第三十六話「月の音色」-4-
授業終了のチャイムが鳴り、生徒たちが一斉に帰り支度を始める。その喧騒の中、星輝は「悪い! 親父が風邪でダウンしたから今日は弟の迎え行かなきゃなんだ!」と慌ただしく教室を飛び出していった。沙耶も今日は掃除当番で北校舎の方へと向かっている。
残された瑞季と優菜は顔を見合わせた。
「……守山さん大丈夫かな。ちょっと様子見に行ってみない?」
優菜の提案に瑞季はこくりと頷いた。
一階まで降りていき、保健室のドアをそっと開ける。
ベッドのカーテンは閉められていた。だがその隙間から見えた光景に、ふたりは息を呑んだ。
磐名式乃。
ここにいるはずのない女がベッド脇に立っている。その肩には黒いヒナがちょこんと乗っていた。
優菜たちの背筋に、冷たいものが走る。
「磐名さん!?」
「おやおや、ずいぶんタイミングがいいねえ。まるで漫画みたいな展開だな」
「びっくりだニャ」
白々しい棒読みだった。
怜奈はベッドの上でうずくまるようにして震えていた。
磐名は、水晶を右手から左手へ投げた。
「大丈夫だよ、お嬢ちゃん。アンタは悪くない。この世の人間のほとんどには、なんの才能もないのだから」
磐名は、慰めるような口調で囁いた。
「むしろ、才能あるものこそ周囲に叩かれる。そういうもんなんだ。だから、無理はしなくていい。——そんなアンタには、量産機がお似合いだ」
磐名が水晶を怜奈へと突きつけたその瞬間、瑞季と優菜は叫んでいた。
「やめて!」
だが、遅かった。
「『水晶よ、黒を架けろ』」
怜奈の全身から黒い感情の霧が噴き上がった。軋むような音とともに、霧が異形の姿を形作っていく。
現れたのは、豪奢なドレスをまとったバレリーナを思わせる、身長二メートルほどの異形。その身体は、ひび割れたピアノの鍵盤と、切れかけた弦で構成されている。
スレイヴは誕生とほぼ同時に、保健室の窓を突き破り、グラウンドへと降り立った。
「磐名さん! どうして守山さんを!」
「未来から来たまんまる猫型ロボットの散歩に付き合ってただけさ」
「ロボットじゃないニャ」
すると、磐名と黒ヒナの前に青い亜空間の渦が現れ、磐名たちを包み込んで消えた。
「なんなの、あいつら……!」
「それより早く行かなきゃ!」
グラウンドから悲鳴が響いた。さっきまで部活動や帰宅する生徒で賑わっていた校庭は、たちまち逃げ惑う生徒たちで騒然となった。
「いったん屋上に行くニャ!」
瑞季のバッグからヒナの声が聞こえた。
「屋上?」
「屋上なら人はいないし、戦いやすいニャ」
言い終えると同時に、ヒナは瑞季たちの前に亜空間の渦を開いた。
「了解!」
瑞季と優菜は渦へ飛び込んだ。
屋上に転移したふたりの眼下では、突然現れた怪物から生徒たちが逃げ惑っていた。混乱するグラウンドの中央で、スレイヴだけが静かに佇んでいる。
瑞季のバッグからヒナが飛び出し、光とともに神辺穹の姿へと変わった。
「あれくらいの大きさなら、変身しなくても運べそうだね」
穹はグラウンドへ両手を向けた。スレイヴをすっぽり覆うほどの亜空間の穴が、その足元に開く。
スレイヴは抵抗する間もなく渦に飲み込まれ、三人の待つ屋上へ転移させられた。
「よし」
そして、三人は同時にデシリル・ジェムとデシリル・アンプを構え、変身する。水色、白、空色の三色の眩い光と共に、三人の戦士が現れる。
変身の光に気づいた生徒たちが、次々と屋上を見上げていた。
「ちょ、ちょっと戦いにくいかも」
リアハイリンがそう呟いたとき、
「もしかして、あれって『町を救う美少女戦士たち』か?」
「そうだ! 絶対そうだよ!」
「頑張れー! そんな怪物ぶっ飛ばしちまえ!!」
グラウンドから、ライブ会場のような歓声が沸き上がった。
リアハイリンの口元が、緩んでいく。
「悪い気はしないね……。行くよ」
リアハイリンはスレイヴの懐へと一直線に飛び込む。
だが、スレイヴは背中のメトロノームの針のような翼を広げ、狂ったような不協和音のピアノの旋律を奏で始めた。
音を浴びた瞬間、リアハイリンの身体が硬直した。
「えっ」
金縛りにあったかのように身体が動かない。
スレイヴは素早く後退し、切れかけたピアノ線を鞭のように放った。
「させない!」
リアシエルが気圧を操作して風の壁を作り、鞭の軌道を上へ逸らす。その間に、不協和音が途切れた。
ようやく身体を動かせるようになったリアハイリンは、すぐさま体勢を立て直した。
「なにこれ……」
