第三十三話「空と希望の帰還」-4-
未来のヒナ——黒ヒナは、そのくすんだ身体を、甘えるように黒瑞季の胸へと飛び込ませた。
「瑞季! 久しぶりだニャ」
「ああ。会いたかったよ、ヒナ。ナーサを導いてくれて、ありがとう」
「ちょっと横暴なところは気に食わないけど、まあ、仕事はちゃんとこなしてくれたニャ」
その親密な会話を、アスラは遠くに聞いていた。彼女の視線は、ただ一点、目の前の姉ナーサに釘付けになっていた。
また話したい。
今度こそ和解したい。謝りたい。
そう、心の底から願っていた。
しかし、いざ彼女を目の前にすると、何も言葉が出てこない。
やがて、アスラはナーサの左手に握られたデシリル・アンプに気がついた。
「それは……」
「見てのとおりのものだ。で——」
ナーサは右手をゆっくりと顔の前に掲げた。その人差し指と中指の間に、美しい紫色の宝石が挟まれている。
「!?」
「この無の邦からもデシリル・ジェムが現れたように、あたしたちの故郷にもデシリル・ジェムがあったのさ。あんたたちを潰すための力がな」
ナーサがデシリル・ジェムをアンプに装着する。
紫色の鋭い閃光が、建設中のビル全体を、一瞬にして染め上げた。
光が収まったとき、そこに立っていたのは、コート姿のナーサではなかった。
紫色のゴシック調のドレスを身に纏い、紫色の長い髪を美しいツインテールで結んだ、ひとりの優雅な令嬢。右目は黄金に、左目はアメジストのような紫に輝くオッドアイ。首元にはマットブラックのリボンと、絹のように滑らかな紫色のリボンがそれぞれ結ばれている。
デシリアのように神聖で、デシリアとは思えぬほど冷たい紫。
リアウインズは、その姉の姿に息を呑みながらも、必死に訴えかけた。
「私は……! 私は、お姉さまと戦いたくありません!」
だが、その声は、ナーサには届かない。
彼女は、何の言葉も発さず、地面を蹴った。
次の瞬間、リアウインズのすぐ目の前にいた。
「速い!?」
風を切る音さえしない。リアハイリンにも劣らない——いや、それ以上だ。
ナーサの回し蹴りが、リアウインズの腹部を的確に捉える。
「ぐっ……!」
息が詰まる。胃の中のものが喉元までせり上がる。
続けて、拳の連打。一発、二発、三発。そのすべてがリアウインズの身を抉っていく。
肋骨のきしみから逃げるように、最後の力を振り絞って後方へ跳躍した。
「どうして……! どうして、お姉さまは、彼らについているのですか!?」
「最初は単なる興味本位だった」
ナーサは静かに語り始める。
「ジンが死んだ後、あっちの邦に戻るつもりもなかったし、こっちで特にやりたいこともなかった。早く餓死すればいいのにとさえ思ってた。そんなときに声をかけられて、せっかくだから、ジンを殺したお前たちへの復讐の力を求めて、ついていってやったのさ」
彼女の声は、どこまでも冷たかった。
「そして、あのヒナから知らされた。あいつらの目的が、世界を消滅させることだと。……ジンのいない世界なんて、もはや存在する価値はない。だからあたしは、ヴォイズ・アークに協力することにした。このデシリアの力を手に入れて、あんたたちを絶対に倒してやるってな」
ナーサが再びリアウインズへと跳躍する。
リアウインズは風の壁でその突進を防ごうとする。だが、ナーサは前方に手を向け、薄い紫色の透明なバリアを張った。バリアは風の壁にぶつかると、ガラスのように砕け散ったが、風の力は大きく弱まっていた。
ナーサは宙を蹴り、弱まった風を突っ切り、猛スピードでリアウインズへと迫る。
リアウインズは上空へと回避する。だが、ナーサは重力を無視し、再び宙を蹴ってリアウインズを追尾した。
「遅い」
低い声と共に、強烈な踵落としがリアウインズを撃ち落とす。
彼女の身体はコンクリートの床を貫通し、下の狭いフロアへと叩きつけられた。崩れた天井がゴロゴロと音を立てて崩れ、顔の横へ落ち、割れる。コンクリートの粉塵が気管に侵入してきた。ゴホゴホと咳をしながら、リアウインズは瓦礫の中から身を起こし、叫んだ。
「ジンさんのいない世界に存在価値がない——なんて、そんなはずはありません!」
足元にナーサが着地する。リアウインズは彼女から目を離さずに立ち上がる。
