第三十六話「月の音色」-2-
優菜が音痴だと告白した翌日の放課後。瑞季、星輝、優菜、沙耶の四人は、駅前のカラオケボックスへ向かっていた。星輝が「特訓しよう!」と提案したのだ。
「まさか、優菜にそんな弱点があったなんて」
瑞季は隣を歩く優菜を見て、つい頬を緩めた。
「わ、笑わないで……」
「笑わないよ。かわいいなあ、って」
いつも落ち着いている優菜が、こんなにも自信なさげな顔をしている。なんだか新鮮だった。
「ウチだって最近は勉強もちょっと頑張ってるだろ? だから、優菜も頑張って乗り越えようぜ」
受付を済ませて廊下を抜け、案内された部屋に入る。ソファにどかっと腰を下ろした星輝が、慣れた手つきでタッチパネルリモコンを操作した。
「よっしゃ! じゃあまずはウォーミングアップがてら、ウチから歌うわ!」
そう言って一曲目を入れると、彼女は隣に座る優菜へとリモコンを渡そうとした。
だが、優菜はそれを、やんわりと手で制する。
「ごめん星輝。何を歌うか、もう少し考えたいから、後回しにしてくれるかな」
「お、おう。分かった」
リモコンは、テーブルを挟んで向かい側に座る瑞季の手へと渡った。
やがて、部屋にけたたましいイントロが鳴り響く。
星輝が選んだのは、流行りのアップテンポなロックチューンだった。
マイクを握って立ち上がると、星輝の表情が変わった。少しハスキーな歌声が、狭い部屋いっぱいに響き渡る。
「やばい……」
星輝の歌声に圧倒されながら、瑞季は選曲画面を見つめていた。
「マニアックなアニソンかVチューバーの曲しか思いつかない……。今時の普通の中学生はどんな曲を聴いてるんだろう……」
「そんなに気を遣うメンツでもないし、瑞季さんの好きなものを歌えばいいと思うよ」
隣に座る沙耶が優しく微笑む。
「それはそうなんだけど……。せめて一発目くらいは、みんなが知ってる曲を……」
悩んだ末、瑞季は自分が小学生の頃に夢中で見ていたアニメのオープニング曲を入れた。
すると、その選曲を見た沙耶がぱっと顔を輝かせた。
「あ、わたしもそれ好き! じゃあわたしはエンディングを入れようかな」
「お、沙耶ナイスチョイス!」
星輝が一曲歌い終え、瑞季の番が回ってくる。
テーブルに置かれたもう一本のマイクを手に取り、座ったまま自分の口に向ける。
瑞季も、けっして歌が上手なわけではない。メロディに合わせて身体を揺らし、大好きなアニメの思い出に浸りながら歌うのは、純粋に楽しかった。
歌い終わって優菜を見ると、彼女はまだ目の前のリモコンを手に取ろうとはしなかった。
リモコンを大きな蜘蛛でも見るかのように薄目で見つめていた。小さくため息をつき、ソファの背もたれに身を預ける。何も歌っていないのに、すでに疲れ切った顔をしていた。
次に、沙耶がマイクを握る。
彼女は少し恥ずかしそうに、はにかみながら歌い始めた。その透き通るような綺麗な歌声は、なかなかのものだった。
沙耶が歌っている間も、優菜はずっと上の空だった。
だが、曲が終わる頃、彼女は意を決したように身を起こした。震える手でリモコンを取り、曲名を入力する。
モニターに表示された文字を見て、瑞季は目を見開いた。
『君が代』
「渋い」
沙耶が歌い終え、いよいよ優菜の番がやってきた。
彼女は震える手でマイクを握りしめる。
そして、荘厳なイントロと共に、歌い始めた。
優菜の声そのものは、澄んでいて綺麗だった。ところが、音程は伴奏から大きく外れ、声も小さすぎて曲に埋もれてしまう。
アップテンポな曲が三曲続いた後の荘厳な国歌。
その落差に、瑞季は風邪をひきそうになる。
歌い終えた優菜は、すべての気力を使い果たしたかのように、テーブルの上に突っ伏した。
「うう……」
「お疲れさま……。すごくいい声だったよ」
「な。全然恥ずかしがるようなもんじゃねえと思うけどな」
「うん。音程とか誰も気にしないし、楽しく歌ったらいいと思うよ」
三人が口々に慰めの言葉をかける。
優菜はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、今にも涙が浮かびそうなほど弱々しかった。
「……歌うのが、怖くて」
彼女は絞り出すように言った。
「小さい頃、ピアノを少し習っていたこともあって、耳はそこそこいいの。だから、自分の声の音程がずれているのが分かっちゃって……それが気持ち悪くて……」
優菜はウーロン茶を一口飲んで、続ける。
「恥ずかしいとか、音程なんて気にするなとか、そういう話じゃなくて。……ただ、自分の思い通りの音程を出せないことが、怖いの。だから、音楽の授業でも、実はほとんど口パクでやり過ごしてて」
「そう、なんだ」
歌うことそのものが怖い。瑞季には、そんな感覚がよく分からなかった。人前でひとりで歌うのならともかく、家族や気心の知れた友達とカラオケに行くのは、誰にでも平等に楽しいものだと思っていた。
その深刻な告白を受け、星輝が立ち上がった。
「なるほどな。理屈は分かった。だったら話は早い! ウチがその恐怖症治してやるよ!」
そこから星輝によるレッスンが始まった。
まずは発声練習。
「リピート・アフター・ミー。ド〜」
「ドー」
「それはミだな。ナイスなハモリだぜ、優菜」
「ハモってるつもりじゃないんだけど……」
次に音感を鍛えるため、星輝がキーボードアプリで弾いた音を優菜が当てるゲーム。
「これは?」
星輝がキーボードアプリで音を鳴らす。
「ファ!」
優菜はその音を真似して歌った。
「正解! でも今の声はドの高さだったぜ」
「うっ……」
そして、実践。星輝が小声で歌い、それに合わせて優菜も歌う。
一時間ほど練習しても、優菜は思ったように声を出せず、何度も肩を落とした。
「もう……わたしはダメ……」
レッスン開始から一時間後。優菜は再びテーブルに突っ伏していた。
「まあ、そんな一朝一夕で上手くいくものじゃないと思うよ。これからみんなで、じっくり練習続けていこうよ」
沙耶の優しい言葉に、優菜は力なく頷くことしかできなかった。
合唱コンクール本番まであと二週間。
その短い時間が優菜には、永遠の拷問のように感じられた。
しかし、
「逃げてばかりじゃ、ダメだよね」
優菜は顔を上げた。
「わたしひとりなら、きっと逃げてた。口パクしてた。でも、みんなが付き合ってくれるなら、わたし、頑張れる」
それに——こんなところで逃げるのは、わたしのなりたいわたしじゃない。
「下手なりに、精一杯立ち向かおうと思う」
そう宣言する彼女の手は、まだ震えている。しかし、その声量は、先ほどまでよりもずっと大きい。
そんな彼女の姿に、星輝は満足げに笑った。
「よし! じゃあ、練習の続きだ!」
「はい! 先生お願いします!」