リアハイリンが戸惑っている間も、仲間たちは動きを止めなかった。リアマイムは水の弾丸を連射して、スレイヴの注意を引きつけた。
その隙に、体勢を立て直したリアハイリンがスレイヴの背後へと回り込み、回し蹴りを叩き込む。
鍵盤でできた身体が、甲高い音を立てて軋んだ。
蹴りが決まった手応えが、足から伝わってきた。以前なら、この感覚を恐れていたかもしれない。けれど今は、恐れてはいない。
ブラフザールの言葉が、脳裏をよぎった。
——相手を倒して気持ちがいいなんて、人間としてあまりにも当たり前の感覚だ。悔やむことも、恥ずかしがることも、恐れることもない。
スレイヴはすぐさま体勢を立て直して腕を振り上げ、リアマイムへとひび割れた鍵盤の破片を弾丸のように射出した。
対応できないほどの速さではない。
リアマイムは両手を前に突き出し、瞬時に水のエネルギーをイメージし、水の盾を出現させた。すべての鍵盤が盾の水流に弾かれ、周囲へ力なく飛び散った。
次の瞬間、スレイヴの背中の翼が、再び不協和音を奏でた。
リアマイムの全身が硬直した。
「え……」
スレイヴが跳躍し、水の盾を軽々と飛び越える。
「しまっ……!」
しなるピアノ線が肩をかすめる。
「きゃっ!」
ピアノ線が肩をかすめた。鋭い痛みに顔をしかめた直後、硬直した身体が崩れ、受け身を取れないままコンクリートに叩きつけられた。
「マイム!」
リアハイリンがスレイヴへ飛びかかり、蹴りを打ち込む。スレイヴは放物線を描いて吹き飛んだ。
「シエル!」
「もちろん!」
上空から圧縮した風がスレイヴを叩きつける。
だが、スレイヴは空中で巨体をひねり、巨大な鍵盤を地面に突き立てた。衝撃で先端が砕け、鋭い破片が槍のように尖る。スレイヴはそれを引き抜くようにして、リアマイムへ投げつけた。
その鋭利な弾丸は、水の盾では——。
「防げない!」
咄嗟にそう悟り、身体をひねる。
だが、再び、あの不協和音が耳の奥へねじ込まれる。
「!」
神経そのものを掴まれたように、指一本動かない。
かつて、ジンの黒槍におなかを貫かれたときのことが、走馬灯のようによぎる。——しかし、その鋭利な弾丸がリアマイムに触れることはなかった。
「……させない!」
その射線上に、瞬時にリアハイリンが身を挺して立ちはだかる。
そして、その切っ先を掴んだ。
「ぐっ……!」
鍵盤の弾丸を脇に抱え、受け止める。鋭い切っ先を掴んだ手と腕に、赤い血が滲んだ。
「……よくも!」
怒声とともに、リアシエルの身体が宙へ躍る。右腕を振り下ろした。その腕に圧縮された大気が槍の形を成し、スレイヴの肩口へ突き刺さる。
巨体がぐらりと傾く。
「もういっちょ!」
リアシエルは強力な下降気流を発生させ、体勢を崩させる。スレイヴは自重を支えきれずに倒れ、校舎を揺らした。
「ハイリン!」
「……痛いけど、まだまだいけるよ」
リアハイリンは、苦し紛れながらも笑ってみせた。
「マイムは大丈夫?」
人を庇って痛手を負いながらも、仲間の心配ができるリアハイリンの強さに、リアマイムは胸をキュッと締め付けられる。
「——ははっ。様にならねえな、オルタナは」
いつの間にか屋上の給水塔の上に磐名が立っていた。
「結局、誰かに庇ってもらわねえと何もできねえのかよ。空っぽの優等生さんよ」
「……っ!」
悪意に満ちた言葉がリアマイムの心を抉る。
「なあ、月音優菜。アンタはどういう経緯でデシリアになったんだ? 神辺を探してて、観察できてなかったんだよね。教えてくれよ。まあ、どうせ誰かの受け売りで正義ごっこ始めただけだろうけど」
「そんなんじゃない!」
その挑発に、優菜は力強く言い返した。
「わたしは、安全な籠の中でお父さまの言いなりだった自分を変えたくて、デシリアになったの!」
アスラを家に迎え入れる交渉をしたこと。
父親が合唱コンクールに来ると知り、それまで以上に精一杯歌うと誓ったこと。
少しずつ、彼女は自分を変えていっていた。
その勇気をくれたのは、他ならぬ瑞季たち。
仲間たちの顔が浮かんだとき、優菜はふと別のことが気になった。
「……じゃあ、あなたのことも教えてよ」
今度は、こちらが切り返す番だ。
「あなたは、どのように瑞季と知り合って、ヴォイズ・アークに入って、地のデシリル・ジェムを持つようになったの?」
磐名は一瞬、意表を突かれたような顔をした。
やがて、自嘲気味に笑った。
「……ま、たまにはガキの願いを叶えてやってもいいか。教えてやるよ。聞くも涙、語るも涙の、くだらねえ物語をな」