「私は、ジンさんが心を失う前に望んでいた世界へ、ジンさんの代わりに、皆さんを導きたいのです! 本当は、お姉さまも、そうなのではないですか!?」
姉に正気に戻ってもらいたい——その一心で訴えた言葉だったが、
「知ったような口を聞くな!」
その言葉は、逆にナーサを激昂させてしまう。
その怒号に、姉と軋轢を起こした日の震えが背中を駆け上がる。初めて姉に敬語を使った、あの日を。
「あんたにジンの何が分かる! ジンを殺したくせに、ジンを語るんじゃねえよ!! この裏切り者が!!」
リアウインズの頬を、ナーサの拳が掠める。
熱い。肌が焼けるような痛み。
避けたつもりになっていたが、身体がついていかない。
腹部に膝蹴りが入る。今度は、内臓を直接鷲掴みにされたかのような鈍い痛みが、全身を駆け巡った。
息ができない。視界が、白く点滅する。
それでも、リアウインズは必死に言葉を紡いだ。心の奥底に、ずっと仕舞い込んでいた後悔の言葉を。
「私が……私が、もっと、しっかりしていれば、お姉さまを、あんなに苦しめることは、なかった……本当に、ごめんなさい」
リアウインズの顔から雫が滴る。それが汗なのか涙なのか鼻水なのか、彼女自身にも分からない。
そんな謝罪の後に最初に聞こえたのは、姉の舌打ちだった。
「……あんたは、何も分かっていない」
その言葉は、熱を持って震えていた。
「今さら謝るな! あたしがあんたを護るために、どれほどの覚悟を決めていたか、あんたは分かっていない! その謝罪じみた同情は、あたしの、あのときの覚悟への侮辱だ!」
ナーサの拳が、顔面に叩き込まれた。
「都合の悪いところから目を逸らして、全部分かった気になってるあんたみたいなやつが、あたしは一番嫌いだ……っ!」
視界が、ぐにゃりと歪む。
ああ、そうか……そうだったのか——。
リアウインズは気づく。
姉にとって、あのときの選択は、後悔なんかじゃなかった。
誇りだったんだ。
それを、自分は、可哀想なこととして謝罪してしまった。自分の心を軽くしたい、ただ、それだけのために。
自分はまだ、姉の複雑なプライドを、まったく理解できていなかった——。
膝をつき、地面に倒れかけたが、その肩をナーサに捕まれ、倒れることさえできなかった。そして、腹部に強烈な衝撃が走る。
強烈な蹴り上げで天井を貫き、再び、上の広いフロアへと吹き飛ばされた。
もはや身体のどこにも力が入らなかった。自分の身体が重力に反して高度が上がっていくのを他人事のように感じながら、うっすらと目を開ける。すでに、ナーサが先回りしていた。
「これで、トドメだ」
姉が、鉄槌のように両手を振り下ろした。
だが、その手が、リアウインズに届くことはなかった。突如現れたリアハイリンによって、掴み止められたのだ。
「——どうして、妹さんにそんな乱暴ができるの」
リアウインズは重力に捕まり、落ちていく。宙に留まる姉やリアハイリンとの距離が開けていく。そんな中、かすかに姉の声が聞こえた。
「妹? 誰が?」
アスラは冷たいコンクリートに墜落し、意識を失った。
ナーサのあまりにも冷たい返答に、リアハイリンはゾッとする。
「ちょうどいい。あんたも復讐の対象だ」
ナーサは、リアハイリンの手を振り払う。さらに、ナーサは何もない宙を蹴り、回し蹴りを放った。
かろうじて腕で身体を庇ったが、すでにボロボロとなっているその腕では、ほとんど防御の意味をなさない。力なくビルの壁へ吹き飛ばされる。
「ハイリン!」
リアマイムが痛む身体を無理やり起こし、水のクッションを、リアハイリンとビルの壁の間に瞬時に作り出す。リアハイリンの身体は、それに優しく受け止められた。
目を覚ましていたのは、彼女だけではない。
「てめえ……! これ以上、好きにはさせねえぞ!」
リアスピサが、怒りの炎をナーサへと放った。
そのときだった。
「――おぬしらが加わるなら、ぼくが加わっても問題ないよニャ?」
その瞬間、炎は、強力な気圧の壁によって、軌道を逸らされ、地面へと墜落した。
「なっ!」
空中に留まるナーサの周りを、三毛猫柄のぬいぐるみがぷかぷかと自在に泳いでいる。その身体は、見覚えのあるヒナより一回り大きく、色がくすんでいる。
「ぼくも一緒に遊びたいニャ」
無邪気な声だった。
そして、その底知れない不気味な響きに、リアハイリンはおぞましいものを感じていた。




