第三十三話「空と希望の帰還」-7-
黒瑞季が神辺穹を指差した瞬間。
ヴォイズ・アークのメンバーたちは、号砲を聞いた獣のように、ビルから散り散りに飛び出していった。
それを屋上から見下ろしながら、神辺穹は静かに、ビルの背後へと、その身を躍らせた。
磐名はビルの壁を地の力で階段状に変形させ、一気に地上へと降り立つ。
神辺穹が逃げ込んだであろう、雑居ビルが密集する入り組んだ路地裏。そこに足を踏み入れたときだった。
頭上を小さな影が駆け抜けていく。まるで重力など存在しないかのように。
そして、身長が百四十センチメートルほどしかない小柄な少女が、磐名の十メートル先のアスファルトへ小鳥のように着地する。
「久しぶりだな、神辺」
「……」
神辺穹は答えなかった。
「リアマイムも残酷な奴だよな。かつての仲間をあんな殺し方するなんて」
「……全部あなたたちのせいだ」
幼くも、憎悪に満ちた声。
磐名は満足げに笑うと、地の黒靴の靴底を地面へと叩きつけた。
「——逃がすかよ!」
磐名の足元のアスファルトを突き破り、巨大な土の蛇が地面から現れたのと、神辺穹が飛び上がったのが同時だった。
室外機、突き出た看板、非常階段の手すり。神辺はそれらを最小限のタッチで足場とし、流れるような動きで、ビル群を立体的に駆け上がっていた。
アスファルトの破片を巻き上げながら、その小さな背中へ、土の大蛇が牙を向ける。
神辺穹は宙で身体を捻り、大蛇の眉間に踵を当て、飛び上がる。大蛇はビルの壁にぶつかり、壁を抉った。
磐名はさらに、ビルの壁から鋭い岩の槍を何本も突き出させる。神辺は、迫りくる槍の穂先を、最小限の動きですり抜けていく。
「やるねえ!」
磐名は、神辺が飛び移ろうとする隣のビルの壁を、地の力で粉砕する。着地しようとする地面を隆起させ、足場を奪ったのだ。
ついに、磐名は路地裏の出口を巨大な土の壁で完全に封鎖した。
少女は行き場を失った。
だが、彼女は迫りくる壁に向かって加速した。
壁に接触する寸前、そのほぼ垂直な壁面を、わずかな隆起を足場にして、斜めに駆け上がったのだ。
磐名の予測を完全に超えた動き。
「あの泥棒猫が……!」
彼女が悪態をついたときには、すでに神辺は壁を登り切り、ビルの屋上へと姿を消していた。
神辺が屋上にたどり着くと、そこにはすでに凪宮琥珀が待ち受けていた。
「今度は逃しませんよ」
「……せいぜい頑張って」
神辺穹は左へと飛び退き、ビルからビルへと飛び移る。
凪宮は風の黒杖を天に振り上げ、風の力をその身に纏う。追い風を吹かせ、神辺穹の数メートル後ろを、影のように追従した。
風の力で加速された凪宮のスピードは、神辺穹のそれを凌駕する。
彼は一気に距離を詰めると、その手に持った黒い杖を薙ぎ払った。風を纏ったその一撃を、彼女は空中で身を捻り、紙一重で躱した。鋭いカマイタチを宿した杖が、屋上のフェンスをバターのように切断する。
当たりさえすれば、必ず動きを封じ、捕えられる自信がある。
しかし、当たらない。
「やりますね……!」
凪宮は圧縮された空気の弾丸を連射する。神辺穹は、室外機や雑居ビルに這う配管を盾にしながら、その弾幕をやり過ごした。そして、日の当たる県道側へと跳躍する。
凪宮は先回りし、神辺の次の着地地点である信号機の上に降り立った。そして、強力な突風を巻き起こし、彼女を車が猛スピードで行き交う道路へと吹き落とそうとする。
だが、神辺は一ミリたりとも落ちない。気圧操作でその風に抗ったのだ。そして凪宮のさらに上を飛び越え、対向車線側の街灯にその手をかける。
そのまま勢いを活かし、体操の鉄棒競技のように身体を回転させると、高く舞い上がり、近くのマンションの四階のベランダへと、音もなく着地した。
そして、その部屋の網戸を開き、するりと部屋の中へと侵入していく。
凪宮は気づく。マンションのほとんどの部屋は、ベランダの窓をしっかりと閉めている。網戸になっていたのは、その一戸だけだった。神辺はそこまで観察し、あそこを逃走ルートに選んだのだ。
「さすがですね……。僕には、一般の住宅に不法侵入する気になれません。他の人に任せましょうか」
凪宮はそう呟くと、静かにその場を離れた。
神辺穹が部屋を通り抜け、玄関から外へ出たその瞬間。
隣のビルから、ナーサが飛び降りてきた。
「っ!」
神辺穹は猫のように飛び跳ね、ナーサの体当たりを紙一重で回避する。ナーサの一撃により、彼女が出てきた扉の前が抉れ、マンション全体が揺れた。
「あんたのことをあたしは詳しくないが……。空のデシリル・ジェムのデシリアなんだって?」
「……まだ変身はしてないけどね」
「変身してないのに、そんなに動けんのかよ。でも、その舐めプも、いつまで続くかな!」
ナーサの、超人的なスピードによる圧倒的な物理攻撃の乱れ打ちが始まる。彼女の拳がマンションの廊下の壁を殴りつければ、コンクリートが蜘蛛の巣状に砕け散る。回し蹴りが柵に直撃すれば、柵は砕け散る。
しかし、その小柄な少女は恐れない。ナーサの腕に自分を腕を添わせ、その突進の力を横へ流した。
「!」
