第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」-6-
ルフィトヴェルツェの研究室。壁一面には意味不明な数式がびっしりと書きなぐられ、床には専門書と分解された機械部品が無秩序に散乱している。薬品と埃の匂いが混じるその空間には、常人なら長く留まることすらためらうような狂気が満ちていた。
その部屋のドアが、無遠慮にノックされた。
「入るぞ、ジジイ」
返事を待つこともなく、磐名式乃がドアを開けて入ってくる。
ルフィトヴェルツェは、巨大なカプセルのような装置の前で、何やら怪しげな液体をフラスコからビーカーへと移しているところだった。
「黒感情エネルギー、取ってきたぞ。ほらよ」
磐名は、まるでコンビニでジュースでも買ってきたかのように、黒く光る水晶を放り投げた。
ルフィトヴェルツェは、それを器用に片手で受け止める。
「どうも。イヒヒ……順調、順調。『大洪水』を起こすには、まだまだキミたちにも頑張ってもらわないといけないがね」
「あっそ」
磐名は、興味なさそうに短く答えた。
「おや。それがキミの目的ではなかったのかね?」
「アタシは、瑞季が目的を果たせるなら、それでいいのさ。あの人が、このクソみたいな世界のリセットを望むから、その手伝いをしてるだけ。少なくとも、アンタの気色悪い趣味に喜んで付き合うつもりは、これっぽっちもないね」
「奇遇だねェ。ワタクシもキミのような野蛮な猿は好かんよ」
ふたりの間に、凍てつくような緊張が流れる。
その空気を断ち切ったのは、部屋の入り口から、静かに響いた第三者の声だった。
「式乃。ご苦労だった」
黒い戦闘服を纏った女が、そこに立っていた。未来の染谷瑞季。その姿を見た瞬間、ルフィトヴェルツェでさえ笑みを止めた。
「いえ。このくらい、どうってことありません」
磐名は途端に、その表情を忠実なしもべのそれへと変える。
ルフィトヴェルツェはフラスコを置くと、不快感を隠そうともせず彼女へと向き直った。
「何の用だい? ワタクシは今、非常に取り込んでいるのだがね」
「連絡だけしておこうと思ってな」
彼女は、ふたりの不和など意にも介さず、淡々と告げた。
「ヒナに頼んでいた件が、どうやらうまくいったようだ。……彼らには、少し休暇を取ってもらう。そして来週、こちらへ帰ってきてもらう手筈だ」
その言葉に、ルフィトヴェルツェの淀んだ瞳が、ギラリと狂気の光を宿した。
「ほう。やはり彼女は適性者だったか。これは、ジン君すらも予想できなかったに違いない! ……素晴らしい、素晴らしいぞォ!」
興奮するルフィトヴェルツェの様子など気にも止めず、黒瑞季は淡々と続ける。
「そこで相談だ、ルフィトヴェルツェ。貴殿であれば、この歓迎の宴に、どのようなシナリオを用意する?」
ルフィトヴェルツェは一拍だけ沈黙した。次の瞬間、口元が裂けるように吊り上がり、肩が小刻みに震え始めた。
「そうだねェ……。イヒヒ……。イヒヒヒヒ……! ジン君の秘蔵っ子に、とびっきり大粒の絶望をプレゼントしてあげなきゃねェ……!」




