第三十四話「ふたつの空、重なる心」-4-
ナーサの姿が揺らいだ。鏡に映る紫の影が右後方へ滑り込む。
次に見えたときには、首筋へ手刀が迫っていた。身体を捻って紙一重で躱す。
だが、着地の刹那、全身へ鉛が流し込まれたように重くなる。黒ヒナによる局所的な高気圧操作だ。
「しまっ……」
遅れた半拍を、ナーサは見逃さない。
脇腹へ膝が深くめり込み、肺から空気が一気に吐き出された。
「……っ!」
ふたりの連携に、じわじわと追い詰められていく。
ナーサの蹴りに飛ばされ、黒ヒナの気圧を抜けた直後、身体が軽くなるイメージをする。ふわりと宙を舞い、そのまま距離を取った。
何か打開策を——。
「ハイリン!」
ヒナが彼女の元へと飛んでくる。その小さな身体が、リアハイリンの肩に、そっと乗った。
その様子を、黒瑞季が冷ややかに見つめていた。それが鏡に映った像なのか本体なのか、リアハイリンには分からなかった。
「そちらのヒナは、まだまだ未熟なようだな。うちのヒナと比べたら、まるでオルタナだ」
「その『オルタナ』って何?」
「昨日、あのふたりには力づくで問いただしてみろと言ったんだが、まあいい。すでに我々の仲間になる気のないおまえに、これ以上もったいぶらせる意味はないだろう。教えてやる」
黒瑞季の声が、鏡の迷宮全体に反響する。
「本来の時間軸——つまり私の知る時空では、アスラは君たちの仲間にならない。リアウインズは生まれないのだ」
「え?」
「しかし、彼らは三人でヘヴンの撃退に成功する。……戦力が少ないのに、どうして勝てたか、分かるか?」
沈黙が流れる。リアハイリンとヒナは、眉間に皺を寄せるだけだった。
黒瑞季は続ける。その言葉は刃のように鋭く、冷たい。
「本来の時間軸のリアマイムとリアスピサが、この時間軸のリアマイムとリアスピサよりもはるかに強力だからだ」
「え? ……それって」
そこへ、懐に紫色の影が忍び込んだ。
「っ!」
低所からの回し蹴り。側頭部すれすれでそれを防ぐと、ナーサが大きく一歩後退した。
「さすがの反応だ。でも、月音優菜と高梁星輝には厳しいだろうな。水と火、それぞれの適性が低いから」
「適性?」
リアハイリンは適性というものを耳にしたことはあっても、理解はできていない。ただ、それがヴォイズ・アークや神辺穹がこの時空に来たことで、変化してしまうようなものでないことは、なんとなく分かる。
ということは——。
「本来のリアマイムとリアスピサは、優菜と星輝じゃないってこと?」
「そういうことだ。いわば、イレギュラーな代替品。それを私たちはオルタナティブ——略して『オルタナ』と名付けた」
リアハイリンは驚くも、腑に落ちる感覚のほうが強かった。
「そっか……。ってことは、未来で殺し合いをしたのは、優菜と星輝じゃなかった……」
そう思い込んでいたから、彼女は灰色に染まった。だが、真実は違った。
怒りが、突沸する。
「騙したね……!」
「フン、おまえが勝手に勘違いしただけだ」
そう言ってほくそ笑む未来の自分の顔には、愉悦の色が滲んでいる。
リアハイリンは、肩に乗るヒナへ視線を送る。
あれは、そういうことだったんだね——。
小さな相棒は、黙って黒瑞季を睨んでいた。
そんなふたりの様子を観察しながら、未来の自分は静かに口を開いた。
「疑問は湧かないか?」
「何の」
「なぜ、リアマイムとリアスピサになる者が変わってしまったか」
「それは……確かに」
「のろいやつだ」
黒瑞季は、教師が生徒に問いかけるように続けた。
「私たちや神辺がこの時空に来たことによるちょっとした変化が、時間と共に大きな変化へと変貌した——バタフライ・エフェクトという可能性もあるが、私には腑に落ちない。私たちは、時折おまえたちを観察しながら、神辺を探すことしかしていない。つまり、神辺がおまえたちに接触し、大きな変化をもたらしたと考えるのが自然だろう。そう思わないか?」
