第三十四話「ふたつの空、重なる心」-6-
瑞季が初めてデシリアになった夜。
彼女が家族と夜ご飯を食べたりお風呂に入っている間、ヒナは部屋でひとりだった。退屈だったので夕方から眠っており、そのまま夜を迎えていた。
「ヒナ、起きて」
ふと、少女の声が聞こえた。
「むにゃにゃ……」
ヒナはゆっくりと瞼を開ける。まだまだ眠り足りない思いだった。
外灯の淡い光だけが、部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。その薄暗闇の中に、誰かがいた。
「瑞季かニャ?」
そう問いかけたとき、ヒナは気づく。瑞季であれば、どうして電気をつけていないのだろうか。それに、さっきの声は、瑞季のものとは違う。
「だ、誰ニャ?」
振り返ると、誰かの影があった。かすかな外の灯りで、空色のフードを被った足の細い少女がしゃがんでいるのが見えた。
「ぼくは、神辺穹」
知らない名前だった。
ヒナが警戒を強めるのを感じ取ったのか、穹はゆっくりと続けた。
「あなたはぼくのことを知らないだろうけど、ぼくはあなたや染谷瑞季のことを知っている。そんなに詳しいってわけじゃないけどね」
染谷瑞季のフルネームは、当時彼女を唯一目にしたヘヴンの傭兵メルキーヴァすら知らないはずだった。ヒナの警戒心は、ますます強くなる。
「何者だニャ?」
「怪しむのは分かる。でも、どうか、ぼくを手伝ってほしい。早くしないとぼくがここにいることが染谷瑞季に気づかれてしまう。そうなってしまったらおしまいだから」
「おしまい、って?」
穹は、何かを堪えるように、ぎゅっと唇を噛んだ。
「今のあなたなら、救えるかもしれない。染谷瑞季を」
「どういうことだニャ? 何も分からないニャ。ちゃんと説明するニャ」
「うん。先生たちの言ってた通り、あなたなら、まともに話ができそうだね」
儚い声だった。触れるとポロポロと崩れてしまいそうな繊細な音色。
穹は、意を決したように、ヒナの目の奥へ力強い眼差しを向けた。
「ぼくは、未来から来た」
冗談かと思った。しかし、その声色は、冗談のそれではない。
「何を言ってるんだニャ。未来から来るなんて、精霊でもできないニャ。ましてや人間になんて……」
「あなたたちが闇の邦と呼ぶ世界の未来の技術と、デシリアの力を使えば、それが叶うの」
「よく分からぬが……おぬしは、デシリアを知ってるのかニャ?」
「うん」
神辺穹は羽織っているパーカーのファスナーを胸まで開き、手を入れる。そこから何かを取り出し、ヒナの前に手のひらを置く。そこには宝石があった。暗くて色はよく見えない、とヒナが思うと、神辺穹はショートパンツのベルトに挟んでいた小型の懐中電灯を取り出し、その宝石を照らした。
空色の光を見た瞬間、ヒナの表情が変わった。
「これは! 空の邦のデシリル・ジェム!」
空色に輝くそれを、空の邦の王子たるヒナが見間違うはずはない。
神辺穹は頷き、おもむろに言った。
「この時空では、空のデシリル・ジェムはヘヴンが持っているはず。それをぼくが持っていることこそ、ぼくが別の時空から来た人間だって証拠になるでしょ」
穹は、その宝石を、宝物のようにそっと握りしめた。
「信じてくれる?」
信じられないと思う自分と、信じるしかないと思う自分がいた。まるで高度な手品を見せられたときのように。しかし、彼女の話し方は、奇術師のそれとは違う。
「わ、分かったニャ……。でも、どうしてそれを」
「ぼくは空のデシリア。でも、どういうわけかデシリル・ジェムを使わずとも空の邦の精霊の力が使える——『異例のデシリア』なんだ。この部屋にも、瞬間移動能力で入ってきた」
ヒナの常識を超えた話に、彼の小さな頭は混乱していた。
「そんなこと、ありえるのかニャ……?」
「ぼくにも、よく分からない。どういうわけか、そのような現象が発生した。そして、ぼくは、未来の水のデシリアや、あなたの友達のロイから術の力を教わった」
「ロイ!?」
穹は、黙って首肯して続けた。
