第三十四話「ふたつの空、重なる心」-3-
ブラフザールと別れ、瑞季の心は少しだけ軽くなっていた。
自分の領域で自分らしくいる。その言葉がお守りのように胸の中で温かい光を放っていた。
だが、その穏やかな時間は唐突に終わりを告げた。
帰宅途中の人通りの少ない路地。その出口を塞ぐように、三つの影が音もなく現れた。
黒い戦闘服の女——未来の自分。
くすんだ毛並みの大きなぬいぐるみ——黒ヒナ。
そして、ナーサ。
「……っ!」
瑞季は咄嗟に身構える。
黒ヒナのビー玉のような瞳が、瑞季の肩にかけたバッグをじっと見つめていた。
「そこにいるのは分かっているニャ。出てこい、この時代のぼく」
その声に、バッグの中でヒナがびくりと身を震わせるのが分かった。
観念したように、ヒナはバッグからそろりと姿を現す。
黒ヒナは、今の小さなヒナを値踏みするようにじっと見つめ、そして黒瑞季へと報告した。
「瑞季。間違いなく魂はひとつだけだニャ」
「……だろうな」
黒瑞季はつまらなそうに呟いた。
「まあいい。さあ、お遊びの時間だ」
黒瑞季が、その手に、黄金色に輝く鍵を掲げた。
それには見覚えがあった。
「!」
かつてメルキーヴァから渡された、仮想空間コンクラムへとアクセスするための鍵だ。
瑞季の足元のアスファルトが、まるで水面のようにぐにゃりと歪んだ。抗う間もなく、彼女の身体はその歪みの中へと吸い込まれていった。
視界が一瞬、白く染まる。
次に瑞季が目を開けたとき、そこに広がっていたのは、異様な空間だった。
壁、床、天井——すべてが鏡で覆われている。
無数の四角い鏡の柱が、墓標のように整然と立ち並び、どこまでも同じ景色が続く。
映し出された自分の姿が四方八方から迫り、距離も方角も感覚が狂わされていく。
息を吸うたび、心臓の鼓動が耳に響く。
「なに……ここ……」
コンクラムに入ったのはこれで四度目だが、この異様さはこれまでの比ではない。
「ここは元々、決闘用じゃない。脱出迷路のアトラクションとして造られた空間だ」
黒瑞季の声が、四方の鏡面から反響する。
「この無数の鏡の中に、ひとつだけ左右反転して映る鏡がある。それが出口。それを見つけられたら、ゲームクリアだ」
「ゲーム……?」
あまりに軽薄な言葉。
それが、腹の底の怒りを燃え上がらせる。
「ふざけないで!」
瑞季の叫びは空虚に乱反射し、収束していく。
それから、静かに尋ねる。
「今日は何が目的なの」
「昨日、おまえたちを神辺穹が助けたのは、理解してるな?」
あのとき、瑞季たちは神辺穹と直接会ったわけではない。しかし、助けたのが空のデシリアの力を持つ彼女であることは、容易に推測できた。
「……それで?」
「神辺が、他の連中はともかくおまえまで助けたのが、腑に落ちない。やはり、神辺はおまえたちに接触しているのではないか?」
「知らないって言ってるでしょ」
「ならば、話したくなるまで、痛みつけてやるまでだ。さあ、早く変身しろ」
瑞季は唇を噛み、デシリル・アンプを握りしめる。
「ヒナ。離れてて」
「分かったニャ」
デシリル・ジェムをアンプに嵌め込む。瞬間、純白の光が彼女の全身を包み込んだ。その光は、周囲の無数の鏡に乱反射し、増幅され、凄まじい閃光となってリアハイリン自身の視界をも眩ませた。
「……っまぶし」
その光が収まると、彼女は前方十メートル先に、ナーサと黒ヒナが立ちはだかっていた。
「よろしくね」
ナーサは顔の横に手を上げ、軽く挨拶する。その指の隙間には、デシリル・ジェム。それをアンプに装着すると、鋭い紫色の閃光が、鏡の迷宮全体を、妖しく染め上げた。
現れたのは、紫色のゴシックな衣装を身に纏うツインテールの妖艶な戦士だ。
金色と紫色のオッドアイの切長の目が、冷たく輝く。
「さあ、始めようか」
黒ヒナがふっと姿を消す。
次の瞬間。
「え?」
前、右、左。
どこを見ても、黒ヒナがいた。
笑う黒ヒナ。
怒る黒ヒナ。
跳ねる黒ヒナ。
視線が追いつかない。どれが本物なのか分からない。
「ただの鏡じゃない!?」
黒ヒナが再び消える。