「だから、私が何か知ってるんじゃないか、って疑ってるわけね」
「ああ」
「残念だけど、私がその神辺穹って子に初めて会ったのは、凪宮くんと会ったときだよ」
「あくまでも、しらばっくれるわけか。……ナーサ。やれ」
ナーサは面倒そうにため息をつく。
「はいはい」
再びナーサの猛攻が始まる。リアハイリンは、それを必死に捌いていく。突き、薙ぎ払い、回し蹴り。そのすべてを、リアハイリンは紙一重でなんとか躱していく。一瞬でも反応が遅れたり集中力が切れたりすれば、あえなく、やられてしまうだろう。
その様子を眺めていた黒ヒナが、援護のために身体を動かそうとしたことに、ヒナが気づく。妨害すべく、黒ヒナへと突進した。だが、黒ヒナはひらりひらりと踊るように躱す。そして、カウンターの頭突き一発で、ヒナをたやすく床へと墜落させた。
《情けないニャ、この時代のぼくは》
黒ヒナの嘲笑う声が、地面を這いつくばるヒナの心の中に反響した。
《黒感情のあの芳醇な美味しさを知れば、おぬしももっと強くなれるものを》
「……黒感情の美味しさは、ぼくも知らないわけじゃない。瑞季だっていつでも明るいわけじゃないし。でも……それじゃ、ダメなんだニャ」
ヒナは首を横に振り、黒ヒナの誘いをきっぱりと拒絶した。黒ヒナを睨みながら、ゆっくりと宙へ浮いていく。
「ぼくは、空の邦の王子……! これからの人間と精霊の未来を背負う者として、そんな欲に負けるわけにはいかないんだニャ!」
熱く叫ぶヒナ。
だが、黒ヒナの心には、その熱が一切届かない。無邪気に首を傾げる。
「何をそんなに威張ってるんだニャ? 王子なんて役職を捨ててやりたいって、生まれてこの方ずっと思ってたはずだニャ。無理をする必要はないんだニャ。もっと自分の欲に忠実に生きればいいんだニャ。それによって、さらなる強さを得られるのだから、一石二鳥だニャ」
ふと、黒ヒナが姿を消す。
そして次の瞬間、耳元に囁きが聞こえた。
「おぬしは出来損ないだニャ。王子の資格なんてないニャ」
「……っ」
ヒナは、すぐ横にあった鏡の柱に目を向ける。そこに映っていたのは、黒くくすみ始めた自分の胴体。
「それに……」
黒ヒナはステルスを解き、ナーサと戦うリアハイリンへ目を向けた。
「この時代の瑞季も、相棒はぼくのように強い者のほうがいいと思ってるに違いないニャ」
その瞬間。
「ふざけないで!」
リアハイリンが叫んだ。
叫びが、この不思議な空間に何度も反響し、隣にいるヒナの心に浸透していく。
リアハイリンは後方へ跳躍し、ヒナのすぐ隣に着地した。
そして、黒瑞季を睨んだ。
「ねえ、未来の私。あなたの相棒は、確かに強いかもしれないけどさ」
リアハイリンはヒナの頭を優しく撫でた。
「私の相棒だって、最高なんだから」
「瑞季……」
彼女は、優しく微笑みながら、語り始める。
「初めて会ったときのヒナは……本当にわがままだったよ」
「ニャ?」
「いきなり背中を掻けとか言ってくるし。いきなりヘヴンがどうとか、よく分からないこと言ってくるし」
「え、ぼく、けなされてるニャ?」
瑞季は微笑み、「ううん」と首を横に振った。
「でもね、ヒナがいてくれたから、私は今の自分を手に入れられた。誰かのために戦う、逃げない自分を」
「……」
「ヒナとは、本当にいろんな思い出でいっぱいだよ。イベントに一緒について行ってもらったこと——確か初めてアスラちゃんと会ったのが、そのときだったね。あとはそうそう。人間の食べ物を食べすぎて、体調を崩したこともあったっけ。ほんと、バカバカしいけど、そんなヒナがかわいくて。元気づけてくれたことも、一緒に戦ってくれたことも。そして、王子として目指すべき未来を見出したことも。そのひとつひとつが、私にとって大切なもの。私は、そんなヒナが、大好き」
「瑞季……」
リアハイリンは、ヒナをぎゅっと抱きしめた。
