第三十三話「空と希望の帰還」-3-
「『ヒアリン・フェーズ・セカンド【イリン】』」
その詠唱が、ビルに響き渡った。
目に見えるもの、肌で感じるものは、何も発生していない。
なのに。
リアハイリンたちは、その圧倒的なプレッシャーに、思わず息を呑んだ。
「何が来るか、分かんねえが……!」
リアスピサが自分に、そして、仲間たちに言い聞かせるように、叫んだ。
「同時に攻撃すれば、なんとかなるはずだ!」
ケイリンでは、複数の攻撃を同時に吸収することはできなかった。それが、唯一の弱点だった。
リアスピサは炎の槍を。リアマイムは水の槍を。ふたりは黒瑞季へと、同時にその力を放った。
だが、黒瑞季は一切動じず、ゆっくりと両腕を大きく広げた。
左手が炎を呑み込み、一瞬遅れて右手が水を喰らう。その細い両腕に、ふたつの力はいともたやすく吸い込まれ、完全に消滅した。
「……なっ!」
リアスピサが絶句する。
黒瑞季はその両腕を、ゆっくりと胸の前で交差させた。
「残念だったな」
そして、今度は、右手から水の奔流を。左手から炎の弾丸を。それぞれ、元の持ち主とは逆の相手へと放ったのだ。
リアマイムとリアスピサは咄嗟に防御するが、その衝撃に、後方へと吹き飛ばされる。
黒瑞季は、リアマイムへ猛然と迫った。
「くっ……!」
リアマイムは迎撃すべく、無数の水の矢を放つ。だが、黒瑞季は先ほど吸収した水の力を惜しげもなく使い、そのすべての攻撃を相殺した。
そして今度は、吸収した炎と水の力を、その両手の中で合成させる。
生み出されたのは、沸騰する灼熱の熱水。
それを、滝のようにリアマイムへ降り注いだ。
「きゃあっ!」
熱湯が足元で激しく飛沫を上げる。やけどしそうな熱が、剥き出しの脚や腕に飛び散り、全身がびくんと怯んだ。
気がつくと、視界に黒瑞季がいなかった。
「マイム! 上!」
リアハイリンの叫びに、リアマイムは頭上を見上げる。
黒瑞季が、彼女の上空五メートルの位置にいた。
なにか来る——!
リアマイムは咄嗟に、水の盾を頭上に展開した。
水の盾越しに、黒瑞季の手のひらが、赤白く輝いた。
そこにあるのは、高熱に凝縮された、手のひらよりも小さな炎の球だった。
そして、黒瑞季は、それをそっと落とす。
二秒の沈黙の後、炎の球が水の盾に触れた。
その瞬間。
あまりの熱に、一瞬、蒸気の膜が形成された。膜が瞬時に破れ、水蒸気爆発が発生する。
轟音と白い爆炎が、リアマイムの全身を飲み込んだ。
彼女は仰向けに地面へと叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「マイム!」
黒瑞季は爆発の推進力を利用し、今度はリアスピサへとその矛先を向けた。
「させない!」
リアハイリンが、それを阻止しようと突撃する。
だが、黒瑞季は吸収済みの炎の力を使い、巨大な火柱を複数発生させ、リアハイリンとリアスピサとを、完全に分断した。
孤立したリアスピサへと、黒瑞季が猛スピードで迫る。
「てめえ……!」
リアスピサは怒りの炎を連射する。
しかし、黒瑞季は水の力でそれをことごとく相殺していく。
力の源を完全に封じられたリアスピサ。彼女はもはや、黒瑞季の圧倒的な体術の前に、なすすべもなかった。
腹部への重い一撃。
意識が遠のく。
彼女もまた、力なく地面へと崩れ落ちた。
ちょうどそのとき、リアウインズが、風の力で分断していた火柱をこじ開けていた。
「スピサさん!」
呼びかけるが、すでに彼女に返事をする余力はない。
そして、リアハイリンとリアウインズは、同時に黒瑞季へと向かった。
リアウインズが無数のカマイタチを放つ。