「未来では、ヴォイズ・アークという組織が、デシリアの力を使って世界の消滅を目論んでいるの。未来では……もう、彼らと戦える人はいない」
穹は視線を落とした。
「先生も、ロイも……みんな、いなくなった」
「ニャ!? おぬしの言うことを信じるなら、瑞季はもう——」
「いいえ。ぼくを追ってこの世界にもやってきたはず」
「ニャ?」
穹は、その言葉に、深い憎しみを滲ませた。
「ヴォイズ・アークのリーダーこそ、染谷瑞季なの。未来の世界をあんなことにしたあいつを、ぼくは許さない。だから、この世界に一か八かの賭けで飛んできた。殺すためにね」
「ニャ!? そんなことさせないニャ! そんなことさせたら、ヘヴンが」
「分かってる。ぼくは迷ってるの。……彼女が初めてデシリアになった瞬間を遠くから見てね」
穹は、瑞季がいるであろう階下へと、視線を向けた。
「彼女の心には少なからず闇が芽生えているとは思うけど、まだ咲いていない。だから、ぼくは考え直した。未来を変えて、彼女を闇に染めさせなければいいんだ、って」
そして、穹はその小さな手で、ヒナの手を掴んだ。
「協力してほしいの、ヒナ。染谷瑞季を光へ導いてあげて。ぼくの知っていることならなんでも話す。だから、ぼくの知る未来から彼女を遠ざけてほしい」
その手は、あまりに小さく、冷たかった。
「ど、どうやって?」
「本来の歴史だと、火と水のデシリアが誕生するのは、一ヶ月後。その前に、別のデシリアを誕生させれば、何かが変わるはず。状況がもっと悪くなる可能性もある博打ではあるけど、必ず未来は変わる。だからヒナには、適性がありそうな、できる限り心に闇を抱えてなさそうな子を、探してほしい」
「穹は一緒に探さないのかニャ」
「この作戦は、ヴォイズ・アークにバレちゃいけない。ぼくが表立って動いてしまうと必ず妨害されるから、ぼくは隠れてないといけない。だから、この任務をあなたに託したい」
その言葉には、自分の無力さを噛み締めるような、悔しさが滲んでいた。本当は、彼女自身が表立って動きたいのだろう。
「隠れるって、どこに隠れるんだニャ」
「ぼくはあなたたちと同じように、ぬいぐるみに乗り移ることができる。この力を使えば、なんとか……」
歯切れの悪い言い方だった。
ヒナは、さらに指摘する。
「食事はどうするニャ。まさか精霊と同じように、誰かの感情をエサにできるのかニャ?」
「……そこまでは、できない。それに、ぬいぐるみに四六時中いるのも、正直厳しいと思う。……でも、ぼくは必ずやり遂げないといけない。そのためなら、どんな手段だって——」
彼女自身もこの作戦に無理があると痛いほど理解しているのだろう。それでも、他に道がないのだ。
そこで、ヒナは提案した。
「ぼくの中に一緒に入るのはどうかニャ?」
同じぬいぐるみにふたつの魂が入ることはできる。しかし、身体の操作は先に入った方が担い、エネルギーの消費も大きい。そうすることへのメリットは、何もない。
案の定、穹は首を横に振った。
「ヒナにもぼくにも負担が大きすぎる。それに、未来の染谷瑞季やヒナならその可能性は当然考える。簡単にバレてしまう」
ふたりの間に、重い沈黙が落ちる。
ヒナの頭の中に、ひとつの、あまりにも突飛なアイデアが浮かんだ。それは、究極の選択。あまりにもリスクが大きすぎて、すぐに、それを口にはできなかった。
でも、瑞季のことを、ヒーローになろうと必死に足掻く、不器用で優しい少女のことを、思うのであれば——。
ヒナは、意を決した。
「それなら、ぼくと同化するのはどうニャ?」
穹の瞳が、大きく揺れた。
「確かに……それはありかも。ロイとの同化を試したことがあるの。この実験は先生とロイとぼくしか知らない秘密。魂はひとつぶんにしか見えないから気づかれるリスクは低いし、必要とするエネルギーも同居よりは少なくて済む……」
穹は可能性を見出すが、すぐに、その顔を曇らせた。
「でも、同化してしまったら、二度と離れられなくなるかもしれない。以前実験したときは数分だけの同化だったけど、それでも出るのは大変だった。これからずっと一緒にいるなら、きっと——」
