ぼしてやろうと思った瞬間だった——。
「——何の話?」
リアハイリンが目を細めて訝ると、磐名はカッカッカと心底おかしそうに笑う。
「人の心の中に簡単に踏み込めると思うなよ、ヒーローさん? 正義なんて大義名分を掲げたら、何をしても許されると思ったか?」
その鋭い言葉にリアハイリンはハッとした。
「さ、無駄話は終わりだ」
磐名の言葉を合図にしたかのように、スレイヴが動いた。
その体躯から、無数のピアノ線が生き物のように伸び、四方八方からデシリアたちへと襲いかかる。
三人は宙へ散る。
一瞬前まで足を置いていたコンクリートが、紙細工みたいに裂けた。
着地する暇もなく、頭上から、白黒の鍵盤が雨のように降ってくる。
「任せて!」
リアシエルの気圧変化による風が鍵盤の軌道を逸らし、スレイヴの脇まで続く、二筋の道が現れる。
その道を辿り、リアハイリンとリアマイムが左右から飛び込んだ。
ふたつの一撃が、寸分違わず胴へ重なる。
甲高い不協和音と共に、スレイヴの鍵盤が大きく軋んだ。
すると、怜奈の心の声が聞こえてきた。
《どうして、あの子ばかり……私の努力は、才能の前では無意味なの?》
リアマイムは、保健室へ向かう道すがらの怜奈の横顔を思い出していた。
——立派だね、月音さんは。私なんて、プレッシャーに押しつぶされそうで、こんななのに。
怜奈に妹がおり、一年生のクラスでピアノ伴奏を担当することは耳にしたことがあった。これらの話が、リアマイムの中でひとつにつながる。
「守山さんは、妹さんと比べられるのが嫌なんだね」
廊下で話を聞いたとき、彼女の黒感情は、少しだけ癒えたように思えた。
だが、それを磐名は無理やりこじ開け、増幅させたのだ。
リアマイムは奥歯を噛み締めた。
スレイヴが心の叫びと共に、背中の翼を大きく広げた。そして、今まででもっとも大きく、歪んだ不協和音の衝撃波を放つ。
まずい——!
誰もがそう思うが、もう遅かった。
三人のデシリアの身体が、同時に硬直した。
そして、どういうわけか、スレイヴも動きを止めていた。
その動けない彼女たちの間を、磐名が展覧会の観客のように、じっくりと歩いていく。
「滑稽だねえ」
「うるさい!」
動けないまま反抗するリアシエル。磐名は、彼女の顎に左手で触れた。
「正義という言葉の先にあるものを知ってるか?」
リアシエルは屈辱を顔に浮かべ、警戒する猫のように髪を逆立てている。
磐名は口の端を上げた後、今度はリアハイリンへ向かう。
「歴史の教科書を見てみなよ。大勢を殺した連中は、みーんな正義の名の下に殺戮を繰り返している。正義を掲げない悪党は、教科書に乗るレベルのことはしてないのよ。巨悪はいつだって、自分こそ正義だと思ってる。アンタらみたいにな」
これまでリアハイリンはヒーローを信じてきた。ヒーローとは、正義。
しかし、その正義を掲げながら、歴史に残る犯罪者として知られる者もいる。
「正義は、自らの暴走を正当化する」
「……私たちは、そうならない」
「アンタがそう言っても説得力がねえなあ」
ぐうの音も出なかった。確かに、自分は黒に染まりかけた。それに、別の時間軸の自分は、確かに黒に染まっている。
「うちのボスがどうして、あくまで自分たちを『悪』と言ってるか分かるか? 正義を掲げれば、自分の残酷さまで正当化できちまう。だから、アタシたちは自分たちを正義だなんて呼ばないのさ」
磐名はリアハイリンのおでこを、軽く指で弾いた。
次は、リアマイムへ向かう。
「アタシが世界をリセットしようとしてるのはね、いわば男が裸で腰を振るのと同じだよ。そこに大義名分なんてないし、あったほうがキモいでしょ? アイツらは腰を振りたいから振ってるの。アタシは人類を滅ぼしたいから滅ぼしてるの。分かる? どぅーゆーあんだすたん?」
その下品な例えに、優菜の顔が真っ赤に染まる。
「あらあらカマトトぶっちゃって。アンタくらいかわいければ間近で見たことあるんじゃないの? 腰を振る裸の男」
「ありません!」
「……アンタくらいの年齢の頃のアタシにはあるよ。口を塞がれながらね」
その言葉にリアマイムたちは息を呑んだ。
磐名は口元に笑みを浮かべ、肩をすくめた。その瞳には、冗談めかした口調とは裏腹の暗い影が差していた。
「相手は、学校の女子の中で一番人気のイケメン男性教師さ。アタシみたいなブスがそんなこと告発したら、学校中の女子から叩かれるのは目に見えてたよ。そして、それが世界の縮図だと知った。生きるのが上手な人間の生き方がどんなものか。奴らに搾取される人間がどれほど孤独か。よーく学んだよ。学校っていろんなことが学べるんだね」
リアマイムは、混乱していた。
同情してはいけない。彼女は、敵だ——。
磐名は、そんなリアマイムの肩を掴んだ。
「まっ、嘘だけどな」
「へ?」
