第三十五話「秋空より、天の川へ」-4-
「紹介したい人がいるの」
先生と出会って三年が経った頃。合気道の稽古のため先生の家に行くと、先生が神妙な面持ちを見せた。
「紹介したい人?」
「うん。でも、よく考えてほしいの。その人に会ったら、あなたは今まで通りの人生に戻れなくなるかもしれない。だから、今の人生が幸せで、それを捨てたくないのなら、断ってほしい」
小学校六年生になったばかりの穹は、先生が、穹をその人に会わせたがっていると思っていた。だから穹は、先生の忠告をよく理解できないまま、「うん! 会うよ!」と答えた。
しかし、このときのことを思い返すたび、穹は思う。先生は、断ってほしかったんじゃないかと。ひとりで肩に背負っていたものを、このまま自分ひとりで背負い続け、誰も巻き込まずに済ませたかった。それでもなお、穹へ提案しないといけないほど、先生は精神的に追い込まれていたんじゃないか。
そのことを思うと、胸が痛かった。
稽古もせず、先生と穹は出発した。
連れて行かれたのは、駅の裏にある薄暗い駐輪場だった。
「驚いてもいいけど、あまり声を出さないでね」
「え?」
先生は、壁の継ぎ目にそっと手を触れた。すると、先生が触れたところが外側へとスライドした。その奥には、青白い光を放つ小さなパネルが埋め込まれた、金属製の装置が現れた。
「なにこれ」
「この世界にはない、未知の科学技術で作られた転移装置なの。ちょっと遠いところに、一瞬で行けるのよ」
先生がパネルを操作すると、装置全体が低い唸り音を上げ、青白い光が強さを増した。その光が、先生と穹の身体を包み込み、視界が白く染まった。すると、無重力空間に放り出されたような、不思議な感覚に陥った。不思議なのに、なぜか心地よかった。
気がつくと、穹は見慣れない空間に立っていた。冷たい金属の壁に囲まれた、六畳ほどの広さの風除室だ。先生の頭よりも高い位置にある小窓からは、夕空が見える。先生の手元には、先ほどの装置と同じ装置が、夕焼けに照らされていた。
「驚いた?」
「う、うん」
先生の声色は、どこか硬い。
機械のある面の右側にある、金属製の扉に先生が近づくと、その扉が左右に開いた。
その先にあったのは、広く、寂しい空間。純白の石で作られていたその場所には、不気味なほど生活感がない。
先生は右奥へ向かう。そちらには、白いソファとテーブルのセットがふたつ配置されており、そのテーブルのひとつの上には、ペルシャ柄の猫のぬいぐるみが置かれていた。
「ロイさん」
先生がそのぬいぐるみへ声をかける。穹が首を傾げたのと、ぬいぐるみが動いたのが同時だった。
「ご無沙汰しております、リアマイム」
紳士的な声だった。その声は猫のぬいぐるみから聞こえる。頭を下げる猫のぬいぐるみの所作は、どこか上品に見えた。
あまりに非現実的な光景だが、不思議と穹は驚かなかった。猫のぬいぐるみが動くなんて夢にも見たことはないが、なぜか、怖くなかった。
「りあ、まいむ……?」
穹は先生の背後から服の袖を掴み、彼女の顔を見上げる。
先生は、困ったような恥ずかしがるような、複雑な微笑みを浮かべていた。
「そちらが、例の」
ロイと呼ばれた猫のぬいぐるみは宙に浮き、穹に目を向けた。
「うん」
穹は、ただぼんやりと、宙に浮かぶ猫のぬいぐるみを見つめていた。その瞳には恐怖も驚きもなく、純粋な好奇心に満ちていた。
ロイは、そんな彼女の反応に、少しだけ安堵したようだった。そして、空中で優雅に一礼する。
「お初にお目にかかります。私はロイと申します。さぞ驚いていらっしゃるとは思いますが……すべて説明いたします。さあ、どうぞ。こちらにお掛けください」
