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黎明のデシリア  作者: 中條利昭
第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」

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第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」-7-

第三十三話「空と希望の帰還」2026/09/26 8:00投稿予定

 スレイヴとの戦いが終わり、優菜たちは試合会場へ向かって全力で駆け出していた。

 優菜の試合開始時刻は、もう目前に迫っている。ポケットの中で震えるスマホには足立先生からの着信が並んでいたが、電話に出る余裕さえもなかった。今はただ前を見て走るだけだ。

 息を切らし、風を切り裂く足音の中で、優菜の胸の中は不思議なほど静かだった。さっきまでの心の嵐が嘘のように消え、代わりに、澄み渡った青空のような感情が広がっている。

 空っぽなんかじゃない——。

 今の自分には、仲間たちへの感謝、ライバルへの燃えるような闘志、そして、これから自分の物語を紡いでいくという揺るぎない決意が詰まっている。

 体育館の入り口が視界に飛び込み、さらに脚に力を込める。

 扉を押し開けると、そこは外の喧騒とはまるで別世界だった。観客の息遣いが重なり合い、熱気を含んだ静寂がフロア全体を包み込んでいる。

 名札を掲げ、職員の横を駆け抜ける。走りを緩め、ぽつんと空いた一枚の畳へと向かう。

 そこに、ライバルはいた。

 優菜の姿を認めたその瞬間、黒縁メガネの奥の瞳がわずかに見開かれる。彼女が見た優菜の姿は、今朝とは違う、迷いなき瞳。

 そして、すべてを察したように、静かに微笑んだ。

「……待ってたよ、優菜ちゃん」

「うん。待たせて、ごめん」

 優菜もまた、まっすぐで晴れやかな笑顔を返す。

 ふたりは畳を挟んで向かい合い、視線がぶつかった。

 優菜の正面の観客席には足立先生や瑞季たちがいたが、もはや優菜に彼らのことは見えていない。

 読手《どくしゅ》が静かに、序歌の下の句を読み上げる。

〈今は春べと 咲くやこの花〉

 その歌の上の句は、『難波津《なにわづ》に 咲くやこの花 冬ごもり』。

 梅の花が咲くことを、天皇の即位になぞらえ、天皇へ向けた祝福の歌だ。

 長い冬を越え、ようやく春が訪れ、花が咲く。希望と再生の象徴として。

 自分は天皇とはほど遠い存在だ。それでもなぜか、この歌が、まるで今日この瞬間の自分へと捧げられたように感じられた。

 下の句が終わると、会場に一瞬の静寂が訪れる。

 ほんの一瞬でありながら、永遠にも感じられる静寂。

 そして、一首目が詠み上げられる。

〈これやこの 行くも帰るも 別れては〉

 その瞬間、会場中に銃声のような破裂音が連続して響き渡った。

 だが、その音は、集中を極めたふたりの耳には届かない。息ひとつ見出さない。

 空札。

 空気がより一層、鋭く研ぎ澄まされていく。

 続けて、二首目。

〈めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に〉

『め』の、たった一音。

 その刹那、優菜の手が畳の上を滑り、ぱん、と乾いた音が鋭く響く。

 茜の右陣にある『くもがくれにし よわのつきかな』の札。

 優菜は完璧なタイミングでそれを弾き飛ばした。

 まずは先手を取れた。

 その喜びを押し隠しながら、優菜は、自陣から一枚の札を茜に送る。

『ありあけのつきを まちいてつるかな』。

 そして、三首目が読み上げられる。

〈今来むと いひしばかりに 長月の〉

「!」

 優菜が驚きの一瞬を見せる間に、茜は風のように動き、一枚の札を奪った。

 その札は、優菜が茜に渡したばかりのものだった。

 自信を持って送り出した札が、すぐに読まれるとは思わなかった。

 それは、先手を取ったことによる油断に他ならない。

 優菜は深く呼吸をし、思考をリセットさせる。

 研ぎ澄まされる感覚の中、優菜は、自然と口角が上がるのを感じた。

 そして確信した。茜も同じ気持ちだと。

 四首目。