リアマイムは呆気に取られた。
磐名は、相手の反応を面白がるように口の端を上げる。
「世の中、理不尽なことばっかりだ。肩肘張って生きてても苦しいだけ。勤勉な者が馬鹿をみるだけ。こんなおかしな世界、壊れるべきだって思わない?」
リアマイムは何も答えられない。
間近で見る磐名の瞳は、今まで見てきた飄々とした印象とは違っていた。
深い諦観と、消えることのない澱み。
「アタシのことが、少しは分かったか?」
磐名はリアマイムに背中を向けて離れていく。
「じゃ、そろそろ続きを始めるか」
磐名がパチンと指を鳴らした。
すると、デシリアたちとスレイヴの硬直が同時に解けた。
スレイヴは宙へ跳び上がり、無数の鍵盤の破片を周囲へ撒き散らした。
デシリアたちは、それをひとつひとつ的確に捌いていく。
そして、再び不協和音を奏でようと、スレイヴが翼を広げた。
「やらせない!」
リアマイムは、その動きを見切っていた。スレイヴの全身を分厚い水の壁で覆い、音を閉じ込める。
リアハイリンとリアシエルは水の壁へ向かって駆け出した。ふたりは一瞬だけ目を交わす。
ふたりが攻撃の間合いに入る直前、リアマイムが水の壁を解除した。水飛沫が舞う中、リアハイリンとリアシエルの飛び蹴りがスレイヴの胴体を弾き飛ばした。
《一番になりたいわけじゃない。私はただ、楽しくピアノを弾いていたいだけ……比べないで……! お願い……!》
吹き飛ばされ、膝をついたスレイヴ。
リアマイムはその目の前へと静かに歩み寄った。
「……あなたの気持ち、少しだけ分かる気がする。わたしも、ずっと怖かったから」
父の求める完璧な自分と、本当の自分。
少し前までの自分は、その差異を埋めることばかりを考えていた。その差異が、期待を裏切ることが、怖いから。
怜奈が感じている恐怖は、これに近いのではないだろうか。
「比較されるのは、怖いよね。不安だよね。でもね、わたしたち、あなたのクラスメイトは、あなたの音が聞きたいの。あなたの音で、歌いたいの」
《私の……音で……?》
「うん」
リアマイムは自らが見つけ出した答えを告げた。
「妹さんがどんな演奏をするのか、わたしはよく知らない。音楽のことは詳しくないから、無責任かもしれないけど……うまく弾くことより、楽しんで弾くことを選んだら、上手いとか下手とか、そういった尺度にあてはまらない、あなただけの演奏になるんじゃないかな」
父が、そんな自分をどう思っているのかは分からない。突然、国籍すらも不明なアスラを家に住まわせたいと主張した自分をどう思っているか、見当もつかない。
でも、そんなのは関係ない。
自分がそうしたかったから、そうしたのだ。
《私だけの演奏……。そうだ、私は、妹よりうまくなりたいんじゃない。ピアノを楽しみたいんだ》
黒い靄が、水に落とした墨のようにほどけていく。その奥で、小さな白い光が震えていた。怜奈の、音楽を愛する気持ちだった。
「明日のコンクール、一緒に楽しもうね」
微笑みながら、身体の中に水のエネルギーが溜まっていくのを感じる。
水が温かい。
泣いて笑って、乗り越えてきた時間。
その全部が、水の中に息づいていた。
「『黒き感情、流れゆけ』」
それを、優しく怜奈へ共有する。
「『デシリア・フライト・シャワー』」
浄化の温かい奔流が、スレイヴを優しく包み込んだ。スレイヴの影が消え、瞳を閉じた怜奈の姿が現れる。怜奈は目を閉じて倒れていた。苦しさの残る顔には、張り詰めていたものから解放された安堵も浮かんでいた。
一瞬、世界が静止したように感じられた。耳の奥で自分の鼓動だけが響いている。
次の瞬間、彼女たちの全身を、音が包み込んだ。
「!」
それは、先ほどまでの不協和音ではなく、歓声。
リアマイムたちは、グラウンドへ振り返った。
誰かが拳を突き上げる。
誰かが名前も知らない戦士へ拍手を送る。
「やったぞ!」
「すごいもの見ちゃった!」
「さっすがヒーロー!」
見上げる生徒たちの目は驚きと感動で光っている。その視線を一身に受けながら、リアマイムは微笑みながら、手を振り返した。
歓声と拍手が響く中、すぐ背後から別の拍手が加わった。
磐名だ。
「お見事お見事」
リアマイムは振り返り、対峙する。
「あなたは戦わないの?」
磐名は退屈そうに、あくびをした。
「世の中自分で手を動かす人間より、誰かを動かす人間が偉いんだよ。……そういえば、アンタ、父親と仲悪いんだな」
突然のことに、リアマイムの思考が停止する。
「え?」
数分前の会話が思い出される。
——アンタはどういう経緯でデシリアになったんだ?
——わたしは、安全な籠の中でお父さまの言いなりだった自分を変えたくて、デシリアになったの!
「なるほどねえ」
磐名は意味深にほくそ笑むと、最初からいなかったかのように姿を消した。




