第三十五話「秋空より、天の川へ」-1-
空のデシリア、リアシエルが降臨した。
深い青をまとったその姿は、可憐でありながら、果てのない空を思わせた。鏡に囲まれた閉ざされた空間の中で、彼女だけが、どこまでも自由に羽ばたけそうな気配を放っている。
「リアシエル……お手並み拝見だな」
黒瑞季は興味深そうに口の端を吊り上げていた。
「ナーサ、ヒナ。ぬかるなよ」
「はいよ」
「もちろんニャ」
一方、リアハイリンとリアシエルはアイコンタクトだけで互いの意志を確認する。
反撃のときだ。
「行くよ、シエル!」
「もちろん! ハイリン!」
ふたりは、同時に駆け出した。
空のデシリアを見るのは、黒ヒナにとって初めての経験だった。
どれほどの力を秘めているのか、判断材料はない。
精霊とデシリア。その力の差は通常なら歴然だ。しかし黒ヒナは、空の邦の精霊として誰よりも高度な力を持つ。
負けるつもりはなかった。
黒ヒナはステルス能力でその姿を消した。そしてナーサへ向かうリアシエルたちの背後に回り込む。ステルス能力では完全に消えるわけではない。だが、鏡だらけのこの空間では、そのわずかな気配を捉えるのは不可能に等しい。
背後から気圧操作を出そうとした瞬間、
《全部、見えてるよ》
黒ヒナの心にリアシエルの声が響いた。
「ニャ!?」
黒ヒナが驚愕の声をあげたとき、彼の頬には、すでにリアシエルの足首が当たっていた。彼女の回し蹴りにより黒ヒナは勢いよく墜落し、床に叩きつけられていた。
《あなたにできることは、ぼくなら全部できる》
リアハイリンの拳を、ナーサが腕で受け流す。
その返す刀を、今度はリアハイリンが身を沈めて躱した。
蹴りが交わり、拳がぶつかる。
その度に、腕や脚が重くなっていくのを感じる。その違和感に気づいたとき、彼女はすでにナーサに背後を取られていた。
「!?」
そして、リアハイリンの背中に、ナーサの肘が撃たれる——と思った矢先、ナーサの攻撃の軌道が外へ逸れ、空振った。
「なっ」
ナーサはリアシエルへ目を向ける。リアシエルがこちらに手を向け、にやりとほくそ笑んだ。
「こざかしい真似を……!」
その瞬間、ナーサの肩に強力な重みがのしかかる。彼女の動きが止まった一瞬。リアハイリンの蹴りが、確かに彼女の胸元を捉えた。
ナーサは、リアハイリンの背後の鏡に、自分自身でもリアハイリンでもない姿を見た。それは、寂しそうにナーサを見つめる、かつてのジン。
「……!」
その偶像に釘付けになった彼女に、リアハイリンの蹴りに耐える余力はなかった。偶像を見つめたまま、背後へ吹き飛ばされる。
そして、ナーサの背後にはリアシエルによる亜空間の渦があり、後退させられた彼女はそこに飲み込まれ、姿を消した。
「ナーサなら、ここから遠いところに飛ばしてあげたよ」
心の中にある昂りと喜びから、リアシエルの言葉が自然と速くなる。
やっと、瑞季と肩を並べて戦えるニャ——。
嬉しくて、口元が緩みそうになる。秘密は最後まで隠し通すつもりだったが、本当は最初から隠す必要なんてなかったんじゃないかとさえ思えてしまう。
だが、気を緩めるのはまだ早い。
リアシエルは深く呼吸をし、感覚を研ぎ澄ませる。彼女の目には、リアハイリンたちよりも、はるかに正確な景色が見えていた。鏡に映された虚像に捉われない真実の景色が、手に取るように分かる。
そして、この空間に一枚だけ存在する、異質な鏡を見つけ出した。
彼女の頭上の猫耳が、ぴくりと揺れる。
「右斜め前の鏡にハイリンが三人いるけど、その左端だけ、左右が逆! ついてきて!」
リアシエルはその鏡へと向かって一直線に駆け出した。リアハイリンも、すぐにその後を追う。
無数の鏡の柱の間を、ふたりの少女が、光の矢のように駆け抜けていく。
だが、その行く手を、黒い影が阻んだ。
「そう簡単には、させないぞ」
