第三十五話「秋空より、天の川へ」-6-
穹が初めてデシリル・ジェムを手に取ってから、二か月が経った頃。
穹と先生は、旧ヘヴンのアジトの一室で待機していた。
「寒いね」
「うん」
先生は首にマフラーを巻き、手には使い捨てカイロが握られている。穹も先生から貰った使い捨てカイロを同じように握っている。このアジトでは、ロイが電気だけは使えるようにしていたが、暖房を動かすほどの電力は確保できなかったため、冬は寒かった。
「ロイとの訓練はどう?」
「順調だよ。少なくとも、前みたいに意図しない力が暴発することは、なくなったと思う」
あれ以来、穹はロイに空の邦の精霊の魔法を学んでいた。意図していないとはいえ元からそれを使えていた穹は、驚くほど早くひとつひとつの技を身につけていた。できない能力もいくつかあるが、デシリアに変身すれば、すべてが思いのまま扱えるようになっていた。
——とっくに私を超えているね。
そう苦笑するロイは、嬉しそうだった。
「ロイさん、大丈夫かな」
穹は古びたベッドに座りながら、白い息を吐く。
先生は、木製の椅子に腰掛ける。
「今までもバレてなかったんだから、大丈夫だと思う。きっと……」
ロイは何度かヴォイズ・アークに潜入して偵察していた。そこで、ロイはヴォイズ・アークがルフィトヴェルツェと協力し、タイムマシンを作ったことを知った。
——そんなもの、何に使うの?
——ヴォイズ・アークの目的というよりは、ルフィトヴェルツェの夢の側面が強いようです。彼らとしても、水と空のデシリル・ジェムを奪えずとも過去から持ってくることができるというメリットがあり、協力しているようです。
——じゃあ、私たちはもう狙われないの?
——いえ。「そんな抜け道に頼らず、この時空のものを使うべきだ」というのが、彼らのポリシーのようです。保険としてその選択肢も念頭に置いているのは間違いないですが。
それは、前々回の潜入後に交わした、先生とロイの会話。
——タイムマシンは、この時空とその先の時空を同期する装置のようです。同期している限り、何度も行き来ができるのだとか。
——一度同期が外れたら、二度と同じ時空に飛んだりはできないってこと?
——ええ。もっとも、意図した操作を行うかエネルギー切れを起こさない限り、同期は切れないようですが。
この日もロイは偵察に行っていた。このアジトの入り口にある転移装置と同じものを、彼らのアジトに隠して設置し、接続したのだという。
部屋に、しばしの沈黙が訪れる。先生は、どこか愛おしそうに、椅子の背もたれを指で撫でていた。その細く白い指先を、穹はじっと見つめていた。
「ここって、先生の友達の部屋だったんだよね」
かつてヘヴンという組織が異世界からやってきて、先生たちデシリアと戦ったと、穹は聞いていた。異世界からやってきた彼らの中には、当時の先生たちと歳の近い少女もいたのだという。
「うん。今頃、何してるのかな……。元気にしてるといいな」
俯き気味の先生の瞳は、穹の角度からはまつ毛に隠れて見えなかった。
「穹。過去に戻りたいって思ったことはある?」
「ないよ。ぼくの人生は、先生に出会ったときから始まったみたいなものだから」
「そんなことないって」
「ある」
真面目に答えたつもりだったが、先生には何かがおかしかったらしく、目尻に皺を寄せ、口元を綻ばせた。
「そっか」
「先生は?」
「過去に戻るとしたら、デシリアになる前かな。穹……わたし、デシリアになったことに、後悔はないよ。でもね、もし……もしも、過去に戻れるのなら……。わたしはもう、デシリアにはなりたくない、かな」
「え、でも先生がデシリアにならなかったら、ぼくとは出会えなかったんじゃない?」
先生は顔を上げ、少し驚いた顔を見せた。それから、いつものような優しい微笑みを作った。
「確かに、そうだね……。ごめんなさい。穹には、会いたいな」
そのとき、自動ドアが開いた。
そこにいたのは、地面に這いつくばるようにして倒れている、ボロボロの猫のぬいぐるみ。ペルシャ柄の美しい毛並みは土で汚れ、身体にはいくつもの傷が走っていた。首元からは中の綿まで覗いている。