「私は、まだまだたくさん迷うと思う。惑わされると思う。でも、ヒナやみんなを想う気持ちだけは、絶対に見失わないよ」
ヒナのやわらかさと温かさが、身に染みる。この感触があったから、自分はここまで来られたんだ、と。
鏡に映っていたヒナとリアハイリンの灰色の身体から、さらさらと黒い粒子が舞い、消えていく。
リアハイリンは、ふと未来の自分に目を向ける。
彼女は目を見開き、驚愕していた。
「……今、なんと言った?」
「え?」
リアハイリンは、未来の自分が驚いている理由に気づかない。ただ、困惑して未来の自分を見ていた。
黒瑞季が続ける。
「……『人間の食べ物を食べすぎて、体調を崩した』——だと? 『人の感情に勝る美味も栄養もない』と言って、頑なに何も食べようとしなかった、あのヒナが?」
さっ、と血の気が引いていく。
瑞季は気づいてしまう。
自分が取り返しのつかないミスを犯してしまったことに。
そして、黒瑞季はすべてを悟ったかのように、その口角を吊り上げた。
「……そういうことか。それは盲点だった」
彼女はナーサへと命令する。
「ナーサ。あのぬいぐるみを痛めつけろ。徹底的にだ」
「え?」
「いいからやれ」
ナーサは怪訝そうな表情を浮かべる。
「……はいはい。せっかくだから、とっておきの力を使ったげる」
彼女が妖しく口角を吊り上げると、指先に紫色の雷が迸った。その鈍い光に、リアハイリンは黒瑞季から受けた黒い電撃を思い出す。
あれはまずい——。
「ヒナ! 逃げて!」
リアハイリンがヒナを手放し、背後へ逃がそうとする。
だが、無駄だった。
紫色の電撃が天井から降り注ぎ、ヒナを無慈悲に貫いた。
「にゃあああああああああっ!」
「ヒナ!」
リアハイリンは反射的に手を伸ばした。
だが、その指先が届くより早く、黒瑞季の手が彼女の腕を掴む。
「離して!」
振りほどこうと力を込める。しかし、黒瑞季の指はびくともしなかった。
「おまえは、いつもそうだな」
耳元で、未来の自分の冷たい声が響く。
「目の前のひとつを守ろうとして、周囲が見えなくなる」
「……っ!」
リアハイリンは空いた手で黒瑞季を振り払おうとする。
拳が交差する。蹴りがぶつかる。互いの力が鏡の迷宮に響き渡る。
焦りで乱れた彼女の動きは、黒瑞季には届かなかった。
一瞬、視線がヒナへ逸れた。
その一瞬の直後、身体の奥まで響く衝撃が走った。
「……っ!」
リアハイリンの身体が宙を舞い、背中から鏡の柱へ叩きつけられ、鏡が砕け散った。
降り注ぐ無数の破片の向こうに、ナーサの紫電が映った。
「やめて……!」
苦しそうな鳴き声が、鏡だらけの空間を何度も反響する。
「やめて!!」
叫んでも届かない。
伸ばした手は届かない。
あと少しなのに。
すぐそこにいるのに——。
やがて黒瑞季が、静かに手を上げた。
「もういい」
その言葉と同時に、紫電が消える。
ヒナの小さな身体が、力なく鏡の床へ落ちた。
煙を上げながら横たわる姿を見下ろし、黒瑞季はゆっくりと歩み寄る。
「……『同化』とは、ずいぶんと思い切ったことをしたものだ」
——同化してしばらくは、ひとつの肉体にふたつの魂がある、不思議な状態になるんだニャ。このときは、まだ元に戻ることもできなくはないけど、一年も経つと完全に魂がひとつになって、二度と離れられなくなるニャ。
ヘヴンの指導者ジンは自らスレイヴとなり、その状態を長期間続けたため同化してしまい、デシリアの浄化技で黒感情と共に肉体まで消え去ってしまった。
普通、人間と精霊が同化することなどできない。——ジンのようなケースか、もしくはデシリル・ジェムの力を使わずとも精霊の技が使えるほど、精霊に近い人間でない限りは。
瀕死のヒナの身体から、眩い空色の光が溢れ出した。
光が収まったとき、そこにいたのは三毛猫のぬいぐるみではなかった。
深い空色のパーカーを着た、桃色の髪の小柄な少女——神辺穹が、その場に倒れていた。




