第三十二話「われても末に あはむとぞ思ふ」-5-
凄まじい水飛沫が収まり、視界が晴れた。
そこには、核である巨大なビジネスバッグだけが、ぽつんと残されていた。
だが、まだ、終わってはいなかった。
バッグから再び黒いモヤが溢れ出し、その中からスレイヴの素体の深い絶望が、心の声となって響き渡ってきた。
《違う……。やっぱり、ダメなんだ……。俺には、人に語れるような特別な個性も、輝かしい経験も、何ひとつない……》
痛々しい自己否定の言葉に、リアマイムの胸が締めつけられる。
ビジネスバッグは、最後の悪あがきのように、大量のマネキンを再び召喚した。そして、その無個性な軍団を、今度は自らの元へと吸い込み始めたのだ。
一体、また一体と、マネキンがバッグの中へと消えていく。その度に、バッグは不気味に脈動し、その大きさを増していく。
《周りはどんどん内定を決めて、未来へと進んでいくのに……。俺だけが取り残されている……》
すべてのマネキンを取り込み終えた、そのとき。
ビジネスバッグは、弾けるように、その形を変貌させた。
現れたのは、高さ十メートルはあろうかという、巨大なのっぺらぼうの巨人だった。全身がリクルートスーツのような黒色に染まっている。
その手から放たれる拒絶の衝撃波は、もはや、精神攻撃だけではない。物理的な破壊の力を持っていた。
「うわっ!?」
リアハイリンたちは、突風のような衝撃波に全身を押し流されかけた。足元の地面が削れ、踵が土にめり込む。肺から空気が強制的に押し出され、視界が一瞬、白くかすむ。それでも両腕を広げ、体重を前に預けることで、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「強化形態かな。でも」
「いつものスレイヴ、って感じになったな」
「だからって一筋縄では行かなさそうだけど」
リアハイリンとリアスピサがそう会話する背後で、リアマイムは生身で倒れるアスラを庇っていた。
「ヒナ!」
リアマイムの呼びかけに反応し、ヒナが小型ロケットのように素早く飛んでくる。耳がぴんと立ち、目は状況を瞬時に把握していた。
「アスラちゃんを安全なところへ!」
「了解だニャ!」
ヒナがアスラの身体に触れると、その周囲に青い亜空間の渦が現れ、ひとりと一匹が飲み込まれる。
仲間が安全圏に消えたのを確認し、リアマイムはわずかに息を吐く。安堵の隙間も一瞬だけ——すぐに顔を引き締め、再び巨人と化したスレイヴへと正面から向き直った。
リアハイリンとリアスピサが、左右から同時に巨人の脚へ飛び込む。
リアハイリンの蹴りが脛を捉え、リアスピサの炎が膝を包み込む。しかし、黒い装甲は鈍く震えただけだった。まるで巨大な鉄塔を殴りつけたような反動が腕と脚へ跳ね返ってくる。
「硬っ……!」
次の瞬間、巨人がゆっくりと足を踏み鳴らした。
轟音とともに地面が波打つ。公園全体が揺れ、石畳がめくれ上がり、街灯が一本、根元から折れて倒れた。噴水の水柱が崩れ、近くの植え込みが土ごと吹き飛ぶ。
三人は大きく飛び退いたが、それでも衝撃は足元から身体を突き抜け、肺の奥まで震わせた。
巨人は顔のない顔をゆっくりと三人へ向けると、その腕を横薙ぎに払う。
リアマイムたちは散開して躱すが、腕が通り過ぎた軌道上の木々が一斉になぎ倒され、遅れて爆風が吹き荒れる。
そして巨人は、胸いっぱいに絶望を溜め込むように身体を膨らませた。
《面接官も、誰も、本当の俺を見てくれない……!》
巨人の拳がゆっくりと振り上げられる。
《いっそ、『何者でもない存在』にでも、ならせてくれ!》
絶望の叫びとともに、その拳が振り下ろされた。
「——させない!」
リアマイムが飛び出す。
両手を掲げると、渦巻く水が重なり合い、一枚、二枚と透明な盾を生み出した。
拳が激突する。最初の盾は一瞬で砕け散り、飛び散った飛沫が雨のように降り注ぐ。
続いて二枚目。水面のように大きく波打ったかと思うと、耐え切れず、轟音とともに四散した。
押し寄せる衝撃は、なお止まらない。
