第三十三話「空と希望の帰還」-1-
月明かりが、月音優菜の部屋の窓から、静かに差し込んでいた。
パジャマ姿のアスラはベランダに出て、秋の心地よい夜風を感じながら、ぼんやりと月を眺めていた。優菜はお風呂に入っているため、部屋にはいない。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは、病院のボランティアで出会った瀧本めぐみのことだった。
彼女の「生きたい」という願いを守ることができた。その事実に、アスラは安堵と小さな達成感を覚えていた。あれ以来、彼女は今まで以上に懸命にリハビリに取り組んでいた。
こうして、祖国の人々や姉にも、希望を与えることができるのだろうか。
そう、自問したときだった。
部屋の机の上に置いていたスマートフォンが、静かに着信を知らせた。それは、優菜のスマートフォンではなく、アスラのスマートフォンの振動だった。
こちらでのコミュニティにあまり属していないアスラに連絡が入ることは珍しい。振動は長く続いているため、電話だと気づき、アスラは部屋に戻った。
机の上に置かれた画面に表示されたのは、『カスパールさん』という文字列。アスラはまだ漢字をあまり読めないが、ビデオ通話であることは分かった。
スマートフォンを手に取り、緑色の応答ボタンをタップする。
「はい。アスラです」
〈やあ、アスラ。夜分にすまないな〉
画面の向こう側には、少し疲れた様子のカスパールが映っていた。背景は、見慣れた白い壁——いまだに無の邦から撤去されていない、ヘヴンのアジトのロビーだ。軍服を着てはいるが、いつもの帽子は被っておらず、短い金髪が灯りに照らされ、輝いていた。
「いえ。ちょうど手持ち無沙汰にしておりましたので」
〈そうか。君に知らせておきたい事項があってな。向こうとこちらではネットワークが繋がってないから、久々にこちらの世界へ戻ってきたんだ〉
「二週間ほど前にも来ていませんでしたか?」
アスラの不意の指摘に、カスパールは驚いたように目を見開いた。
〈……どうしてそれを知っている? いや、心当たりはあるな。テレビか。……見られてしまっていたか〉
「はい。楽しそうでしたね」
彼女は気まずそうに頭を掻いた。完全にオフな姿を、アスラに見られていたのが恥ずかしかったのかもしれない。
だが、すぐに、その表情は真剣なものへと変わった。
〈パルメダで、奇妙な目撃情報が三件ほど上がっているんだ。ナーサによく似た人物と、空の邦の精霊らしき者が共にいた、と〉
「お姉さまが……?」
〈ああ。何か、心当たりはあるか?〉
アスラは一瞬ためらった。カスパールにはまだ、ヴォイズ・アークのことを話していなかった。余計な心配をかけさせたくなかったから。
だが、隠し通す理由はない。
「実は——」
アスラは、未来から来たもうひとつの敵の存在を、正直に打ち明けた。
カスパールは、眉間に深い皺を寄せ、黙って聞いていた。
〈……なるほど。私たちの他にも、君たちの敵がいたというわけか。未来から来たとは、にわかには信じがたいが……。君が言うのなら、事実なのだろうな。……手を貸そうか?〉
「お言葉はありがたいのですが」
アスラは静かに首を振った。
「カスパールさんたちには、光の連邦と私たちの故郷との和平という、大事な使命があるはずです。私たちのことは大丈夫ですので。カスパールさんは、ご自身の任務に集中してください」
〈……そうだな。失礼した〉
カスパールは、短くそう言うと、最後に付け加えた。
〈どうにも嫌な予感がする。その未来からの来訪者が関わっているのかは分からないが。……念のために、用心したまえ〉
「はい。肝に銘じておきます」
〈ああ。では、おやすみ〉
通信が切れる。
アスラの胸に、カスパールの言葉が不安の影となって広がっていった。
◆
その翌日のお昼過ぎ。
高梁星輝の家の近くにある河川敷のベンチに、星輝と優菜は並んで腰掛けていた。
十月の空はどこまでも高く、澄み渡っている。土手の上を吹き抜ける風は、まだ夏の気配をわずかに残していた。
グラウンドでは、少年サッカーチームが声を上げながらボールを追いかけている。散歩をする老夫婦、芝生の上でピクニックを楽しむ家族連れ。すべてが穏やかで、平和な休日の昼下がりの光景だった。
「なんか、こうしてふたりだけで会って話すのって、久々な気がするな」
「言われてみれば、そうかもね」