〈今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを〉

『い』——

 その一音とともに、茜の手が獣のように畳の上を疾走する。

 狙うは優菜の目前にある『ひとづてならで いうよしもがな』の札。

 優菜も手を伸ばすが、茜の方が一歩早かった。

 なぜか。

 茜が動き出したとき、読手はまだ『い』の一音しか詠んでいなかった。

 この歌の決まり字は『いまは』。『い』で始まる札は三種類あるため、その一音で判別することは、普通はできない。

 だが、優菜はすぐに気づく。

 その三種類のうちひとつは、すでに三首目で取られている。

 もうひとつは、この場には存在しない。

 つまり『い』の一音が決まり字となっていたのだ。

 その恐るべき判断力の速さに、優菜は震え上がる。

 だが同時に、心の奥からわき上がる興奮とワクワク感を抑えきれなかった。

 楽しい——。

 こんなに楽しいかるたは、初めてかもしれない。

 それに——わたしだって、そこまで考える頭は持っている。伊達に勉強をしてきてはいない。

 負けないよ。

 優菜は唇だけを微かに動かした。

 五首目。

〈うかりける ひとをはつせの やまおろし〉

『う』——

 その一音で、優菜は右膝の前にある札を、ノールックで押さえた。その手の上に、茜の指が触れる。

『う』で始まる句は二種類。もう一方は、この場にはない。

 これで勝負は振り出しに戻った。

 一度顔を上げると、茜と目が合った。挑戦的な輝きと、勝負の興奮に満ちた瞳だ。

 ふたりは同時に、口元にかすかな笑みを浮かべた。

〈ちは——〉

〈しの——〉

〈やま——〉

 互いの手が何度も交錯し、一枚取っては取り返される。残り札は少しずつ減り、気づけば勝負は最後の数枚へともつれ込んでいた。

 そして、勝敗を分ける、運命の一枚が詠まれる。

〈せをはやみ〉

 最初の一音が響いた瞬間、会場全体が一斉に息を呑んだ。

 優菜と茜は、呼吸を合わせたかのように同時にまっすぐ手を伸ばす。

 その指先がわずかに先に札に触れたのは——茜。

 勝負は決した。

 茜はその札の感触を確かに掌に感じながら、静かに喜びを噛み締める。

 一方の優菜は、微笑みながらその姿を見守っていた。

 不思議なことに、悔しさは胸を締めつけなかった。

 ただ、すべてを出し切った満足感と心地よい疲労感だけが、静かに満ちていた。

 場内から静かな拍手が広がる。

 審判の勝敗宣告を聞き届けたあと、ふたりは改めて向き合い、深くお辞儀を交わす。

 互いに手を差し出し、強く握り合った。握った手は汗ばんでいて、その温もりが伝わる。

 そして、互いの瞳から、ひとしずくの涙がこぼれ落ちた。

「……負けたよ。でもね、今までで一番、全力を出せたよ。最高だった」

「私も。……あのね、戦いながら、ふたつ思ったことがあるんだ」

「なに?」

「私はずっと、優菜ちゃんは特別な才能を持った人なんだと思ってた。でも違った。優菜ちゃんは、誰よりも当たり前の努力を積み重ねられる人だった」

 その言葉を聞いた瞬間、優菜の瞳からもう一滴涙がこぼれ、茜の手を濡らした。

「うん、そうだね……。もうひとつは?」

「特別じゃない出会いなんてない、ってこと。優菜ちゃんと出会えたことも、ここまで出会ってきた人たちも、全部が私を強くしてくれた」

 足立先生。瑞季。星輝。アスラ。ヒナ。カスパールやブラフザール、ジン。

 そして、茜。

 これまで出会ってきたひとりひとりの顔が、春の光のように胸へ浮かんだ。

「……また、戦おうね」

「もちろん。リベンジ、楽しみにしてるから」

 いくつもの道に分かれても、また必ず、この畳の上で巡り会う。

 ふたりは確信を胸に、ぎゅっと抱き合った。



(第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」了)


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― 新着の感想 ―
茜ちゃん久しぶり! 優菜、一つ強くなったんじゃないでしょうか。 特別じゃない出会いなんてない、とても良いセリフ! しかしこの敵、氷河期の私にぶっ刺さる……腐らず頑張れよ(´;ω;`)
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