第三十六話「月の音色」-3-
それから二週間弱が過ぎた。
夕飯の支度が整った頃、二階で宿題をしていると、階下から声が聞こえた。
「優菜〜。ご飯できたわよ〜」
「ごめん! もうちょっとで宿題終わるから先に食べてて!」
そう返事をしてから、優菜は最後の問題へと向き直った。
十分ほどして宿題を終え、一階へ降りてリビングに入る。すると、アスラがお盆を持って立っていた。お盆の上のごはんは、綺麗にたいあげられていた。
「あれ? 早いね」
「そうですか?」
口の中にまだごはんが残っているらしく、もごもごしていた。それらをごくりと飲み込み、「ちょっとお部屋に戻って勉強させていただきますね」とアスラはリビングを出ていく。
「うん。頑張って」
「ありがとうございます。では、お先に失礼しますね」
そう言い残し、アスラは小走りで二階へ上がっていった。
優菜は少し首を傾げる。
「珍しいね」
「ね。今日はちょっと早く食べてたから、喉が詰まらないか心配だったわ。勉強熱心なのはいいことだけどね」
アスラは家事を手伝いながら、故郷の学校の勉強とかるたの勉強をしている。
「偉いなあ」
「いただきます」
席について手を合わせると、食卓が静寂に包まれた。その静けさが、懐かしく思える。ここのところ、アスラとの他愛ないおしゃべりで和らいでいたから。今日はその小さな賑わいがなく、食卓は昔に戻ったように静まり返っていた。聞こえてくるのは食器が皿に当たるかすかな音と、テレビから流れるニュースキャスターの抑揚のない声だけ。
優菜は背筋をまっすぐに伸ばし、完璧な作法で食事を進める。
その視線の先。テーブルの上座に座る父親の存在が、部屋の空気を重くしていた。
彼は食事中ほとんど声を出さない。ただ黙々と箸を動かし、時折鋭い目でテレビの経済ニュースを見つめているだけ。
怖い。
物心ついたときからずっとそうだった。
父に褒められた記憶はほとんどない。求められるのは、いつも完璧であること。一番であること。月音家の娘として恥ずかしくない人間であること。
期待に応えなければならない。その思いが、優菜を縛り続けていた。
「……優菜」
不意に、父親が口を開いた。
その低い声に、優菜の心臓がどきりと跳ねる。
「次の金曜日、合唱コンクールなんだそうだな」
テレビから目を離さず、彼は言った。
「はい」
「観に行くことにした」
「え」
優菜は思わず、顔を上げた。
父親が自分の学校行事に来る。
そんなことは小学校の入学式以来、一度もなかったはずだ。
「……母さんから聞いた。ちょうど仕事が一段落していてな。休みが取れた」
彼はそう淡々と告げた。
以前、優菜はアスラや母に合唱コンクールのことを話していた。ふたりは観にきてくれる約束をし、優菜はそれを励みに練習を続けてきた。
まさか、それが父親の耳にまで入っているとは、思ってもみなかった。
優菜の背筋を、冷たいものが走り抜ける。
見に来る。
あのお父さまが、わたしの歌を聴きに来る。
音痴で醜い歌を。
逃げたい。仮病を使って休んでしまおうか。――そんな弱い心が顔を出す。
だが、彼女はその弱い自分を、心の中で叱咤した。
違う。
わたしは、もう逃げないと決めたんだ。
優菜はすっと息を吸い込んだ。
そして、震える唇を必死に押さえつけ、まっすぐに父親の目を見て言った。
「はい。……精一杯歌いますので、観ていてください」
逃げも隠れもせず、精一杯歌うんだ。
その絞り出すような言葉に、父親の仏頂面が、ほんのわずかに和らいだように見えた。
◆
本番を二日後に控えた、五時間目の音楽の授業。
窓の外では秋の穏やかな日差しが、校庭を黄金色に染めていた。
だが、音楽室の中は、いつもより少しだけピリピリとした緊張感に包まれていた。
授業の前半はパート別の練習だ。
優菜と瑞季はソプラノ。星輝はアルト。それぞれのパートに分かれ、音取りに集中する。
伴奏担当の守山怜奈は、その喧騒をピアノの椅子に座りながら、ただぼんやりと眺めていた。
目の前の楽譜とクラスメイトたちの練習風景。それを交互に見つめる。
ピアノを弾くのが怖い——。
前回の授業までは、問題なく弾けていた。完璧ではなくても、怖いとは思わなかった。
けれど、昨夜、妹の演奏を聴いてから、指が鍵盤に向かうのをためらうようになった。
一歳下の妹。彼女もまた自分のクラスの合唱コンクールで、伴奏を務めるのだという。
そして、怜奈の前でこともなげに、課題曲を弾いてみせた。
その演奏は完璧だった。
怜奈の練習を嘲笑うかのような、才能の輝き。
昔から、妹とは何かにつけて比べられてきた。それがつらくて、小学生の頃は、ほかにピアノを弾ける子がいれば、いつも伴奏を譲っていた。
その上、小学生の頃の妹は、ピアノを楽しんではいたものの、コンクールなどにはあまり興味を示さず、練習には消極的だった。しかし、この一年で彼女は、どういうわけか真剣に練習をするようになった。まさに、『天才が本気を出した』とでも言うべき事態。ふたりの差は、さらに歴然となった。
本番当日、保護者席で両親は必ず自分と妹の演奏を比べるだろう。両親だけではない。誰もが、姉妹を比較するに違いない。
怜奈はソプラノパートの一角に目をやった。人数の多いソプラノと男声パートは、それぞれ二手に分かれて練習している。