「大丈夫ニャ」
ヒナは穹の言葉を遮り、笑顔を見せた。
「おぬしさえよければ、ぼくはそれでもいいニャ」
「……」
穹は、ただ、ヒナを見つめていた。
「今日、ぼくは瑞季のことが大好きになったニャ。世界を壊すような闇になんて、飲まれてほしくなんてないニャ。そのためなら、ぼくがぼくでなくなっても構わない。自分の命を賭けてでも大切なものを護る——それが、ぼくの目指す王だニャ」
ヒナはわずかに声を震わせながら覚悟を伝える。
だが、それが恥ずかしくなってきて、目線を落として自嘲気味に続けた。
「……まあ、こんなことを言ってるけど、三日坊主のぼくは、きっと明日にはだらしなく過ごしてる気がするニャ」
穹は、ふっと笑った。
「夏休み前に、宿題消化計画を立てて二日目から寄り道する小学生みたいだね。でも、ぼくはちゃんと計画通りにやるタイプだから、同化したら好転するかも」
「ほんとかニャ?」
「うん。……ねえ、ヒナ。あなたは、まるでぼくの知っているヒナとは別人みたい。精霊は感情エネルギーに人格を左右されやすいっていうし、染谷瑞季以上に、あなたは大きな闇に飲まれてしまったんだと思う。それに……」
「それに?」
「……もしかしたら」
穹は、小さく呟いた。
「先生が言っていた方法が……」
首を傾げるヒナの手を、穹はぎゅっと握った。そして神妙な面持ちで、小声で話し始める。
「これは、本当に最後の最後、どうしようもなくなったときのための賭け。仮にあなたと同化したことが彼らにバレてしまっても、その賭けまでは辿り着けないはず。その準備が、あなたと一緒ならうまくできる気がする」
「どういうことだニャ」
「詳細は同化すれば伝わると思う」
穹は、ヒナの手をそっと離した。
「ヒナ。共に染谷瑞季を導き、未来を護ろう」
本当は、怖い。人間と同化するなんて聞いたことがないし、その後自分がどうなってしまうのか見当もつかない。ひょっとしたら、自分は消えてしまうかもしれない……。
でも、今のままの、弱くて臆病で、プライドだけは高くて、わがままで嫌われものな自分を変えるチャンスなら――ぼくは、賭けたい。
「よろしくニャ、穹」
ふたつの魂が、ひとつの未来のために重なることを決意する。
それは精霊の世界において、もっとも神聖な儀式。長年を共にしすべてを分かち合った番が、来世でも再び巡り会うために、その魂をひとつに編み上げる、永遠の契約。
穹はヒナに、そっとその手をかざした。
彼女の身体から淡い空色の光が溢れ出す。それは彼女の魂の色。
ヒナもまた、その光に応えるように、同じ色の光を放った。
ふたつの光は惹かれ合うように、ゆっくりと近づいていく。そして触れ合った瞬間、まばゆいばかりの閃光が、部屋全体を真っ白に染め上げた。
光の中、ふたつの魂が溶け合い、ひとつの新しい存在へと生まれ変わっていく。
「……うまくいったか、ニャ?」
心の中で、ヒナ自身の心とは別の心が答える。
《うまくいったみたいだね。よかった……》
そのとき、階段から誰かが上がってくる音が聞こえた。
「瑞季が上がってきたニャ」
同化した影響なのか、身体の感覚がどこかおかしい。
特に、背中のあたりが妙に痒くて、落ち着かなかった。
ヒナはふわりと宙に浮くと、カーテンレールにその背中をごしごしと擦り付けた。
ガチャリとドアが開き、瑞季が部屋の電気を点けて部屋に入ってくる。
「何してるの?」
「見て分からないかニャ? 背中を掻いてるんだニャ」
応えながら、ヒナと穹は心の中で会話していた。
本来とは違う人を、火と水のデシリアにするってことだけど、どうすればいいニャ?
《とりあえず、人が多いところに行こう》
人が多いところ? 面倒だけど……分かったニャ。瑞季についていって学校に行ってみるニャ。
《うん。お願い。クラスメイトなら瑞季と少しは接点があるだろうし、どうにか自然とデシリアに勧誘することもできると思う》
こうして、出会ったばかりの少女と王子が、未来を変えるための一歩を踏み出したのだった。