狭い廊下で、ナーサは宙を蹴って、変幻自在の角度から攻撃を仕掛ける。神辺穹はその猛攻を冷静に捌き続けた。
「その動きは、なんか武術やってやがるな」
少女は何も言わず、マンションの手すりから飛び降りると、気圧操作でその落下速度を殺して建設中のビルの鉄骨へと着地した。
ナーサもまたそれを追う。
彼女は空気を地面のように踏みしめ、神辺穹の背後へと迫る。その身体を捕らえようと腕を伸ばした。
その瞬間、少女は振り返り、ナーサのその腕を掴んだ。
「なっ!?」
ナーサの凄まじい突進の力を利用し、自らも背後へ倒れながらナーサの腹を蹴り、巴投げで投げ飛ばした。
下の階層へと落下していくナーサ。
「くそっ……!」
彼女が着地し見上げたとき、青い時空の渦が閉じた。
神辺穹が転移したのは、多くの人々で賑わう昼間の繁華街だった。
「ようやく尻尾を掴めたよ、神辺」
上空から黒瑞季の声がした。
彼女と黒ヒナが、空に浮かんでいる。
彼らを一瞥した後、神辺穹はすぐに走りだした。彼らも追いかけていく。
「逃げるのか? 私が憎いのだろう?」
「……今はあなたと戦うべき時じゃない」
カフェのテラス席のパラソル。ビル壁面のデジタルサイネージ。非常階段。街のあらゆるものを足場として利用し、身軽な獣のように駆け抜けていく。
黒ヒナが上空から気圧操作を仕掛ける。追い風を吹かせて加速させたかと思えば、急に逆風で動きを止め、横風で壁に叩きつけようとする。
その動きにより、彼女の動きがわずかに鈍った。そこを、黒瑞季が一瞬にして距離を詰める。
黒瑞季は神辺穹の首へ手を伸ばす。しかし、彼女は最低限の動きでその手を弾き、黒瑞季の足を払う。重心がずれ、体勢を崩しかけた黒瑞季の脇を、少女は通り抜ける。
「デシリアにもなっていない、ただの小学生ひとりにここまで手こずらされるなんてね。どんな気分?」
「……言ってくれるじゃないか。さすがは異例のデシリア」
異例のデシリア——それは、デシリル・ジェムの力を使わずとも、精霊以上に精霊の力を使いこなす、異例の人間。この世で神辺穹ただひとりに与えられた称号。
神辺穹は跳躍し、道路の反対側にある喫茶店の庇に着地。さらにビルのベランダの柵へ移り、その上階へ飛び跳ねる。
が、そのとき、黒ヒナの突風を受け、掴んだ柵が破壊された。
「!」
体勢を崩し、少女はビルの三階の高さから落ちていく。
その落下地点に、黒瑞季が待ち構えていた。
だが、神辺穹は落下しながら、亜空間の渦を自らのすぐ足元に出現させた。
彼女の小さな身体は、その渦へと吸い込まれる。
黒瑞季の拳は、空を切った。
「追いかけるニャ」
黒ヒナがその痕跡を追い、亜空間の渦を作り出して飛び込む。
転移した先は、駅に隣接する商業施設の中心だった。
この日は土曜日。縦横無尽に、数多くの老若男女が歩いていた。すでに、神辺穹の青いパーカーも、彼女の特徴的な桃色の髪も見当たらない。
黒瑞季は忌々しげに舌打ちする。
「してやられたな」
亜空間により、黒瑞季と黒ヒナは商業施設の屋上へ移動する。
それにしても——と、黒瑞季は考える。なぜ、あのタイミングで神辺穹が姿を現し、デシリアたちを助けたのだろうか。
「ヒナ。こちらの時空のヒナには、確かにひとつの魂しか入ってないんだよな?」
「うむ。少なくとも以前見たときはそうだったニャ。神辺穹が同居してるなんてことは、なかったニャ」
ひとつのぬいぐるみに二名以上の精霊が入ることは可能だ。黒瑞季たちは神辺穹がヒナのぬいぐるみに隠れている可能性を考えていたが、その状態は精霊なら一目で分かる。
「念の為、もう一度見てみようかニャ?」
「……そうだな。次見かけたら、頼む」
この日、この時空のヒナは一度も姿を現さなかった。戦闘に転じたのは彼女たちにとって突発的なものだったのだから、単に家にいただけだろうか。
「ふああ……疲れたニャ。帰って寝たいニャ」
黒ヒナは黒瑞季の肩に着地する。
「そうだな。出不精のヒナであれば、家で寝ているのがデフォか。……いや、待て。これまで、あいつはバッグに入り込んで彼女たちと出かけることが多かった気が……」
「そうなのかニャ? いつだってぼくはダラダラ寝てたいニャ。たぶん気のせいだと思うニャ」
「……」
黒瑞季は、何かに気づきかける。しかし、指の先がかすかに当たるだけで、その正体に掴ませてくれない。
「瑞季?」
黒ヒナの声かけで、思考が現実に戻ってくる。彼女は小さく息をついた。
「撤退しよう。久々にこちらに来たのだから、こちらのごはん、食べてくか?」
「いらないニャ。ぼくには、瑞季の感情だけあればいいニャ。ずっと瑞季の感情が食べられなくて、危うく禁断症状が出るところだったんだニャ」
「食べても症状は出るじゃないか」
「あれは禁断症状じゃなくて中毒症状だニャ。それでも、食べずにはいられないんだニャ」
黒瑞季は黒ヒナの顎を愛おしそうに撫でる。黒ヒナも嬉しそうに「にゃあ」と甘えた声を出した。
青い亜空間の穴が黒瑞季たちの前に出現し、彼女たちは町から姿を消した。
(第三十三話「空と希望の帰還」了)
第三十四話「ふたつの空、重なる心」2026/10/3 8:00投稿予定