「ロイ! どうしたの!」
先生は地面に膝をつき、その膝の上に、ロイをそっと乗せた。
「……私が偵察していたことなど……ヒナには、ずっと前から気づかれていたようです。……その上で、泳がされていたらしい」
「え」
「ヒナめ……。たいした訓練もしていないくせに、私の気配に気づくほどの……力を、つけていたとは……」
ロイは苦しげに言葉を続けた。
「リアマイムとリアシエルを、連れて来い、とのことでした。……しかし、行く必要は、ありません……。連れてこなければ——」
ロイは、その先を言わなかった。それが何なのか穹には分からなかったが、自分と先生の命よりも、ずっと大きなものを天秤にかけられたことは、容易に想像できた。
部屋に重い沈黙が落ちる。
それを打ち破ったのは、先生の静かな一言だった。
「……分かった」
その声は震えていたが、その奥には、確かな覚悟と静かな怒りの炎が、宿っていた。
「わたしが、ひとりで行く」
「そんな! 危険すぎます! 彼らは全員で待ち受けているのですよ!」
「分かってる。それでも、行きたいの。もう一度、瑞季たちと話したい」
「ぼくも、一緒に行く!」
「ダメ」
あまりにも短く、有無を言わせぬ拒絶だった。こんなふうに先生に否定されたのは、初めてだった。
先生は続ける。
「その代わり、頼みがあるの」
「頼み?」
「わたしが彼らを引きつける。きっと勝てないと思う。けど、どうにかして時間を稼ぐから……。ロイと穹には、その隙に、タイムマシンで過去に飛んでほしい」
「えっ!?」
先生は穹の両肩を強く掴んだ。
「穹……もしわたしが負けたときは、タイムマシンで瑞季がリアハイリンになる前へ行って、逃げてほしい。きっと彼らもついてくるけど、慎重な瑞季のことだから、ヘヴンという敵がいる中で、あまり表立った行動はしないと思うの。その制限のある状態なら、比較的逃げやすいと思う。そして、もし可能なら、当時の瑞季たちを味方につけてほしいの。彼女たちなら、ヴォイズ・アークにも立ち向かえる」
あまりにも壮絶な作戦に、穹もロイも、ただ呆気に取られていた。
「そんな……無茶苦茶です」
「でも、他に手段はないでしょ」
「それは……そうですが」
「ロイ。タイムマシンの操作方法は確認してきた、って言ってたよね」
「はい」
「それなら、ばっちりね」
先生はロイに微笑む。ロイは、何も言い返せなくなっていた。
「穹。あなたは、瑞季を憎んでいるでしょ?」
「うん。だって、先生を苦しめてるんだもの」
かつては世界を救うために戦ったのに、今は世界を破滅させるために先生を裏切っている、リアハイリンとリアスピサ。その名前を聞くだけで、胸の奥に黒い炎が灯るほどだった。
強く握りしめられた穹の拳を、先生の柔らかい手が包み込んだ。
「闇に染まってしまう前の彼女を、しっかりその目に焼き付けてほしい。瑞季を、どうか憎まないであげて……」
先生の記憶にある、かつての染谷瑞季がどんな存在か。それを見たいと思ったことは何度もあった。でも、やっぱり見たくないと思った回数は、それより一回多い。
人がそれほどまで変わってしまう生き物なのだと、信じたくなかったから。
そのとき、先生の膝の上のロイが、その膝から飛び降り、先生を見上げた。
「リアマイム。私も、あなたと共に戦います」
ロイはきっぱりと言った。
「彼らはあなたを倒した後、穹さんを追って過去に飛ぶでしょう。ならば、あなたと私が力を合わせることで、奴らの誰かひとりでも打ち倒す可能性を上げるべきです。その方が、穹さんのためになる。タイムマシンの操作方法については、同化で共有しましょう」
ロイと同化の実験をし、見事成功したことがあった。そのときはロイの知識が穹に共有され、さらに穹の術の熟練度が上がったのだった。
その提案に、先生は「ダメよ」と首を振った。
「穹がひとりになってしまう」
その言葉に、穹は想像してしまう。誰ひとりとして知り合いのいない世界に放り出される寂しさを。