ソプラノパートの比較的真面目な方のチームに、月音優菜がいた。
優菜の声は、ほかの生徒よりもよく通っていた。声質が澄んでいるからだろう。もっとも、音程は相変わらず、見事なまでに外れている。
それなのに、優菜は少しも恥ずかしそうではなかった。練習の初めこそおどおどしていたが、今は堂々と声を出している。
よく聴けば、曲の出だしなど、分かりやすい部分の音程は以前より安定していた。
ひとりひとりが完璧でなくても、声が重なれば、ずれは全体に溶け込むのかもしれない。少しくらい不揃いでも、それがクラス合唱の味になるのではないか。
でも、伴奏が崩れたら——。
やがてパート練習が終わり、全員で通し練習をすることになった。
怜奈はゆっくりと鍵盤に指を置く。指揮者の男子生徒と目が合った。彼の真剣な眼差しを見て、思う。その期待を裏切れない、と。
そう思えば思うほど、指の震えが止まらなくなった。
冷や汗が背中を伝う。
指揮棒が振り下ろされた。
——弾けない。
指が鍵盤の上で固まったように動かなかった。
「……っ」
音楽室がしんと静まり返る。
一斉に向けられた視線が、怜奈には痛かった。
「……すみません。ちょっと気分が悪くて……」
そう言うのが精一杯だった。ピアノの椅子から逃げるように立ち上がると、音楽室を飛び出す。
「ほらね」
静かな廊下で、思わず呟いてしまう。
やっぱり私はこうなる。
私なんかより、他の子が伴奏をやるべきだった——。
廊下をよろよろと歩いていると、背後の扉がガラガラと開いた。
「守山さん、大丈夫?」
その声は、月音優菜だった。
彼女は怜奈へ駆け寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。
「顔、真っ白だよ? 保健室、一緒に行こうか」
怜奈は何も言えず、ただ小さく頷いた。
ふたりは並んで静かな廊下を歩き始めた。
優菜は怜奈の肩にそっと手を添え、身体を支えた。ほのかに、ミルクのような心地よい香りがした。
「具合、ずっと悪かったの?」
「ううん。さっき急に……いや、昨夜からずっとかも」
優菜は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は深掘りしなかった。それが、怜奈には助かっていた。
「階段、大丈夫?」
「うん。たぶん」
怜奈は左手で手すりを掴んだ。優菜は彼女の右手を取り、二段下を歩きながら、ゆっくりと足元を確かめていた。
「月音さん、堂々と歌えるようになったんだね」
「まあ、そうだね」
優菜の頬が紅潮した。彼女の音痴は、クラス内ではもはや周知の事実となっている。
「家族が観に来るの」
「お母さん?」
「お母さんと、お父さんも」
「へえ、珍しいね」
「お父さん、いつもは忙しいんだけど、休み取れちゃったみたい」
「それほど、月音さんのことが好きなんだね」
怜奈としては当然の反応のつもりだった。しかし、優菜は階段を降りる足を止め、驚いた顔を見せた。
「そう……なのかな……」
優菜の声には、戸惑いが混じっていた。
「そうだと思うよ」
怜奈が階段を一段下りると、優菜も再び歩き出した。
「そっか……。あのね。わたし、お父さまが怖いの」
優菜は足元を見て歩きながら続けた。
「だから、ずっと自分を隠して、表面的な綺麗なところばかりを見せてきてて。でも、それじゃダメだな、って。お父さまに全部を話す勇気はまだないけど、せめて、苦手なことに立ち向かう姿くらいは見せたいな、って」
顔を上げて、怜奈を見て微笑んだ。その顔はまるで絵画からそのまま出てきたかのように美しかった。
一方、自分は。
「……立派だね、月音さんは。私なんて、プレッシャーに押しつぶされそうで、こんななのに」
思わず弱音が溢れてしまう。ピアノについての弱音をクラスメイトに口にしたのは、初めてだったかもしれない。
「そっか」
優菜は、怜奈の言葉を否定も慰めもせず、静かに頷いた。
「みんなそれぞれ、見えないところで大変だよね」
その言葉に、怜奈の胸が少しだけ軽くなった。
保健室のある一階にたどり着いた。
だが、怜奈は、もう少し優菜と話していたかった。
「ねえ、知ってる?」
口が、勝手に動いていた。
「クラス分けをするとき、各クラスにピアノが得意な子が最低ひとりはいるように、組まれるんだって」
「へえ、そうなんだ」
「私以外にも、いればよかったのにな」
「え?」
「ごめん、忘れて」
余計なことを言ってしまった。
優菜がどう思ったかは分からない。それでも、胸に抱えていた重荷を、互いに少しだけ分け合えた気がした。
怜奈は呟く。
「……でも、みんなそれぞれの事情を抱えて頑張ってるんだね」
振り向く優菜に、素直な気持ちを伝えたくなった。
「月音さん、ありがとう。私、もう少し頑張れそうな気がしてきた」
「うん。一緒に頑張ろうね」
保健室のドアの前まで来てしまった。優菜がドアの取っ手に手を伸ばすが、怜奈は先にそれに手をかけた。
「ついてきてくれて、ありがとう。あとは私ひとりで大丈夫」
「そっか。早くよくなるといいね」
気分の悪さは、まだ抜けきらない。それでも、一晩休めば、少しは落ち着くはずだ。
「明日、頑張ろうね」




