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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第三十五話「秋空より、天の川へ」

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第三十五話「秋空より、天の川へ」-2-

 小学校三年生の頃の穹の世界は、いつも薄暗い夕焼けの中にいるようだった。

 初冬の夜、暖房もつけずにリビングのこたつに入り、穹は算数の宿題をしていた。暖房をつけないのは、その音すら不快がる父から、自分の気配を悟られないため。

 家に満ちるのは、冬のひんやりした空気と、酒の匂い。襖の向こうからは、父がコンビニのラーメンをすする音と、アルミ缶のお酒を乱暴に飲む音が断続的に聞こえてくる。麺をすする音に混じって、スープが飛び散る気配がする。缶の中身も、あちこちにこぼしているのだろう。

 後で拭かなきゃ——。

 算数の宿題を進めながら、そう思う。ワークブックの最後の問題に手をつけようとしたとき、複数の缶が乱雑に倒れる音がした。

 ……ああ、今日も始まるのか。

 襖が開けられ、父がリビングに侵入してくる。肩を掴まれたかと思うと、世界が揺れ、後頭部に鈍い痛みが走った。

 唾とニンニクの匂いが混じった吐息。怒鳴り声。痛み。畳の匂い。

 ——おまえは俺の子でもあいつの子でもない! おまえは誰の子なんだ! なんで俺が他人の子の世話なんてしなくちゃいけないんだ!

 その叫びだけは、いつも聞こえてしまう。

 ずっと昔に亡くなった母の顔は、おぼろげにしか覚えていない。記憶の中にあるこの家庭の思い出は、父の歪んだ顔と、殴られるたびに広がる鉄の味ばかり。

 両親と自分の血が繋がっていないことは、物心がついたときから知っていた。でも、穹にとって唯一の家族は、このふたり。血が繋がっているとか繋がっていないとか、そんなのはどうでもよかった。父も母も、穹を実の子のように愛情を持って育ててくれていた——はずだった。母が亡くなるまでは。

 変わってしまった父のために自分にできることは、黙って耐えることだけ。

 ……いっそ死ぬことができれば、養育費を抑えられて、この人はもう少し幸せになるんじゃないかな。死ぬのって、怖いのかな。痛いのかな——。

 そう思ったとき、振りかぶった父の拳が止まった。

「……母さんだって、死ぬときは、痛くて怖かっただろうな……」

 心の声と父の反応が噛み合った。

 これは初めての現象ではなかった。こうして暴力を振られているときには頻繁にあったし、そうでないときも、何度か記憶がある。

 父は自分の心が読める。

 穹はそう思っていた。この家には、心の中でさえ自由はない。

 諦観したとき、頬に熱い痛みが走った。父はいつも、服で隠れて見えないところしか殴らないはずだったのに。

 視界がリビングの方へ向かされると、テーブルの上に転がる三つのロング缶が床に落ちた。そのすべてに『STRONG』の文字が見える。それが、普通のお酒よりもアルコール度数が多いことを示す印だと、穹は最近気づいた。三缶すべてにその印があるのを見たのは、この日が初めてだった。

「……っ!」

 いつもと違う恐怖が、背筋を這った。

「や……めて……」

 かすかな声は、頬を叩く音にかき消された。

 ぼやけた視界の中、父の手が、ゆっくりと握り拳に変わっていくのが見えた。

 死の音が、はっきりと聞こえた。

 こんな人生、いつ終わってもいいと思っていた。

 しかし、その音をいざ聞くと、猛烈な恐怖が全身の細胞を震わせた。

 また、死にたくない——。

「いやあああああ!!」

「黙れ!!」

 父の叫びが反響し、それが空気に溶けきると、部屋には沈黙が訪れた。父の息切れだけが耳に入る。その呼吸音は、激しく震えていた。

 それは、穹が初めて見る父の怯えだった。

「おまえのそれは……何なんだ」

「え……?」

「どうして突然、心の中でおまえの声が聞こえるんだ……! おまえは、俺に何をしているんだ……!」

 父が何を言っているか、穹には、まるで分からなかった。

「おまえなんて、人間じゃない!!」

 父が叫び、拳を一段と高く振り上げたとき、

 ——ドン。

 まるで鼓動のような音が、彼女の左耳に入った。

 ふたりは、同時にそちらに目を向ける。

 庭に続く掃き出し窓のカーテンの隙間から、こちらを覗く女性の顔が見えた。

「だ——」

 父が叫ぼうとした瞬間、女性は肘を窓の隅付近にぶつけ、窓を破った。

 女性は窓から手を入れ、クレセント錠のハンドルを下げる。窓が勢いよく開くや否や、女性が部屋に飛び込んできた。長い髪がひるがえり、光を受けてきらめく姿は、物語の中から飛び出してきたヒーローのよう。

 その影は、父を押し退けるように蹴り飛ばした。

 ふっ、と身体が軽くなったかと思うと、穹は女性に持ち上げられる。

「待て……警察呼ぶぞ……!」

 父の脅しが聞こえるが、アルコールに脳を支配された彼は、もはや起き上がることもできない。女性はひるむことなく、穹を抱え、窓から飛び出した。

 穹は呆然としたまま、その人の腕の温度を感じていた。

 温かい。柔らかい。

 身体の震えが次第に治まっていく。

 どれくらい走ったか分からなかった。少しずつ女性はブレーキをかけていき、ついに立ち止まる。

「やっちゃった……絶対に犯罪だよね……」

 そうはにかむ女性の顔は、街灯で逆光になってよく見えなかった。ただ、女性がまったく息を切らしていなかったことは、この先もよく覚えていた。

「もう、大丈夫だからね」


 その後、父の暴力は明るみに出た。父は女性の不法侵入について警察に通報したが、事情が事情であったため、お咎めなしとなり、女性も穹も、ほっと胸を撫で下ろした。

 普通なら、穹は田舎に住む親戚に引き取られることになる。だが、彼女は泣いて嫌がった。

 自分を助けてくれたこの人のそばにいたい。薄暗い夕焼けの色をした人生に風穴を開けた、あのかっこいい女性みたいになりたい。

 必死の願いは届いた。穹は児童養護施設で暮らしながら、週に何度かその人のもとへ通った。そして、自分の身を守るために、合気道を教えてもらうことになった。

「いってきます!」

 そう言って、道着を背負いながら施設を飛び出し、大好きな先生に会いにいく彼女の顔には、かつての暗い影はもうなかった。

 このときの穹は、この平穏が三年しか続かないことを、知る由もなかった。


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