第三十四話「ふたつの空、重なる心」-1-
「だいじょうぶ。——あなたには、私がいる」
リアハイリンがスレイヴへ手を差し出したときの横顔を、神辺穹は身を隠して眺めていた。
穹の知るリアハイリンと顔立ちはよく似ている。それなのに、こんな温かな表情を見たのは初めてだった。
これが、先生が憧れたヒーローの姿——。
穹は、ようやく気がつく。最後の戦いに向かう前の先生が、自分に伝えた言葉の意味を。
——瑞季を、どうか憎まないであげて。
「……」
先生のためにできることは、本当に染谷瑞季を殺すことだけなのか。
けれど、今はこんなにも初々しい彼女が、やがて闇に染まる未来を、穹は知っている。
彼女が闇に傾きかけたら、殺さなければならない。
でも、もしも、別の道に賭けることができるのなら——。
◆
ヴォイズ・アークとの激しい戦いから一日が過ぎた。
あの日、惨敗した染谷瑞季たちが神辺穹の力によって飛ばされたのは、最初に待ち合わせをしていた河川敷だった。
あれから、ヴォイズ・アークが再び接触してくることはなかった。
そして今日、月音優菜とアスラは隔週で開催されるかるた会へ。高梁星輝はバンドの練習へ。瑞季は特に予定もなく、ヒナを連れて近所の文房具屋へと足を運んでいた。
——気持ちいいか? 暴力は。
不意に黒瑞季の冷たい声が脳裏をよぎる。
瑞季は一度、未来の自分が流し込んできた黒感情に飲まれ、灰色に染まった。仲間の力でなんとか白に戻ることはできたが、戦う中で感じるあの感覚は、依然として存在している。
敵を殴るたびに拳から伝わる心地よい痺れ。脳の奥深くがじんと熱くなるような高揚感。
自分の中に巣食う、この暴力的な衝動と、どう向き合えばいいのか。
彼女は、まだ答えを見つけ出せずにいた。
シャーペンと勉強用のノート、スケッチブックを買って文房具屋を出たとき、肩にかけていたバッグがこそこそと動いた。
中ではコンパクトミラーに化けたヒナが、小さな声でねだってくる。
「瑞季……。駅前のチョコチップメロンパンと、グリーンスムージーが食べたいニャ……」
「また? あんまり人間のものばっかり食べてると、またお腹壊すよ」
「久々だから大丈夫だニャ」
以前、ヒナは人間の食べ物の美味しさに目覚めてしまい、調子に乗って食べ過ぎた結果、体調を崩して寝込んでしまったことがあった。しかし、人の感情だけではどうにも栄養が足りないらしく、頻度を落としつつも、定期的に人間の食事を摂るようになっていた。
栄養と美味しさ。その両方を考えた末にヒナがたどり着いたのが、グリーンスムージーだった。
ちなみに普通の野菜ジュースは、一口飲んだだけで「まずいニャアアアアア!」と絶叫しながら暴れ回った。それ以来、星輝とふたりで『野菜ジュース・レジスタンス』なるものを結成しているらしい。もっとも星輝の方は、健康のためにと毎週イヤイヤながらも飲み続けているのだが。
駅前のパン屋『ブーランジェリー・ソレイユ』に入る。ここのチョコチップメロンパンが、特にヒナのお気に入りだ。瑞季も好きなので、トレーにチョコチップメロンパンをふたつ置き、レジに持っていく。
レジには、このお店の店長である男性が立っていた。QRコード決済アプリで支払いを済ませると、彼はにこやかに「ありがとうございます!」と頭を下げた。瑞季も「ありがとうございます」と微笑む。
彼は以前スレイヴにされ、瑞季たちが浄化したひとりだ。彼には、スレイヴだった頃の記憶は残っていない。瑞季のことも、覚えていない。
感謝されたいわけではない。
それでも、自分が救った人と、こうして何気ないやり取りをすることに、瑞季はなんとも言えない気持ちになった。
その後、グリーンスムージーと自分用の飲み物を買うため、駅前の商店街に再び戻っていく。
商店街の入り口手前にある、スポーツジムの前を通りかかる。
そのとき、ガラス製の自動ドアが開き、中から見覚えのある男が出てきた。
「あ……」
「おや」
白い肌をした五十代くらいの強面の男——ブラフザール。
彼はかつてヘヴンの傭兵だった男だ。瑞季たちとは何度も死闘を繰り広げた。だが、星輝の説得もあり、彼はヘヴンから離反した。今は時折故郷とこの無の邦を往復しながら静かに暮らしているそうだ。
「これは久しい顔だな。元気にしてたか?」
ヘヴンの傭兵として瑞季たちと戦っていたときと相変わらず、無愛想な顔だったが、その声には親戚のおじさんみたいな温かさがあった。そして、以前対峙したときよりも、ひと回り身体が大きく見えた。
「お久しぶりです。ブラフザールさんも元気そうで」
「ああ。すこぶる快調だ。最近はもっぱら、このジムで身体を動かすのが日課でな」
「はい、星輝から聞いてます」
そう言うと、ブラフザールは口元に笑みを浮かべた。戦っていた頃はけっして見せなかった、優しい表情。
「以前彼女に会ったのは、ひと月ほど前だったか。あのときはどうも思い詰めていたようだったが、今は元気にしているか?」
ひと月前というと、陣頭愛華の件があった頃だ。
「うーん、一時期よりは回復してますが、まだ悩んでそうではあるかな」
「そうか」
会話がそこで一度止まる。
瑞季は拳を胸に当て、考えた。
もしかすると——。
この胸の内に渦巻く黒いモヤを消すためのヒントを、数々の戦地を潜り抜けてきたこの人なら知っているかもしれない。
瑞季は意を決した。
「……あの。ちょっと、お話を聞いてもらえませんか?」