だが、黒瑞季はその風の刃さえも、吸収した。
そして、先に吸収した水が一本の巨大な鞭となって顕現した。
水の鞭がしなり、先端から、吸収したカマイタチが、無数に放たれた。
「——!」
想定外の複合攻撃に、リアハイリンは反応しきれなかった。
数発の風の刃が、彼女の肩と脇腹を切り裂く。ピリッとした痛みに続き、ろうそくを押し当てたような熱が発生し始める。しかし、リアハイリンは相手を見据え続け、黒瑞季へ突進した。
未来の自分と視線がかち合う。彼女はほそく笑み、リアハイリンが打った蹴りを、右腕で受け止めた。
全身に、痺れが走る。それは、どこか心地よい痺れ——。
「気持ちいいか? 暴力は」
「——っ!」
リアハイリンは否定も肯定もできず、後方へジャンプした。しかし、そこにはすでに、黒瑞季が放った水の鞭が待ち構えていた。
「しまっ」
そして、彼女の全身を水の鞭が包んだ。全身に散らばる熱を帯びた傷口に水が入り込み、痛みが棘に刺されたような鋭いものに変わっていく。鞭が彼女の身体を強く拘束し、骨がみしみしと鳴り始めた。
「あああ……っ!」
何十にも重なる痛みに呻いていると、
「——ハイリン!」
リアマイムの声が、遠くに響いた。
薄れゆく視界の中で、意識を取り戻したリアマイムが、水の柱を黒瑞季へ放ったのが見えた。
だが、黒瑞季は、その一撃を嘲笑う。
吸収した風の力で、いとも簡単に水の柱を霧散させたのだ。
「黙って寝ていろ、オルタナ。起き上がる限り、潰し続けるぞ」
強烈な水飛沫が霧のように舞い、リアハイリンやリアマイムの視界を奪った。
その瞬間。
「相手を打ちのめすと言うのは、楽しいものだな。——そう思うだろう?」
その声と共に、リアハイリンの天地がひっくり返った。水の鞭に拘束されたまま投げられたのだと気づいたのは、リアマイムへぶつかった瞬間だった。
激突したふたりは、もつれ合うように倒れる。リアマイムのおなかに顔をうずめたリアハイリンは、まだ黒い風の音がやまないことに気づく。
リアハイリンが顔を上げたとき、風を纏って回転する巨大な水の槍が、眼前に迫っていた。
ふたりの身体は、その圧倒的な奔流に飲み込まれ、なすすべもなく吹き飛ばされた。
結果、つい一分前まで四人立っていたはずのデシリアたちは、リアウインズただひとりだけとなった。
彼女は腰を落とし、黒瑞季へと対峙する。
黒瑞季は余裕の笑みを浮かべた。
「どうしておまえひとりを残したか、分かるか?」
「え?」
「おまえと彼女にとっての、最高のシチュエーションを作るためだ」
「彼女……?」
そのときだった。
黒瑞季の隣で、空間が楕円形に裂けた。
それは、空の邦の精霊の高度な魔法のひとつである、瞬間移動のための青い亜空間だ。しかし、その色は、リアウインズの知るそれよりも、ずっと黒く、禍々しかった。
そこから、ふたつの影が、ゆっくりと現れる。
まず現れたのは、三毛猫柄のぬいぐるみ。ヒナよりも一回り大きく、毛並みは暗くくすんでいた。初めて見た精霊だと思ったが、彼女は遅れて気づく。
「あれは、未来のヒナさん……?」
亜空間の渦から、もうひとり現れる。
黒革のミニワンピースの上に暗い紫色のコートを身に纏った少女。頭の右側は、かすかに紫がかった白銀の髪が輝き、左側は漆黒の髪が光を吸収している。
そして、鋭い眼光。
それを、アスラが見間違うはずはなかった。
「——お姉さま!?」
ナーサは無表情のまま、リアウインズをじっと見つめている。
その首に、あの紫色のネクタイは巻かれていない。
そして。
左手には、スマートフォン大の白い板——デシリル・アンプが握りしめられていた。