ロイの対面のソファに、先生と穹は並んで腰掛けた。
穹は右手側の窓の外を見る。
深い森が広がっていた。駅のすぐ裏手にある駐輪場とは思えない。穹はようやく、本当に自分が瞬間移動をしたのだという実感を得ていた。
「まず、詳しくお話しする前に、ひとつ試したいことがあります。こちらを」
ロイがそう言うと、そのぬいぐるみの口の下あたりから、ひとつの宝石が出現し、宙に浮かんだ。
深い空色のラウンド・ブリリアントカット。まるで、大きなダイヤモンドを、そのまま青く染め上げたかのように美しい。夕焼けの光が小窓から差し込み、その宝石に複雑な光の反射を生み出していた。それは、現実離れした幻想的な輝きだった。
その石に、穹の目線は釘付けになった。胸がドキドキするほど、強く惹かれていた。今まで宝石になど興味を持ったことなど、一度もなかったのに。
「触ってみますか?」
「う、うん」
ロイは、テーブルの上に、そっと石を置く。穹はごくりと喉を鳴らし、おそるおそる小さな手を伸ばした。
指先が宝石に触れた瞬間。
青い宝石が内側から発光し、眩い輝きを放った。
「!」
その石は、まるで永い眠りから目覚めた姫のように見えた。ようやく自分のご主人様を見つけ、喜んでいるように。
そして、その宝石が自分を選んだのだと、穹は何の疑いもなく確信していた。
宝石の光がゆっくりと収まっていく。光が消えてもなお、その姿は、穹に触れる前よりも明るい色に見えた。
「間違い、なさそうですね」
ロイの厳かな声。先生は穹の隣で、固唾を飲んで頷いた。
「……五百年前の伝承にある『変身せずとも、精霊の力を使うことができた者』は、やはり実在したようです」
「つまり、穹がわたしたちの最後の希望……」
穹が首を傾げた、そのとき。
突如、入り口の金属の扉が開いた。
先生は瞬時に立ち上がり、穹を庇うように構える。
穹も咄嗟に振り返っていた。開いた扉の間に立っているのは、白いシャツと黒いショートパンツを身につけた女。先生よりも年上に見える。
「磐名さん……!」
「やーっと見つけたよ、ロイ」
磐名と呼ばれた女は、大袈裟に肩をすくめた。
「空の邦の財宝を持ち逃げしたって聞いて、ずっと探してたんだよ? どっかの誰かに宝石だけ盗られて、ゴミ収集車にでも投げ捨てられたんじゃないかって、心配してたんだ。安心したよ」
磐名の視線が、穹を捉える。
「そのガキが、空のデシリアか」
「……」
沈黙する先生とロイに、磐名はフンと鼻を鳴らす。
「さっきの光は、デシリル・ジェムが持ち主を見つけた証だろ? おめでたいねえ。わざわざアタシたちのために、探してくれたんだ」
磐名は、にやりと笑う。
「小学生か? 凪宮琥珀に続いて、ガキがもうひとりいるとはな」
「凪宮琥珀?」
穹は思わずその名を口にしてしまう。その名前に覚えがあったから。
「それって、一組の、凪宮くん?」
「あれ? あのクソ生意気ぼっちゃんの知り合い? へえ、じゃあ、アンタの素性は簡単に調べられそうだな」
背筋に、ゾッとしたものが走る。今、自分は決定的な失言をしたのだ——。
磐名は指の骨をポキポキと鳴らした。
「ヒーローの変身は待ってやるのがマナーだろうが、アタシには関係ないね。変身される前に、動けなくなるまでボコボコにしてやるよ」
「させません!」
ロイが術を放とうとする。
だが、その力は発動しなかった。
「なっ……!?」
「アンタらがチンタラ話してる間に、この部屋に精霊の術封じの結界を貼らせてもらったのさ。ルフィトヴェルツェのジジイも、悪趣味なもの考えるよな。ちなみに、デシリアの力は使えるよう調整してある」