この日、優菜と瑞季、アスラは久々に星輝の家を訪れる予定を立てていた。しかし、星輝が個別に優菜に「ちょっと、相談したいことがある」と連絡し、その待ち合わせの三十分前にふたりだけで会うことになっていた。
「それで、相談って何?」
「あのさ……。これは別に、優菜を否定するとか、そういうんじゃないってのを、まず分かってほしいんだけど」
「うん」
「……リアハイリンやリアウインズと比べてさ。ウチら、リアマイムとリアスピサの力って、なんか……ちょっと弱くないか?」
優菜は少しだけ驚いた顔をした。そして、すぐに、納得したように頷いた。
「……星輝も、やっぱりそう思ってたんだ」
「やっぱり、ってことは、優菜もか?」
「うん。薄々ね」
これまでの戦いの記憶が蘇る。
ヘヴンと戦っていた頃から、戦闘の中心にいたのは、いつもリアハイリンだった。そして、最近はリアハイリンと三人で戦い、苦戦しているところに、リアウインズが合流し、状況が一気に好転する。そんな展開が多かった。
リアマイムやリアスピサの攻撃では歯が立たなかった相手を、リアハイリンやリアウインズが、いとも容易く吹き飛ばす。そんな場面も珍しくはない。
その度に星輝は、少なからず自分の非力さを噛み潰していた。
「わたしたちの力は、役割的に地味になりがちなのは仕方ないと思う。でも、それは、アスラちゃんも同じようなものだもんね」
「瑞季の力は、ちょっと特殊なんだろうけどさ。でも、ウチらふたりとアスラの力に、根本的に大きな差があるとは、思えねえんだよな」
星輝、優菜、アスラが持つデシリル・ジェムは、光の連邦にある五つの精霊の邦が本来所持するもので、それぞれの邦の精霊の力を凝縮した宝石だ。
一方、リアハイリンの持つ白いデシリル・ジェム——正確には白にも黒にもなる透明のデシリル・ジェムは、光の連邦とは無関係に、突如瑞季の前に現れた。いわば、この世界——無の邦のデシリル・ジェムと呼ぶべき物。これは、ヘヴンのメンバーさえも存在を知らなかった、未知のエネルギーだ。
しかし、それ以外の既知の五つのデシリル・ジェムに、力の差があるとは考えづらい。
「わたしたちには何か、決定的に足りないものがあるのかな……」
「——そのとおりだ」
不意に、背後から聞こえた冷たい声。
ふたりが弾かれたように振り返ると、そこには、黒いコートを羽織った未来の瑞季が立っていた。
「てめえ……!」
「ふっ、私はおまえの大切な仲間の未来の姿だというのに。ずいぶんと物騒な物言いだな」
黒瑞季は、悪びれる様子もなく肩をすくめる。
ふたりはベンチから立ち上がり、黒瑞季から距離を取った。
「……何をしに来たの?」
「さあな。ところで、残りのふたりは来ないのか?」
星輝は、それを答えるべきか逡巡する。だが、ここで嘘をついても、すぐにバレるだろう。
「……瑞季とアスラも、もうすぐやってくるよ」
「そうか。……ちょうどいい」
黒瑞季は満足げに頷いた。
「おまえたちふたりに足りないもの……。その答えを、知りたくはないか?」
「あなたは、それを知っているの?」
「いかにも」
黒瑞季は静かに頷いた。その瞳は、ふたりの心の奥底まで、すべてを見透かしているかのようだ。
その様子に、星輝は眼を細める。
「なら、教えろよ」
「知りたいことがあるのなら、力づくで聞き出すことだ」
黒瑞季が、ぱちん、と優雅に指を鳴らした。
その瞬間、ふたりの視界がぐにゃりと曲がり、白く染まる。
身体が宙に浮くような奇妙な感覚。空間が歪み、引き伸ばされ、そして、再構築される。
次に目を開けたとき。
河川敷ののどかな風景は、どこにもなかった。
「ここは……」
建設中のビルの中だった。
何十メートルもあろうかという、高い天井。まだ、壁も窓も取り付けられていない、コンクリート打ちっぱなしのむき出しの柱が、巨大な獣の肋骨のように等間隔に並んでいる。
窓から見える景色から判断するに、オフィス街のようだ。それも、一階フロアではない。視線の高さに、隣のビルの屋上が見える。
床には、鉄骨や資材が無造作に置かれていた。壁のないがらんどうの空間を、風がヒューヒューと寂しげな音を立てて吹き抜けていく。その風は、地上よりも明らかに冷たい。
コンクリートの乾いた匂いと、鉄錆の匂い。そして、かすかに聞こえてくる、喧騒の残響。
黒瑞季は、フロアの中央に静かに立っていた。口元を鋭く吊り上げ、妖艶に星輝たちを見つめている。
「ここなら思う存分戦えるだろう。——さあ、来い」