出口の鏡の前に、黒瑞季が立ち塞がる。
「任せて!」
リアシエルはデシリル・ジェムから力を引き出し、空色の暖かい力を、その身の内に満たしていく。
「『黒き感情、虹となれ』」
彼女の身体が、ほのかな虹色に輝き始めた。
リアシエルは、まるで何かを優しく包み込むかのように、両手を胸の前で合わせる。
その手のひらの間に、空のデシリル・ジェムの力が凝縮され、眩いばかりの澄んだ空色の光球が生まれた。
「『デシリア・アズール・ゲイル!』」
その光球に吐息をかけ、前方へと、そっと押し出すように解放した。
ゆっくりと進み始めたそれは、リアシエルの手元から五十センチ離れたところで突如として猛スピードとなり、黒瑞季へまっすぐ向かっていく。
「!」
黒瑞季は、それを正面から両手で受け止める。高速でジャイロ回転するその空色の球は摩擦熱を発しながら、みるみる大きくなっていく。周囲に虹色の風が吹き荒れ、黒瑞季の身体を包み込んでいく。
そして、球は爆散し、辺り一面に虹色の衝撃が広がった。
そこから湧き上がる白い煙に、とある景色が映画のスクリーンのように映し出された。
それは、中学校の教室。いたって日常的な授業風景だ。
その静かな風景の中、突然「あー! 暇だニャ!」と声が響き、画面がびくりと揺れる。突如、机の横に下げていたバッグが宙に浮き、教室の中を暴れ始めた。
「ちょ、ちょっと!」
視点の主は立ち上がり、自在に飛び荒れるバッグの中にいるヒナへ手を伸ばす。その声は、瑞季のものだ。
子供向けアニメの妖精よろしく、わがままなヒナに困惑する瑞季とそのクラスメイトの慌てた声が、白い煙と共に、空気に溶けていく。
リアハイリンは、立ち尽くしていた。確かにあそこに映っていたのはヒナだ。しかし、彼女の記憶に、そんなシーンはない。
あれは、別の世界線の瑞季の思い出。
「ハイリン! 行くよ!」
リアシエルの声に、ハッとする。彼女たちは消えかかる煙の向こうの出口に向けて駆け出していく。
地に左膝をつける黒瑞季のシルエットが見えた。その影を、ふたりは飛び越えていく。
「ふっ……。面白くなってきたな」
黒瑞季の声を背に、ふたりは左右反転した鏡に飛び込み、現実世界へと引き戻された。
戦いが終わり現実世界——帰宅途中の人通りの少ない路地へ、瑞季は戻ってきていた。来たときと違うのは、隣にパーカーを着た背の低い少女が立っていること。
「出られた……ぼくらは、勝ったんだ」
呆然とそう呟く穹を、瑞季はぎゅっと抱きしめた。
「穹ちゃん!」
「ちょ、ちょっと! 離しなさい!」
穹は瑞季を引き剥がそうとするが、瑞季は剥がさなかった。
「ほんとによかった……。でも、ごめんね。私のせいで穹ちゃんの隠れ場所が……」
その言葉を聞き、穹は抵抗を止めた。
瑞季は思う。自分が抱きしめている少女を、自分は穹という少女として見ているのだろうか。それとも、ヒナとして見ているのだろうか。
どちらなのか、瑞季自身にも分からなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。かけがえのない友が増えたのだから。
そんな瑞季の胸元に顔を埋ずもらせながら、穹も瑞季の腰に、そっと手を回した。
「ううん、気にしないで。ぼくはともかく、ヒナは喜んでるよ。もう、何も隠しごとなんてせずに一緒にいられる、って」
抱きしめる力を緩め、穹の桃色の髪の頭を見下ろす。
「素直じゃないなあ」
「な、何が!」
ツンとした態度で瑞季を見上げる穹へ、瑞季はそっとその手を差し出した。
「え」
「これからもよろしくね、穹ちゃん」
穹は恥ずかしそうに俯いた。その顔は真っ赤で、それを隠すように彼女はフードを深く被る。それから、その手を固く握り返した。
「……こちらこそ。ぼくに後悔させないでよね」
「うん。絶対にさせないよ。私を信じてくれて、ありがとう」