磐名は、トン、とつま先で地面を叩いた。
その途端、かすかに地面が揺れる。
そして、これから先生の足元から何かが現れる——なぜか、そう確信した。
「先生!」
咄嗟に、先生へと手を伸ばし、飛びつく。
その瞬間、先生と穹の体を、青い渦が包み込んだ。
「!?」
誰もが、その意味を理解できないでいた。
先生と穹は、その渦の中へと飲み込まれる。
咄嗟に、ロイもそこへ飛び込んだ。
地面から飛び出してきた土の蛇が、ロイの後ろ足を刈り取った。
そして、青い渦が消える。
そこには、虚無へ向かって飛んでいく土の蛇と、無残にちぎれたぬいぐるみの後ろ足だけが、残されていた。
三人が飛ばされたのは、この施設の別の一室だった。
「ロイ!」
先生が心配そうに叫び、ロイの身体に手を触れる。
「大丈夫です……。空を飛べる我々にとって、足はそれほど重要ではありませんので。それより——」
先生とロイは、同時に穹へと顔を向けた。
「今のは、君が出したのかい?」
「えっと……ぼくにも、よく分からなくて」
「そうか。咄嗟に出たんだね。時折、心の声を彼女に届けていたように」
「え?」
ロイは先生に視線を向ける。先生は頷き、穹へ語り始めた。
「穹と組み手をしているとね。穹の声が心の中に直接聞こえてくることが、ときどきあったの。ほとんどの場合は、咄嗟の危ないときに。やっぱり、自覚はない?」
「ない……。あ、でも」
父親を最後に見たときの光景が、穹の脳裏に鮮やかに蘇る。
——どうして突然、心の中でおまえの声が聞こえるんだ……! おまえは、俺に何をしているんだ……!
「もしかして、父さんがぼくの心の声を盗み聞きしてたんじゃなくて、ぼくの声が勝手に漏れて……」
先生が静かに頷いた。
「その声の感じが、スレイヴっていう怪物の心の声に似ていて。それがロイたち精霊由来の力だって聞いたことがあったから、ロイに相談してみたの」
「相手の心に直接語りかける能力は、空の邦の精霊の、高度な魔法のひとつなのです。そして……ときどき、いるのです。なんの訓練もせずにその能力を身につけていて、無意識に使ってしまう子が。実は、幼少期の私もそうだったのですが」
ロイを初めて見たとき、不思議と穹は驚かなかった。それどころか、むしろ懐かしい感覚すらあった。それは、彼女が潜在的に精霊に近い存在だったからなのかもしれない。
「穹」
先生が、穹の肩に優しく手を乗せた。
「デシリル・ジェムは、全部で七つあるの。そのうち五つが、すでに彼らの手中にある。残りのふたつを、あなたと私が持っている。このふたつまで彼らに渡ってしまったら、この世界は彼らに壊されてしまうの」
「世界が、壊されて……?」
「うん。信じられないかもしれないけど、おそらく本当のことなの。……どんな理由があれ、幸せに生きている人たちの命まで奪う行為が、許されるはずなんてない。だから、協力してほしいの。わたしたちと一緒に、この世界を護りましょう」
穹の胸の中に、温かい何かが芽生えた。
彼女は思う。
先生に救われなければ、今ごろ自分は、この世界にいなかった。
この人がくれた人生を、今度は自分の手で守りたい。
「……分かった」
穹は、その小さな両手で、先生の手をぎゅっと強く握る。
「ぼくは、先生の力になりたい。先生を護りたい!」
決意を口にした瞬間、穹の胸の前の何もない空間から、一枚の白い板状の何か——デシリル・アンプが、光と共に現れた。
宙に浮かぶそれを、穹は驚きながらも、そっと手に取った。
それを見つめる先生が、視界の端に映る。どこか、悲しげな表情だった。