右。違う。左。いや、後ろ。
「どれ……!?」
背後か、右か、上か——周囲を見渡すたびに、感覚が麻痺していく。次第に、平衡感覚さえ薄れていき、体勢を崩しかける。
ふと視界の端に、自分自身が映った鏡が目に入った。
鏡の中の純白が、ゆっくり灰色へ染まる。
「——っ!」
自分の身体を見下ろす。白だった。
動揺の刹那、耳元で囁く声。
「あたしのこと、忘れてないよな?」
「!」
背筋が凍る。振り向くより先に足が動いた。
同じく蹴りを繰り出したナーサの足と激突し、骨が軋む衝撃が全身を駆け抜ける。
ナーサは着地せず、鏡柱を蹴った。
天井、壁、また天井。
目が追いつかず、ついに視界からナーサが消え去ってしまう。
その瞬間。
彼女の背後の鏡の中から、ステルス状態の黒ヒナが、気圧操作による不可視の衝撃波を放った。
避ける暇もなく、衝撃が腹を打ち抜いた。
「がはっ……!」
口から唾が飛び、視界が一瞬揺らぐ。
「くそ……!」
「その程度か?」
「そんなわけ、ないでしょ!」
立て直す間もなく、ナーサが手刀を払って畳みかける。
リアハイリンは鏡柱を盾にしながら後退を試みる。
「こっちだニャ、瑞季!」
「ヒナ!」
その声の方向へ走り出すと、突如、足元の床が、青黒い亜空間の渦と化した。
そして、彼女の身体を飲み込むように上昇していく。
「!?」
それは、ヒナの声を真似た黒ヒナの罠だった。
転移の先は、わずか三メートル後ろ——ナーサの目の前だ。
その無防備な背中に、すでに、ナーサの拳が、振り抜かれようとしていた。
振り返って防御しようとする。だが、間に合わない——。
強烈な一撃を背中に受け、鏡へ吹き飛ばされる。
自分自身の苦痛に歪む顔が、鏡に映り、迫ってくる。
そして、目の前に、さらに青い渦が現れた。
「!」
そのまま、渦へと身体が放り込まれ、視界が反転する。
気づけばそこにナーサの姿はなく、小柄なヒナが心配そうに見つめていた。
「ふう……ギリギリ間に合ったニャ」
「ヒナ……助かった。ありがとう」
リアハイリンの息はすでに荒く、肩は大きく上下していた。身体のあちこちに、腫れたような熱を感じる。
「ハイリン、大丈夫かニャ?」
「うん。まだまだいけるよ。でも、このままだと……」
ナーサはともかく、黒ヒナの能力が厄介——。
それを、リアハイリンは口にしなかった。しかし、その考えはヒナに伝わってしまったのだろう。ヒナは、しょんぼりと耳を垂らしてしまった。
「……ごめんニャ。ぼくが、もっと力を出せれば」
「気にしないで」
どんな言葉をかければいいか分からず、そんな曖昧なことしか言えなかった。
何か打開策を——。
彼女の思考が、焦りによって空転し始めた。
リアハイリンは呼吸を整えようと目を閉じかけ、すぐにやめた。目を閉じる方が怖いから。
ゆっくりと周囲を見回す。
鏡。
鏡。
鏡。
どこを向いても、自分自身が立っている。
どの自分も、同じように肩で息をし、傷だらけで、怯えた目をしていた。
《怖いかニャ?》
頭の内側から、黒ヒナの声が滲み出る。
反射的に振り向く。
脂汗をかく自分が映るだけ。
《探してるニャ?》
左を見る。いない。
右を見る。いない。
《ぼくは、おぬしの黒感情までぜーんぶ見えているニャ》
その瞬間だった。
正面の鏡の中のリアハイリンだけが、不意に口元を吊り上げた。
「っ!」
鏡へ拳を叩き込む。甲高い破砕音と共に、無数の破片が雨のように降り注ぐ。
だが、砕けた鏡の向こうには、誰もいない。
ハッとして振り返る。目の前の鏡の一枚に、黒色の影が映った。
未来の自分。
「しまっ……!」
咄嗟に身を翻す。
だが、その姿が、粉々に砕け散った。
黒瑞季はどこにもいない。
《ぼくからは逃げられないニャ》
散らばる鏡のかけらの雨の中、彼女の目の前に、青い亜空間の渦が現れた。
「くっ」
リアハイリンは咄嗟に立ち上がり、構える。
亜空間の渦から、おもむろにナーサと黒ヒナが現れた。
《惨めだニャ》
嘲笑が脳内に響く。
ナーサも余裕のある笑みを浮かべ、リアハイリンとヒナを見下していた。
「さあ、第二ラウンドだ」




