第三十三話「空と希望の帰還」-5-
黒ヒナは待ちきれない様子で、ナーサの周りを空中でぴょんぴょんと跳ねていた。
「ぼくも、混ざっていいかニャ? いいかニャ?」
「断る」
「ニャ!? 独り占めなんてせこいニャ! ナーサ!」
駄々をこねる子供のような猫のぬいぐるみに、ナーサはため息をついた。
「仕方ないな。あたしは休憩する。あんたひとりで勝手にやってろ」
「おお! 独り占めしていいのかニャ!? ありがとうニャ!」
あまりにも無邪気で明るい声が、ひどく不気味だった。
リアハイリン、リアマイム、リアスピサの三人は、直感的に悟っていた。
勝てない——。
「じゃあ、いくニャ!」
黒ヒナが無邪気に叫んだ。
しかし、誰も動かなかった。——動けなかった。
すると、黒ヒナは首を傾げた。
「どうしたニャ? 遊んでくれないのかニャ?」
リアスピサは、自身の脚が震えていることから、必死に目を逸らしていた。
「……やるっきゃねえか」
ひとつ深呼吸し、リアスピサは意を決する。先手必勝とばかりに、渾身の炎の奔流を黒ヒナへと放った。
だが、黒ヒナは、その炎が直撃する寸前に、自らの目の前に青黒い亜空間の渦を出現させた。
炎は、渦の中へと音もなく吸い込まれていく。
直後、リアハイリンのすぐ背後に、別の渦が出現した。そこから、先ほど吸収されたばかりの炎が放たれた。
「!?」
リアハイリンは、咄嗟に腕で顔を庇うが、その衝撃と熱を完全に防ぎきることはできない。
「ぐっ……!」
全身を覆う熱による痛み。吐き気がするほどに視界がぐるぐると回り、リアハイリンは膝をついた。
仲間の炎が、仲間を焼く。
その光景だけで、三人の背筋を冷たいものが走った。自分自身も、仲間を傷つけしまうんじゃないか、と。
《おぬしたちの力は、実に面白いおもちゃだニャ。もっと見せてくれニャ》
それは、リアハイリンたちの心の中に直接響いた。
「!?」
その感覚には、既視感がある。
「……スレイヴ?」
《空の邦の精霊の術のひとつだニャ》
すると、黒ヒナの姿が消した。亜空間もなく、ただそこに溶け込むように消えたのだ。
「!」
空の邦の精霊は不思議な術を使う。それを、かつてのアスラやジンを通して彼女たちは見てきた。しかし、亜空間を使わずに消える術など、見たこともなかった。
リアスピサとリアマイムはそれぞれ、全方位を警戒し、意識を集中させる。だが、黒ヒナの気配はどこにもない。
静寂。
その耳が痛くなるほどの静寂を破ったのは、リアスピサの心の中に直接響いた、黒ヒナの囁きだった。
《おぬしの炎は、実に暖かそうだニャ》
「なっ!?」
リアスピサは反射的に背後へと炎を放つ。
だが、その炎の上で、黒ヒナは楽しそうに宙を舞っていた。
「オルタナの炎は、ぽかぽか暖かいニャ。……ほれ、おぬしも浴びてみるといいニャ」
直後、背後から強力な気圧の壁が発生した。
自ら放った炎が、まるでブーメランのように自分自身へと戻ってくる。
「くそっ」
彼女は咄嗟に横へ跳んでそれを回避した。だが、そこへさらに不可視の衝撃波が襲いかかる。脳が揺れ、天地がひっくり返る。わけもわからぬままリアスピサは吹き飛ばされ、起き上がろうとしていたリアハイリンへと激突していた。
「ストライクだニャ!」
衝突による打撃で、リアスピサは力を保てる状態ではなくなった。光の粒子と共に、変身が解けてしまう。
黒ヒナは、再びその姿を背景に溶け込ませた。
「……いた!」
リアマイムは、かすかな陽炎のような空間の揺らぎを見逃さなかった。必死にその動きを目で追う。そして、その予測進路上に、水の槍を放った。
「ほう。見えているのかニャ」
黒ヒナは亜空間を出現させ、その槍をいともたやすく飲み込んだ。
どこかから槍が飛んでくる——リアマイムは警戒するが、その警戒のせいで、黒ヒナの姿を見失ってしまった。
そのとき、肩に冷たい水飛沫が触れた。
はっとして見上げると、天井付近で先ほどの水の槍が、亜空間から現れ、そしてまた別の渦へと吸い込まれていく。まるで手玉に取られるように、槍は空間を飛び回っていた。
五度目。
槍が亜空間へと消えたその瞬間、リアマイムのすぐ目の前に渦が現れた。
「っ!」
突然の危機に、心臓が飛び跳ねながらも、咄嗟に水の盾を展開する。
槍と盾が激突し相殺され、豪快な破裂音と巨大な水飛沫を上げて弾け飛んだ。
その水のカーテンの中を、黒ヒナが魚のように気持ちよさそうに泳いでいる。
《おぬしの水は、冷たくて気持ちいいニャ》
その瞬間、リアマイムの肩に見えない重圧がのしかかった。ジンと同じ気圧操作。
なすすべもなく、彼女はその場に膝をつく。じわじわと、しかし確実に、その力は増していく。