穹の震えを、ロイの一言が止めた。
「穹さんには、ヒナに会いに行ってほしい」
ロイは、穹へと向き直る。
「当時のヒナであれば——リアハイリンの白感情エネルギーに強く影響を受けた直後のヒナであれば、味方になってくれるかもしれない」
ヒナとは一度だけ顔を合わせたことがあった。とてもじゃないが、話が通じる相手だとは、思えなかった。
その穹の思考に気づいたのか、ロイはさらに、力強く言った。
「穹さん。私を信じてくれ」
ロイの眼差しには、有無を言わせぬ強さがあった。いつも優しいロイのそんな表情を見たのは、初めてだった。
そして、思い出す。ロイの記憶の中にいる、おだやかで無垢なヒナの姿を。
「……分かった。ヒナに会いに行ってみる」
「よし。では、同化の準備をしよう」
「うん」
ロイがふらふらと宙に浮く。そのボロボロの身体を、穹がそっと抱えた。
「無理はしないで」
「ありがとう……穹」
穹は深呼吸をする。前回の同化は、元に戻るのが大変だった。あれをもう一度繰り返すのかと思うと、それを嫌がる自分もいる。
でも、やるしかない。
意を決し、部屋を出ようとしたとき、
「……穹」
先生が彼女の背中に声をかけた。
穹は振り返る。先生はしゃがんだ姿勢のまま、穹と目線を合わせる。先生の優しい瞳には、潤んでいた。
「もうひとつだけ、頼みがあるの。これは、本当に最後の最後、どうしようもなくなったときのための賭け。瑞季を救うための、最後の希望——」
ロイと同化し、タイムマシンの操作方法が共有された後、彼女たち三人は風除室の転移装置の前に来ていた。これから先生とロイがヴォイズ・アークのアジトに飛び、時間を置いて自分も飛び、隠れて戦況を見守ることになる。
先生もロイも、緊張した面持ちだった。ふたりとも、勝てるとは思っていない。しかし、行かなくてはならない。
胸が締めつけられた。
怖い。いやだ。置いていかないで。
先生のいない世界なんて、ありえない……。
怯えていると、頭に重みを感じた。先生の手だ。
「夜空、綺麗だね」
「え?」
先生は小窓から夜空を見上げていた。
穹も、先生に並んで見上げる。
——天の川って、先生とぼくみたいだね。
ある夏の夜の会話が、自然と思い出された。
——どういうこと?
——空に流れる水。空と水。ぼくと先生。
穹は、小窓に浮かぶ小さな夜空から、天の川を探していた。
「天の川、見えるかな」
「どうだろう。冬でも見えるらしいけど、夏ほどは見えないみたいだしなあ。うーん、方向はあってると思うんだけど、よく見えないね」
「ぼくには、見えるよ?」
「どこ?」
「ぼくの心に」
穹と先生は顔を合わせ、同時に吹き出した。
いつもの日常のように笑い合う。この「いつも」は、もう二度と訪れないかもしれない。
「穹」
ひとしきり笑い合うと、先生は穹の手をしっとりと掴んだ。
そして、深い息を吐いた。
「これからわたしは、リアハイリンとリアスピサを説得しに行く。できなかったら、刺し違えてでも——」
うつむく先生の声は、心を押し殺しているみたいに平坦だった。何より、先生がリアハイリンたちを本名ではなくデシリアとしての名前で呼ぶのは珍しかった。
彼女はもうひと呼吸した後、顔を上げた。
覚悟のこもった目で、穹を見つめる。
「わたしが倒れても、あなたならきっと瑞季を救える。つらい運命を背負わせて、ごめんね」
彼女の目尻から、雫がこぼれ落ちた。
「先生……」
込み上げてきた涙を、穹も抑えることができなかった。ぐしゃぐしゃの顔で、穹は精一杯、想いを伝える。
「泣かないで、先生! 先生が助けてくれたあの日からの毎日が、ぼくの宝物だった……。だから絶対に、負けない! ヴォイズ・アークの思い通りになんか、ぼくがさせない!」
気づけば、ふたりで強く抱き合っていた。涙が止まらなかった。
どれくらいそうしていただろうか。ずっとこうしていたい。
しかし、先生は、穹の身体から手を離した。
そして、その手を名残惜しそうに振る。
「じゃあね、穹。……いってきます」