「まだ……!」
リアマイムは一歩、前へ踏み出した。
砕けた盾の向こうへ、自分の身体を割り込ませる。
三枚目の盾は、水ではない。
自分自身だった。
轟音。
巨人の拳が、小さな身体へ叩きつけられる。
肺の中の空気が一瞬で押し出され、背骨の奥まで衝撃が突き抜けた。水の鎧が砕け、飛び散った雫が頬を裂く。それでも、リアマイムは歯を食いしばり、一歩も退かなかった。
リアハイリンもリアスピサも言葉を失い、ただその背中を見つめることしかできない。
ゆっくりと、リアマイムは巨人と化したスレイヴを見据える。
声は震えていた——だが、その瞳の光は、欠片ひとつとして揺らいでいなかった。
「……確かに、わたしの言葉は、物語から借りてきたものかもね。でも……!」
それは、スレイヴへ向けた激励であり、自分を信じてくれた仲間たちへ向けた感謝であり、そして何よりも、自分自身へと向けた、魂からの宣言だった。
「誰だって、誰かに影響されて生きてる。人の言葉を借りることだって、悪いことなんかじゃない!」
彼女の叫びに呼応するように、傷ついた全身から、蒼く清らかな光が溢れ出す。
「それを、何度も何度も繰り返して、いつか自分の言葉や力にしていけば、それでいいんだから!」
その叫びと共に、彼女が操る水は、今までとは比較にならないほどの輝きと力を放ち始めた。
それは、誰かの模倣ではない。
月音優菜というひとりの少女が紡ぎ始めた、彼女自身の力だった。
水の輝きが、巨大な鏡を作り出した。そこに映るのは、スレイヴの醜いのっぺらぼうの姿ではない。スーツを着た、ひとりの不安げな青年の姿だった。
「これまであなたが学んだこと。必死に、頑張ってきたこと。あなたが本当に好きだったこと。なりたかった自分の姿……。それに、もう一度目を向けてあげて」
《でも……俺には、何もない……》
「そんなことはないよ。ただ、自分では、なかなか気づけないってだけ。自分が思わず隠したくなっちゃうところに、案外大事なものがあったりするんじゃないかな」
巨人の黒い装甲に、ひびが入る。
その隙間から、黒い感情と共に、わずかな白い光が漏れ出した。
《そうだ……スーツを来て隠さないといけない、って思ってたところがあるってことは……それこそが、俺の個性……》
「うん」
リアマイムは、自らに言い聞かせるように、言い切った。
「個性は、隠そうとさえしなければ、勝手に出てくるもの」
リアマイムは全身に柔らかな水のエネルギーを滾らせながら、ゆっくりと天へ両手を掲げた。肌の内側から溢れる熱が、波となって血流を駆け巡る。
「『黒き感情、流れゆけ。デシリア・フライト・シャワー!』」
詠唱と同時に、頭上から幾千もの光の雫が降り注ぐ。それはただの水ではない——魂のよどみを溶かし、抱えた痛みごと優しく包み込む、浄化の奔流だった。
それは巨人の分厚い胸を貫き、凝り固まった心の奥底へ染み渡っていく。黒い靄が少しずつ剥がれ落ち、透明な波がそれを攫い、どこか遠くへと運び去った。
やがて、スレイヴが身にまとう黒いスーツがほどけていく。淡い風に舞い上がって消えていく。その下から、ひとりの青年が現れる。
パチパチ、と乾いた拍手の音が響いた。
振り向けば、ベンチに腰掛け、ゆったりと手を叩く磐名の姿がある。
リアマイムはまだ変身を解かず、彼女へとまっすぐ歩み出す。足音は硬く、迷いがない。
「あなたなんかに、わたしは、もう惑わされない」
その瞳は研ぎ澄まされた刃のように、磐名を射抜く。
だが、磐名は鼻で笑った。唇の端から、紫煙がふわりと漏れる。
「いや——アンタは、まだまだ惑わされるよ」
「どうして」
「悩まない人間なんて、この世にはいない」
磐名は、どこかさみしそうに笑った。
「アンタは結局、どこにでもいる、しょうもない大人になる」
呪詛のように低く吐き出された言葉が、空気を重くする。紫煙が輪を描きながら宙に溶け、その奥で磐名の輪郭がゆらぎ始めた。
次の瞬間、空間が歪み、彼女の姿はかき消されるように消えていった。