そして、ついにリアマイムも地面へと倒れ伏した。すでにボロボロだった身体は、もう動いてくれない。彼女の変身もまた、光と共に解けてしまった。
「マイム……」
倒れていたリアハイリンが最後の力を振り絞り起き上がった。
《さすがは、ぼくの瑞季。元気だニャ》
黒ヒナの声が、ジンジンと脳内に響いている。口の中には血の味が広がっている。もう限界だった。
それでも、進まなくちゃいけない。
「はあああああ!」
リアハイリンはボロボロの身体に鞭を打ち、黒ヒナへと飛びかかる。
「ヒナ! どうしたの!」
何度も拳を振うが、そのすべてが虚しく空を切る。
「何がだニャ?」
「その身体の大きさは何? 精霊のぬいぐるみは成長しないんじゃなかったの」
「瑞季から、たくさん黒い感情を吸収したからだニャ」
その意外な言葉に、リアハイリンの拳が止まってしまう。
ヒナは、宙にぷかぷかと浮いたまま、何もしてこない。
「え……」
「白感情もおいしいけど、黒感情はやっぱり別格だニャ……。最初はちょっとクセのある苦さが嫌だったんだけど、次第に病みつきになったんだニャ。珍味とでもいうのかニャ? ずっと黒感情を食べ続けてたら、どんどん身体にエネルギーが溜まっていって。気がついたら身体が膨らんでいたんだニャ」
うっとりとした話し方に、リアハイリンは嫌悪感で目を細める。
見た目も声も、彼女のよく知っているヒナだ。しかし、根本的な部分で、目の前の精霊は、彼女の知るヒナとはまるで異なる。
精霊は感情エネルギーに人格を左右されやすい、と聞いたことがある。現在の精霊たちは、灰呪雲により白感情エネルギーばかりを吸収し、温厚になったのだという。だが、かつての精霊は人間を卑劣な手段で征服していた。ヒナや空の邦で出会った精霊たちを見ていると、精霊がそんなひどいことをするはずがない、と思ってしまう。そして、灰呪雲を止め、白感情エネルギーの供給が減っていく今後も、そのまま変わらないのでは、と信じていた。
しかし。
この黒いヒナこそ、本来の精霊の姿なんじゃ——。
「どんどんエネルギーが溜まっていった結果、いろんな技も使いこなせるようになったんだニャ。黒感情こそが至高のグルメ……。ああ、今のおぬしの、ぼくへの嫌悪感による黒感情も、とーってもおいしいニャ」
その瞬間、リアハイリンの頭上に亜空間が現れた。そこから瓦礫が降り注ぐ。さらに気圧操作でその落下速度が倍増する。
リアハイリンは反応に遅れ、なすすべもなくその瓦礫に押し潰されてしまった。全身をコンクリート片が切り裂き、打撲する痛みが連続し、突如すべての感覚が消える。こうして、彼女の変身もまた、解けてしまった。
「えー? もうお遊びは終わりかニャ?」
退屈そうに宙に浮く黒ヒナへ、ナーサが近づいていく。
足元に倒れる染谷瑞季は、もはや虫の息だった。しかし、大きな外傷はない。デシリアの状態で受けた怪我は、変身が解けた後の姿には反映されないのだと、ナーサは改めて気づかされる。
ナーサは染谷瑞季の顔の元でしゃがみ込み、遠くで突っ立っている黒瑞季に顔を向けた。
「こいつらのデシリル・ジェム、回収するか?」
「ああ、頼む」
その女と、目の前で倒れる少女が同一人物だと、ナーサはいまだに信じられなかった。確かに顔も声も似ているが、あまりにも異なる。——それは、かつてのナーサと今のナーサも同じかもしれないが。
「……はあ」
小さくため息をつき、染谷瑞季の腰元に落ちるデシリル・アンプに手を伸ばす。
その瞬間、彼女の視界が真っ青な光に包まれた。
「!?」
ナーサはびくりと跳ねて後退した。
「空の亜空間の渦……?」
見れば、同じ渦が、アスラ、星輝、優菜の身体をも包み込んでいる。
そして次の瞬間、四つの渦は、光と共に消え去った。
そこに倒れていたはずの少女たちの姿は、もうどこにもなかった。
この場に、これまでとは異質の緊張の糸が張られる。
「これは……」
黒ヒナが呟いた。
「四つも正確な位置に亜空間の穴を置くなんて。ぼくにすらもできない芸当だニャ……」
そして、そんなことができるのは、この世界にただひとりしかいない。
「ぼくなら痕跡を追ってあの子たちの元に辿り着けるけど。どうするニャ? 瑞季」
「いや、追いかけるべきは彼女たちじゃない」
黒瑞季の張り詰めた声に、今まで壁際でのんびりと戦いを見物していた磐名と凪宮が、即座に戦闘態勢に入った。全員が、周囲に目を走らせる。しかし、この空間のどこにも、誰かの気配はない。
ただひとり、黒瑞季の視線は、道路を挟んだ向かいの隣のビルの屋上へと向けられていた。
三十メートル以上離れているその場所に、青いパーカーの少女——神辺穹の姿を、彼女は、その目で確かに捉えていた。
フードの下で、大きな瞳が挑戦的に光っている。
黒瑞季は、その逃亡者へと指を差した。
「いた。——奴を捕えろ」




